落ちた駕籠かき
羽織は羊羹色に色褪せ、落し差しにした刀の鞘は擦り切れている。足を引き摺るようにして、見るからに浪人とい
った風情の男が、山の中の街道をとぼとぼと歩いていた。
陽さえめったに差さぬような薄暗い山中である。山肌を覆う苔はしっとりと濡れて蒸せるような匂いを放っている。道の反対側は切り立った崖になっており、下からはわずかながらせせらぎの音が聞こえてくる。
男は足を止めた。
人の声が聞こえた。男の声で、怒鳴っているようである。
道の先はゆるりと左へ曲がっており、木々が邪魔になって見通しが悪くなっている。男は刀の柄袋を取り、閂に挿し直した。右手で破れた笠の紐を解きながら慎重に足を進めると、やや開けた大木の根元に駕籠かきがいるのが見えた。四手駕籠は地面に下ろされており、中に老人が座っているのが見える。
駕籠かきの一人は、恫喝するような低い声で言った。
「お客さん、終点ですよ。何度言ったら分かるんですかねぇ」
尻端折りをした上半身は裸であり、りゅうと盛り上がった筋肉を誇るように腕を回しながら言う。
中の老人は、怯えるような目で駕籠かきを見上げる。
「わ、わしは次の宿場まで、と頼んだはずや……」
それを聞いて、もう一人の駕籠かきも口を開いた。
「はぁ、聞こえませんなぁ? 最近耳の通りが悪くてね。酒手をはずんでもろたらもうちょっとよく聞こえるかもしれませんがね」
若く、きんきんとした声だ。さっき聞こえた声の主は、この男のものらしい。
浪人の男はゆっくりと歩いて行った。
「無体なことを申すでない」
突然現れた侍に、駕籠かきたちは驚いたように振り返った。
「な、なんでぇ、てめえは」
高い声の男を制するように、上半身裸の方の男が、手を広げながら落ち着いた口調で言った。
「お目汚しをしてすみやせん。どうぞ、気にならさずにお通りください」
相手が痩せた、みすぼらしい侍だと侮るような慇懃な口調であった。
男は目を細めた。
「老人をいたぶっている破落戸共を見過ごしていくわけには参らぬな。わしが一緒に付き添ってやるゆえ、早く駕籠を担げ」
「付き添いって何だよ。何言ってんだこの野郎」
殴りかかってきた若い方の男が息杖を振り上げて殴りかかってきたが、男はなんなく体を交わしながら足をかける。体制を崩した駕籠かきは勢いよく転んだ。すぐさま立ち上がろうとしたようであるが、逆上していたためか足が絡まり、よろけるように崖の向こうへと転がり落ちた。
「うわぁー」
崖は急な斜面となっており、羊歯のような植物が覆い茂っている上を落ちていったらしい。一瞬の後にうめき声と助けを呼ぶような悲鳴が聞こえた。
「あのばかが……」
残された駕籠かきは、荒々しく舌打ちをした。男は駕籠かきを振り返る。
「助けに行ってやらなくてよいのか」
駕籠かきの男は息杖を地面に投げ捨て、駕籠の中で呆然としている老人と侍をそれぞれ短く見たあと、落ちた仲間を助けるために腰紐を持って崖の下へと向かった。
男は老人の元へ歩いて行く。
「こうなっては歩いて行くしかなさそうであるが、歩けますかな?」
どこかの商家の隠居といった風の老人は、這い出るように駕籠から出てきて言った。
「……助けていただき、ありがとうございます。こうなってはそうするよりありませんね」
一人でこんな山道に入るにはなにか訳がありそうであるが、男はそれについては何も言わぬまま苦笑した。
「峠の茶屋まで行けば、別の駕籠なり、馬なりを呼んでもらえるかもしれません。お供仕ろう」
老人は頷くと、男とともに歩き出した。