年間王者はダレだ? バトルロイヤルheisei25
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ジュブナイル
(大沢愛)
投稿時刻 : 2013.12.22 23:50 最終更新 : 2013.12.22 23:52
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- 2013/12/22 23:52:40
- 2013/12/22 23:50:17
ジュブナイル
大沢愛


 もう半世紀近くも前のことになる。同級生たちから遅れること二年、ようやく小遣いをもらえるようになった頃、ぼくは模型飛行機に夢中になっていた。

 周囲の男の子たちの関心はもっぱらプラモデルに集まっていた。学校の裏手を流れる川を渡ったところにある「大橋玩具店」に学校帰りに立ち寄り、一回十円のくじ引きで当てた駄菓子をほおばりながらプラモデルが積まれた棚をあれこれ眺め、箱の横に小さく描かれた絵を見比べた末に気に入った箱を抜き出す。箱の上面いっぱいにこれでもかというくらい魅力的な写実画が印刷されていて、それの良し悪しが決定打となって店のおばあちゃんのところへ箱を持っていくことになる。おばあちゃんは緑と桃色の二種類の包装紙を客が男の子か女の子かによって使い分けていた。緑の包装紙を手際よく箱に巻きつけ、たいていは大きさが足らずに箱の裏が覗いてしまうが、そのまま金色の平紐でななめにくくり、手に提げられるように端を小さく輪っかにしたところではじめてお金を受け取り、おつりと一緒に渡してくれる。包装紙の印刷の匂いは当時のぼくたちをうっとりとさせた。「大橋玩具店」にはともだち同士で行くことが多かったが、買い物をするときに仲間の中のボス的な者が混ざっていると必ずしも幸福は長続きしなかった。ボスは仲間が何か買うと、必ずその家までついていくかあるいは自分の家まで連れていって、目の前で包みを開くことを強要した。箱の絵に比べて実際の中身は大きく見劣りすることがほとんどだった。
「なんだこりゃ。つまんねーの。」
と言いながら自分の好きなように組み立ててその場で遊び、場合によっては
「こんなもん、いらねーよな?」
と迫ったあげく自分のものにしてしまう。小遣いをはたいてやっと買ったものが有無を言わさずボスに取り上げられてしまうのを、ぼくたちはじっと眺めているしかなかった。
 晴れて小遣いがもらえるようになって、それまではボスの搾取の対象から外れていたぼくは対策を迫られた。ようやく与えられた小遣いは同級生たちの相場の半分程度だった。これまで通り「親に叱られる」という理由で買い食いには加わらないにしても、誰にも知られず買い物をすることは不可能だった。「大橋玩具店」にはいつも誰かしら子どもがいたし、店のおばあちゃんは店内にいる子どもをつかまえては「○年生の○○くんが昨日、これを買ったよ。」と教えてくれるのを常としていた。憧れのプラモデルのほとんどは当時のぼくの小遣い数か月分に相当していた。我慢を重ねた末にようやく手に入れたものをボスにあっさりと横取りされてはたまらない。そんなとき、ぼくの目を引いたのが、プラモデルの棚の横に吊るされた袋入りの模型飛行機だった。千歳飴そっくりの縦長の袋には第二次世界大戦中の戦闘機の絵が印刷されていた。プラモデルの絵に比べて明らかに粗悪だったが、何しろ値段が安かった。百円出せばおつりがくる。そして決定的だったのは袋を手に取ったぼくに向かってボスが言ったひと言だった。
「しょーもな。つまんねーぞそれ。」
 これならボスに目をつけられる心配はない。ぼくはわざとつまらなさそうな顔で、その袋を店のおばあちゃんのところへ持っていった。
 ボスにつきまとわれることもなく無事、家に帰り、ひとしきり包装紙の匂いを嗅いだあと、袋を開けた。中に入っていたのは長い割りばしのような棒材と、袋入りの竹ひご、銀色の細い管、束ねたゴムひも、それにプロペラを含むプラスチックや針金、そして何か印刷された半紙に似た紙だけだった。同封された図面を見ると、製作手順と実物大の翼の図、それに完成した形が載っていた。それは袋に印刷されていた絵とは似ても似つかない、貧弱な枠組みに紙を貼りゴム動力でプロペラを回して飛ばすだけの代物だった。ボスの言葉は正しい。ぼくは言葉を失ったまま、ほぼひと月ぶんの小遣いを費やしてまで手に入れたそれを眺めていた。粉々になった高揚感を手探りで組み合わせているうちに、ふと、こいつは本当に飛ぶんだ、という言葉が浮かんだ。プラモデルの飛行機は確かにカッコいいけれど、飛ばすことはできない。誰かのゼロ戦のプラモデルを「飛ばしてみようや。」とボスが言い、部屋の中で何度か失敗したあげく、二階のベランダから投げてバラバラにしてしまったことからもそれは明らかだった。高価なラジコン飛行機の存在は知っていたが、裕福な家の子どもでさえ持っていなかった。かすかに現実的だったのは「Uコン」と呼ばれる飛行機で、これは確かにエンジン音とともに飛んだが、ピアノ線につながれて円周を周回するだけだった。もちろんこれもかなり高価なもので、手にすることができた年上の子どもたちは誇らしげに操縦してみせるのだが、ぼくたちは中途半端な失望感とともに見上げていた。「これならプラモデルにひもをつけて振り回すのと変わらない」という言葉を胸に秘めたままで。
 それに比べると、こいつは自分で、しかも周回するだけではなく飛んでいく。細い材木をつぎはぎした貧相な姿は戦闘機の精悍な姿とはまったく別物だったが、本当に飛ぶというかすかな期待感がぼくを図面に向かわせることになった。
 製作手順は、まずは部品を作り、次にそれを組み合わせ、接着して完成させるという、ある意味、プラモデルと大差のない流れだった。ただし、部品のうち主翼、尾翼、垂直尾翼の枠となる竹ひごは真っ直ぐなままで封入されていて、これを図面通りに曲げることが求められていた。家の仏壇から拝借した蠟燭に火をつけ、灯心の上にかざして力を加え、ゆっくりと曲げていく。小遣いをもらえなかった時代に近くの竹林から切ってきた竹で細工をして遊んでいたおかげで要領は分かっていたが、細く乾燥した竹ひごは油断しているとすぐに焦げ、場合によっては火がつくこともある。そうなると急に弾力を失い、くしゃっと折れてしまう。ある程度の曲げができたら、あとは組み立て段階で補正すればいい。尾翼、垂直尾翼は長い割りばしのような棒材に差し込んで接着するが、そのための穴は自分であけなければならない。図面を見る限り、垂直な穴と、斜めの穴とが必要だった。納屋の工具箱からこっそり持ち出した錐で穴をあけ、図面に沿って曲げた竹ひごの先にセメダインをつけて差し込む。主翼に関しては左右それぞれにバルサ材のリブがついていて、先端部の曲げがある程度できていればリブに沿わせることでおおむね恰好がついた。竹ひご同士を銀色のニューム管でつなぎ主翼台に通して固定すると翼の形になる。骨組みだけとはいえ、そこには飛行機があった。真っ直ぐな竹ひごや棒材だったものを立体化させてかたちを作ることには何とも言えない喜びがあった。半紙のような紙は翼に張るためのものだった。一応、薄い赤で翼の形に点線が印刷され、翼の先端部分は赤く染められていた。はさみで切り取り、フエキ糊を塗りつけた翼の骨組みにのせ、皺にならないようにぴんと張り、竹ひごを覆うように紙の端を巻きつける。より美しい仕上がりを求めて霧吹きを使うようになるのはまだ後の話だ。
 プロペラ中心部にプラメタルからプロペラシャフトとビーズ玉を通し、先端を曲げて固定する。V字型の脚の先に車輪を取りつけ、プラメタルに差し込んで機首ができあがる。棒材後部にゴムフックをねじ込み、ゴムひもを通し、プロペラシャフトの端っこの輪っかにつなぐ。
 できあがった飛行機は、糊のにおいを漂わせながら縁側の板の上で午後の陽射しを受けていた。全長四〇センチ余りの機体は、華奢なつくりにもかかわらず不思議な存在感を放っていた。このままどこかに飾っておきたかったが、全長と同じくらいの主翼長が災いして、どの棚にも乗せられない。机の上になら置けるが、そうなると机は使用不可能になり親に大目玉をくらうだろう。天井から吊るせば、掃除に来た母親に文句を言われた挙句に捨てられるのは確実だ。袋から出して作り上げた瞬間から、この模型飛行機の居場所は空しかなくなったのかもしれない。
 なるべく人のいない、飛行機を飛ばせるだけの広さのある場所といえば、小学校の校庭しかなかった。もちろん河川敷や山、田んぼもあるが、いずれも木の枝に引っ掛かったり川や用水路に飛び込んでしまう恐れがあった。チームスポーツの流行前で、三々五々集まった子どもたちは日が傾くといつの間にか姿を消していた。ときどき自転車に乗った中学生が現れることもあったが、彼らはたいてい遊具のあたりにたむろしていたから、体育館を挟んで反対側のエリアにやって来ることはなかった。
 風を受けて壊れることのないように体でかばいながら、体育館裏まで飛行機を運んだ。プロペラを回してゴムをしっかりとねじり、風向きを確認すると、斜め上に向けて機体を投げ出した。風切音とともにプロペラは回転し、飛び立った飛行機は空中でくるりと一回転し、そのまま地面に突っ込んだ。プロペラは暴れ続け、翼は地面でのたうち回った。あわてて駆けつけて持ち上げ、プロペラを回し終えて改めて機体を眺める。主翼のふちは地面に叩きつけられて破れかけ、プロペラシャフトも微妙に変形していた。シャフトのゆがみを修正し、思いついて主翼の角度を変えてみる。ニューム管の接合部分は柔らかく、丁寧に力を加えると曲げることができた。ゴムを巻き、今度は水平方向に向けて機体を放す。機体は真っ直ぐに、地面に平行に飛んでいく。しだいに右方向にずれ始め、校舎の角を曲がって見えなくなった。息を切らせて追いかけ、校舎の向こうで見たものは、手洗い場の溜まり水に突っ込んだ飛行機がプロペラで水をかきまわしている姿だった。救い上げると、ゴムに残った最後の動力がプロペラを勢いよく回して水を撥ね散らし、水を吸った翼の紙がべろりと剝がれて垂れ下がった。ぼくの模型飛行機第一号は、完成後二時間も経たない間に全損状態になった。
 模型飛行機にとって大敵なのは水と木の枝だった。水に飛び込んだ第一号機は翼に習字の半紙を張り直して改めて飛ばしてみたものの、急旋回や急降下を繰り返し、最後には柵に食い込んで竹ひごがぐしゃぐしゃに折れてしまった。水を吸った木材が乾くにつれて変形し、意図しない空気抵抗を生じたらしい。木の枝の場合は翼の紙が破れるのはもとより、プロペラの動力によって密集した小枝の中で機体が暴れることで翼の枠組みそのものに大きなダメージを受ける。わずかなバランスの狂いが飛行に大きな影響を及ぼすことは、第二号機が再起不能となるころにはいやというほど身に染みていた。そのころからぼくは夢の中でも「翼が欲しい」とは思わなくなった。翼で空を飛ぶには必要な重量バランスがある。自分の体に翼を生やすなら、その代わりに両腕は切断しなければならない。胴体部分も内臓を取れるだけ取り払って軽量化が必要だろう。そして翼を動かすには隆々とした筋肉がなければならない。さらに言えば脳が重すぎる。徹底的に切除し、運動神経だけは残すとしても、あとにはそれこそ自分がいま空を飛んでいることすら認識できない程度の知的能力しか残されていないだろう。そんなになってまで翼が欲しいとはとても思えなかった。自分がいま持っているものをひとつも犠牲にすることなく「翼をください」と願うことは許されない。のちに「おこがましい」という言葉がそこにあてはまることになる。
 「大橋玩具店」に行くたびに、模型飛行機の袋を眺めるのがいちばんの楽しみになった。仲間の手前、プラモデルの棚を物色してはあれこれ言い合っていたが、飛びもしない飛行機はたとえ形が美しくてもそれだけのものでしかなくなった。ゼロ戦や隼、疾風、紫電改、九七式、メッサーシュミット、スピットファイヤー、ホーカーハリケーン…。パッケージの絵は相変わらずどれもこれも素晴らしかった。それはとりもなおさず、そこには飛行機の飛んでいる姿が描かれていたからで、箱の中に入っているのはモノトーンのプラスチックで成形された飛べもしない飛行機の似姿だった。電池とモーターを内蔵して走らせることのできる車のプラモデルもあった。走るというのは魅力的で、現に仲間の一人が買って例によってボスに好き放題にいじられたのだが、組み立てを終えて部屋の中で走らせてみると期待していたものとは少し違っていた。確かに走った。真っ直ぐに同じ速度で、壁や柱に突き当たってもそのまま車輪はカーペットを擦って空回りし続けた。面白いかと言われると何とも答えにくかった。国道わきに佇んで通過する見知らぬ車を見送ったときの気持ちに似ていた。前輪は調節可能で、曲げてみると大きく左に曲がってベッドの下の隙間に走り込み、どこかに突き当たったのだろう、出てこなくなった。手を伸ばしても届かず、ベッドは作りつけで動かせなかった。あきらめたぼくたちの耳にはいつまでもモーターと車輪の呻くような回転音が聞こえ続けた。あとで聞いたところでは、一晩中、ベッドの下から徐々に弱ってくるモーター音が続いて寝つけなかったそうだ。翌朝、電池が切れて音がしなくなったときにはほっとしたという。モーターと電池でプロペラが回る飛行機のプラモデルの存在を知ったときには平静ではいられなかった。スイッチを入れたら最後、空をどこまでも飛び続けるプラモデルには、微調整を重ねつつ数十メートルの飛行に挑戦しているぼくの模型飛行機にはない美しさがあるように思った。意を決した仲間が「大橋玩具店」で買ったときにはボスを上回る熱心さで家までついていった。どきどきしながら設計図を見せてもらったとたん、帰りたくなった。確かにモーターも電池も機体に内蔵されていて、スイッチを入れると回転する、とある。しかし、それはどう見ても飛行機を飛ばせるだけの力はなかった。箱の中には一メートルほどのテグスと、ヒートンが入っていた。ヒートンを天井にねじ込み、テグスで機体を吊るし、スイッチを入れると円周を描いて「飛ぶ」という。ボスは早々と製作を放棄した。通常のプラモデルの倍近い値段のつけられたそれを買った友達は仕方なく一人で組み立て始めた。できあがった機体を、説明書通りにテグスにつなぎ、スイッチを入れた。プロペラは回転し、やがて周回を始めた。赤ん坊のベッドの真上に吊るす玩具に似ていた。空中にひたすら円錐形を描きながらプラモデルは飛び続けた。
「まるっきりやる気のねえUコンだな。」
 ボスの口調もいつになく萎れていた。遠心力に揺さぶられて天井は軋み、砂埃がぱらぱらと降ってきた。放っておけば電池が切れるまで回り続ける。電燈に惹かれて迷い込んだ巨大な蛾を黙らせるべく、スイッチは切られた。包装紙やプラモデルの箱、部品の袋は早々に片づけられ、残ったのは天井からぶら下がった飛行機だけだった。
「これ、そこの窓から投げたら飛ぶかな。」
 誰かが言った。ふだんならボス以外の口からこうした言葉が出ることはなかったが、そのときは違った。皆、のろのろと賛成した。最後にプラモデルの持ち主が「やってみよう。」と言い切った。窓が開けられた。機体に結びつけられたテグスは、ほどくのではなく持ち主自らがはさみで切断した。スイッチを入れるとプロペラは平然と回り始める。機体の中ほどを掴み、思い切り宙に投げる。プラモデルは飛行機らしい滑空姿勢もとらず、ぶざまにきりもみしながら落下し、乾いた音とともに庭石にあたってバラバラになった。電池は外れ、プロペラも折れて、もうあのいまいましい回転音はしない。期せずして歓声が上がった。新品のプラモデルが壊れるときに拍手が起きたのは、おそらくあのときだけだったはずだ。
 いくつも模型飛行機を作っては飛ばしているうちに、あることに気づいた。模型飛行機のキットを売り出している会社によって飛び方に明らかな特徴があった。袋の印刷が鮮明で棒材や竹ひごも上質でしっかりしているものは確かに丈夫だったが、全体的に鈍重で飛行距離も出なかった。逆にいかにも安っぽいパッケージで翼の紙も粗悪な、明らかにやる気のなさそうなものは、実際にひ弱ですぐに壊れるものの、思わぬ軽やかさで飛行距離の記録を大幅に更新してしまうことがあった。ぼくはなるべく粗末で怪しげな袋を物色するようになった。幸いなことにきれいな袋のものより値段も安かった。重ねて吊るされた奥の方から、いかにも見どころのありそうな小汚い袋を見つけ出して店のおばあちゃんのところに持っていくと、気の毒がって三十円まけてくれたこともあった。
 人気の絶えた夕暮れどきの校庭が模型飛行機のための飛行場になった。そこで行われることは基本的には失敗の繰り返しだった。直進するかどうか、うまく風に乗って飛行距離を出せるかどうか。一回飛ばすたびに修正を加え、再び飛ばして修正の方向性が正しかったのかどうか、新たにどう修正を加えればいいのか、ひたすら考えた。必要なのは創意工夫というよりも、むしろ記憶力だった。どういう調整の結果どういう飛び方をしたのか。その原因を考えるためには飛行状態の克明な記憶がなければならない。記憶の前提のない創意工夫は単なる思いつきでしかなく、何の役にも立たなかった。薄暗くなっていく校庭でたった一人、何度も何度もゴムを巻き、飛び立った飛行機に目を凝らしながら全力で走って追いかける。傍から見れば少しも楽しそうには見えなかったかもしれない。おそらくそのころ気づいたのだと思う。「楽しい」と「楽(らく)」とは似て非なるものだ、ということに。
 飛行距離更新のために粗悪なキットにこだわったせいもあったけれど、模型飛行機の寿命は短かった。苦心の末に完成し、校庭に持ち込まれ、飛行と着地を一時間ほど繰り返すうちに、地面に擦りつけられ、脚は歪み、泥にまみれ、部屋に持ち帰るのが憚られる状態になる。それどころか、翼が外れたり、プロペラのシャフトが折損したりで、もはや使用に耐えなくなることも多かった。そうなった飛行機をぼくはためらうことなく捨てた。修理してでも再び飛ばそうと考えなかったことは今から考えると不思議な気もするが、耐久性に乏しい材料でできあがっている模型飛行機はそもそも修理を受けつけなかったのも事実だ。部品をばら売りしてくれる店もなければ通信販売のすべもない。文房具店で太さの違う竹ひごを買い、半紙を貼り直し、挙句にバランスの狂ったまともに飛ばない状態に、と考えると、新しいのを買った方が早かった。子ども特有の冷淡さをそこに見る向きもあるかもしれない。ただ、それ以上に当時のぼくは、手塩にかけた美しい飛行機の補修だらけの惨めな姿を夕暮れの校庭に晒したくない、という思いの方が強かった。
 巻尺で正確に測定したことはなく、模型飛行機の飛行距離は、体育館の周囲のコンクリートと地面との境界線から飛ばして、校庭をどこまで飛べるかで測っていた。最初の頃は真っ直ぐに飛ばすことが難しく、校庭のちょうど中間にあたる国旗掲揚台とプール更衣室とを結ぶ線まで到達することが夢だった。直進が可能になってからは、三分の二地点である砂場まで、そして四分の三地点の肋木までが目標になった。校庭の端まで飛ばすことができたとして、その先についてはまるで考えていなかった。校庭の端に広がる緑色の柵の向こうは田んぼだった。その手前には用水路があり、目標を達成した瞬間に飛行機はかえらぬものとなってしまう可能性もあった。
 その模型飛行機は今までのキットのなかでもひときわ安っぽく見えた。まず、埃まみれの袋は赤の単色刷りだった。店のおばあちゃんに渡すと、ぼくの気が変わるのを恐れたのかひどく手際よく包んでくれた。家に帰って袋を開けてみると、主翼の竹ひごも細く、翼に張る紙も薄くパリパリしていた。設計図もほとんど説明文がなく、実物大の翼の図面以外は縮尺を無視した絵が数枚あるだけだった。今まで何機も製作していなかったら確実に組み間違えるところだ。それでも組み立てはいたってスムーズで、糊の乾燥も含めて一時間もかからなかった。主翼の途中からの上向きの反りは完璧に見えた。いつも気になる水平尾翼と垂直尾翼の角度・バランスも申し分なかった。付属のゴムひもはやや細く、耐久性はなさそうだったが、そもそもゴムの限界まで持ちこたえた機体はなかったからこれで十分だとも言えた。そういえば、いままで廃棄した機体から使えそうな部品を取り外して使うこともできたはずだったが、なぜか一度もやったことがなかった。ぼくは模型飛行機を一機ごとに飛行に耐えなくなると丸ごと捨て、プラメタル一つ、ビーズ玉一個に至るまで新しい機体に引き継ごうとはしなかった。プラモデルを作っている友達でさえ、壊れたプラモデルから部品を取り外し、モーターや車輪はもちろん、キャタピラや砲塔、キャノピー等を保存していた。そうした廃棄部品を組み合わせてオリジナルのモデルを作ってみせることがあって、中にはすばらしいできばえの宇宙船があったりしたが、まねしようとは思わなかった。まずは飛ばすこと、そしてより遠くまで飛ばすこと、そのためにはよけいなものはそぎ落として風に乗せなければならない。その結果、遠くまで飛ぶ機体は美しかったが、飛ばなければいかに贅を凝らしても美しさは感じられなかった。
 完成した機体を夕暮れの校庭まで持っていった。季節はたぶん秋だったはずだ。体育館のそばまでいく。いつもは風にあおられるはずのビニール袋が重しなしでコンクリートの上に置けた。段差のところに駄菓子の空き箱が転がっている。「大橋玩具店」で見慣れた外れくじの景品だった。緑色の柵が横に広がっていたはずだが、ぼくは茜色に染まりかかった雲を見上げていた。プロペラをゆっくりと巻いていく。力任せに巻き過ぎてはいけない。ゴムフックが軋むほど巻いたときには航路を乱して地面に叩きつけられた。安物のゴムひもだった。もしかすると、このゴムが最高の力を出せるのは最初のこの一回だけかもしれない。翼も機体もこの一回で大幅にダメージを受け、あとは半分も飛べないまま廃棄されるかもしれない。限界まであと少しというところまで巻き終えると、ぼくは校庭に向き直った。両手で飛行機を捧げ持つ。左手でプロペラを、右手で機体を。左手を離し、ほんのわずか遅らせて右手でそっと宙に押し出す。機体はそのままゆっくりと空に舞い上がった。プロペラの回転に引きずられるような荒々しい飛び方や、堅牢な翼をプロペラで持ち上げるような飛び方や、さまざま飛び方があったが、その飛行機には何もなかった。ただ吸い込まれるように空に向かっていった。いつものように追いかけるのを忘れて、しばらく静止して見える機影に見とれていたが、我に返って走り出した。このままだと見失いそうだ。空と遠ざかる機影とのあいだには遠近感はなくなっている。肋木や灌木は追いかける視界には入ってこなかった。砂場に足を取られ、体勢を立て直して走る。茜色の濃くなった雲の青みがかった陰をかすめて機影は飛び続けている。明らかに小さすぎる。どれほどの距離があるのかわからない。気がつくと、緑色の柵のそばで東の空を見上げていた。飛行機は飛んで行ってしまった。少しずつ茜色が遠ざかり藍色に変わってゆく空に目を凝らして、いつまでも機影を探していた。
 
 それを最後に模型飛行機を作るのをやめた。あの飛行機はどうなったのだろうと思う。あれからもう何十年も経ったが、夕暮れに空を見上げるとあのときの飛行機が今でも飛び続けているような気がする。
                  (了)
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