第16回 てきすとぽい杯
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春酔い
投稿時刻 : 2014.04.05 23:28 最終更新 : 2014.04.05 23:31
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- 2014/04/05 23:31:48
- 2014/04/05 23:28:49
春酔い
粟田柚香


 真夏のように暑い春の夕暮れであた。余は同志と別れて市電に乗り、姉の宅へと急いでいた。予定では午後の早いうちに訪問するつもりであたのだが、つい同志たちとの議論に熱が入てしまい、コーヒーも女給の眼差しも冷ややかになたところで見渡せば世間は夕飯時である。営々と主婦を営む相手にとてはすこぶる都合の悪い時間だが、余は構わずに義兄宅へ向かう路線を選んだ。呼びつけたのは向こうなのだから、請われて訪ねる側に遠慮呵責はいらぬという腹づもりだ。義兄はまだ帰らぬであろうから問題はない。それに、姉はよく出来た女だから、客人に夕膳の香りだけ嗅がせて追い返すことはできぬ。よて余は、姉孝行と本日の晩餐を一挙両得で済ませられる予感を空き腹に弾ませて、じわじわとまとわりついてくる心地の悪い陽気をまるで気にもかけず、懐手のまま座席にそくりかえておた。

 それにしても最前の議論は  Tは南米大陸の少数民族について語りたがていたし、Kはここのところバロク音楽の基礎音律に凝ており、Fが当面頭を悩ます問題は軍人皇帝時代のローマ法についてだ(ちなみに余は目下のところ、油絵の具と岩絵の具が持つ品格の差を検証中である)。そんな我々が、一つの議題に一致して同じ土俵に立ち、時間を忘れるほどの主張と論駁を重ねたということが、今もて信じられないように思われる。これぞ学問の醍醐味であり、先人の上に成り立つ我が世界を実感できる時だ。確かに我々は統一された結論を導くことはなかた。反論はさらなる反論を呼び、証拠を照査するためにあらたな議論が沸き起こた。筋道などどこにもなかた。だがそれが瑕疵となろうか?我々四人の過ごしたこの濃厚で緻密な時間を非難する輩が現れたら、我らは全員、団結して相手を糾弾することに異存はないだろう。議論は魂を洗い清め、議論は人との親睦を強め、議論は人間を全き心へと導く。正直なところ、余は今日一日でひと回りもふた回りも大きくなた気さえする!

 車輪と線路の刻む規則正しいリズムに身を預け、胸の高揚を噛みしめる。そこでなにか、いつもと違う振動音に気づく。蝿の音のようである。社内に飛び込んだ運の悪い奴がいるのかと思たが、見渡してもそんな影は見当たらない。音はどうやら車体から鳴ている。上から、下から、斜め前から、斜めしたから、総じてあらゆる思いもかけぬ場所から、小さなものがぶつかる音が聞こえてくる。いずれ止むと思ていたが、一向に止む気配もない。

 電車が停車場に停まる。音は止む。電車が発車する。また音が鳴り始める。余の注意はすかりその奇妙な雑音に吸い取られてしまう。よくよく注意していると、規則正しいはずの電車の振動音にも濁りがないだろうか?車輪が回るたびに、一定の間隔で不気味な揺れが起きてやしないだろうか?そう感じているのが余だけではない証拠に、他の乗客もチラチラと周囲に目をやり、不安げな表情を交わし合ている。うつむくのが習性の彼らなのにである。

 電車は次の停車場に停また。余はここで車内点検が入るだろうと思た。が、電車は何事もなかたかのように、線路を滑りだしたのである。そしてまたあの雑音。余はしびれをきらして立ち上がり、スタスタと前方の車両へと向かた。車掌に車両の異常を伝えねばならん。今はまだ通常通りでも、この先の運行をさせちならんと一言申し立てねばならん。生憎余の脳裏には、以前近場で起きた巨大な脱線事故のビジンまでが浮かんでくる。自然足は速まる。気づけば額に脂汗まで浮かんでいる。まだ五月にもなていないのに!余はさらに足を速め、先頭車両の扉に手をかけようとした。そのときである。電車が大きく傾いた。足を着けていた床が浮き上がた。何ものの支えにも身を預けていなかた余は、当然の結果として、大きく身体のバランスを崩した。そして何が起きたか分かる前に視界は暗転し、代わりに怒号のような騒音で世界は埋め尽くされた。

 騒音に果てはない。音源も何もわからぬ、もはや余の耳のなかで鳴り響いているも同じである。すでに外耳はぴたりと両手で封じているのに、振動は空気の道をもて封鎖をこじあけ、中耳内耳へと不法なる侵略を断行し、脳蓋までの電撃作戦を敢行しておる。この物理法則という逆らえぬ帝国主義の結果として余の意識は消耗し、神経系は断裂の危機にさらされ、精神の中枢があと少しで破壊されることは明白である。そんなのはゴメンだ! 余は叫んだ。いや、余の脳と精神が絶叫を欲した。そして肉体は本能の意に従た。金切り声、というものを最後にあげたのはいつであたか、ともかく余は今その記録を更新した、いやそんなことはどうでもいい、誰か助けてくれ、振り飛ばされる、落とされる、壊される、殺されるー



「お客さん、お客さん」

目を開けた。

頭上には、皺のたくさん刻まれた車掌の、人の良さそうな顔があた。
同時に飛び込んできた蛍光灯の明かりが眩しい。

「お客さん、どうしたんです」

車掌は笑い皺のたくさんできた顔を深刻そうに歪ませて、僕のことを覗きこんでいる。
気がつけば僕は、停止した電車の床に、大の字になて寝転がているのだた。

「お客さん、終点ですよ。さあ、起きてください」

車掌さんに促されて、僕はゆくりと立ち上がた。ホームは静まり返ていて人は見当たらない。電車が停車してからすでに結構な時間がたたということだ。
そろそろと起き上がた僕に、車掌は白い手袋をはめた手であるものを差し出した。それはいつの間にかポケトから飛び出していた携帯電話だた。
僕は、口のなかでありがとうと言うのが精一杯だた。
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