桜色の未来
「見積もり期限には今週中ということだが、今回は複数社での相見積りと聞いている。返答が早いに越したことはない。なるはやで頼む」
上司、三上の言葉に、後輩の田中は声を潜めて隣の席の私に尋ねた。
「なるはや
って、なんすか?」
「なるべく早くってことや」
質問が聞こえていたのか、向かいの吉田が同様に、声を潜めて答えた。
大阪営業所出身の彼は、こっちに移って数年経つが、まだ大阪弁が抜けないらしい。いや、あえて大阪弁を直そうとしないのか。以前に『大阪弁で話してると、女の子たちが面白がってくれるんや。お笑いブームのお陰で、大阪弁に慣れてきたっちゅうのもあるんかも知れんな。得意先でも覚えてもらえやすぅて、特することも多いんや』と得意そうに言っているのを聞いたことがある。大阪弁はともかく、彼の押しの強さ、平気で会話に割り込んでくる厚かましさにはいつまでたっても慣れることはできないのであるが。
そんな私の内心など気付かぬ風に、田中は薄笑いを浮かべながら吉田に頷いた。
「あー、なるべく、はやく、で、なるはや、かぁ」
「なんしか、急いでやれっちゅうことやな」
「なんしかって、なんすか?」
「もちろん」
三上は、こちらを見ながらいっそう声を張り上げた。十人にも満たない部署の中での内輪話に気付かないはずはない。吉田と田中を見つめながら、重々しい口調で言った。
「もちろん、最優先されるべきは値段だ。ここで取っておかないと次に繋げることはできん。赤を出す覚悟でやってくれ」
それだけを言うと、さっさと部屋の中央にある自分の席へと戻った。
私は小さくため息をつき、わずかに逡巡した後、資料と背広を手にしながら立ち上がった。
「吉田さん、設計の手配は頼みます。田中、本多工業へ行くぞ」
「え、わざわざ行くんすか?」
「こういう無理を頼む時は、メールやファックスより出向いたほうがいいんだよ」
「そんだけ本気やちゅうプレッシャーを相手に与えることができるからな」
訳知り顔で言う吉田を無視して、私は部屋を出た。
値段を下げるということは、こちらの努力以上に、下請けに無理を負わせることが大事だ。より、値段を負けさせるか。次に繋げるという言葉を餌に、ギリギリのところまで値段を下げさせる。
滅多にないことなら、今回だけ泣いてくれとも言えるが、このところずっと無理を言い続けている。無条件で10%の協力値引きをさせているにも関わらずに、だ。
本多工業の社長の泣き顔に似た愛想笑いを思い出しながら、私はもう一度ため息をついた。
しかし、本多の社長も我が社以上にその下請けに無理を言っているに違いない。ピラミッドの底辺に行けば行くほど利鞘が低くなっていることは当然の理なのだ。
親会社、子会社、孫会社、その下請け、その下請け、その下請け……取り分が少なくなるさまはまるで、マトリョーショカのようだとも思う。
「大丈夫すか? 顔色悪いっすよ」
車に乗り込んだ私に、運転席の田中が怪訝そうな口調で言った。私は鞄を胸に抱えたまま、小さく頷いた。
本多工業に向かう途中に、パチンコ屋がある。春風に翻るのぼりに「薔薇色の未来が待っている!!!」という陳腐な言葉が書かれている。
信号で停まった田中は、小さく
「薔薇色っていうのは気恥ずかしいから、俺は桜色の未来くらいでいいですね」
と笑った。
「お前は気楽でいいな」
呆れながらもそんな田中が羨ましくて、私は小さく笑った。
嫌だと思っていても仕方ない。互いの最善を探るとしよう。それが俺の仕事だ。
「ところで、なんしか、って何すか?」
「……戻ってから、吉田に聞け」