第18回 てきすとぽい杯
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彼女が絵を描くところを僕はずっと眺めていた
投稿時刻 : 2014.06.14 23:26
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彼女が絵を描くところを僕はずっと眺めていた
犬子蓮木


 彼女が絵を描くところを僕はずと眺めていた。
 ここは彼女のアトリエで、僕は彼女の配偶者だた。アトリエの空気は淀んでいる。この匂いたちが、彼女の描いているものが油絵だということを必要に以上に表現している。僕はアトリエの隅の椅子に座て、ただ静かに彼女を見つめている。
 彼女は集中していた。
 彼女の視線の先にはイーゼルに載せられたキンバスしかない。
 モデルはいなかた。
 モデルは彼女の頭の中にしか存在しない。
 彼女は人物画を描いているらしい。らしいというのは僕にはその絵がなんであるのかはわからないということだ。彼女の絵は抽象画で、わかる人にしかわからない。否、わかる人は彼女しかいない。それなりの高値がついて売れているのだから、理解者がいるのでしう? と僕が言うと、彼女は「わかりもしないのに、買うバカがいるだけ」とひとつも笑わずに言た。
 彼女の頭の中に、僕は少ししか存在しない。ただ、他の人間よりかは相対的に多かたので、彼女に僕と結婚する許しがもらえた。
 彼女が筆をおいて、じとキンバスを眺めている。
 僕は彼女が好きだ。
 彼女が絵を描いているところが好きだ。その瞬間、彼女の頭の中に、僕が存在しないことはわかている。集中している彼女にとて、僕の存在もアトリエという空間も意味をなさない。彼女と絵とそれから筆や絵の具。目的に必要な道具とその行為が必要なものなのだと思う。
 彼女は『完璧な人間』を描きたいのだと言う。
 そして、いくら描いてもそこに辿り着けないから、描き上げた絵を売りに出すとのことだた。彼女の頭の中にはその『完璧な人間』のイメージが存在する。しかし、それを出力する際に、情報が劣化する。
 それが彼女の実力のせいなのかは僕にはわからない。
 彼女はいつかそれを描きたいと願ているけれど、僕にはそれが不可能に思える。イメージは、表現しきれないからイメージなのだと。
 それが才能の問題か、努力の問題かでおさまるものとは思えないのだ。
 それでも彼女は描き続けるけれど。
 食事の際などに、その『完璧な人間』について尋ねたことがある。それは『神様』みたいなものなのか、それとも容姿がとても優れているのか。男性? 女性? そんな具体的なこと。
 僕は、彼女の意識の大部分を占める『完璧な人間』に嫉妬している。そのイメージのおかげで彼女が絵を描くシーンを見続けることができるのに、そのイメージに負けていることがわずかに悲しい。
 彼女は、それでも僕に説明してくれた。
 彼女の持つ『完璧な人間』とはどういうものであるか。彼女自身もよくわかていないけれどと。それでわかたことは、彼女がそのイメージに愛情を持ているということだけだたと思う。彼女の持つイメージを彼女が言葉にするほどに、彼女はじぶんの言葉に違和感を覚えているようだた。
「言葉よりはまだ絵のほうがいいね」と彼女は笑た。
 彼女が筆を走らせる。
 彼女はイメージからなにを掴んだのだろうか。
 そんな意識が共有されることはない。
 ただ静かに、彼女の意志がアトリエの空気に広がていくのを感じるだけ。わずかな音が僕の耳に届き、彼女のますぐな目が、僕の目に映る。
 僕は少し目を瞑ることにした。
 別に眠ても構わない。彼女は僕の行動をなんら問題にはしない。ただ眠るつもりではなかた。彼女の考える『完璧な人間』というのを考えて見ることにした。
 これが何度目の挑戦かは数えていない。
 暇になるとやて、彼女と同じ事を考えているような気分になる。そして、結局わからずに目を開けて、また彼女を見るという日常に戻る。そんな繰り返し。
 今日は、もしここに座ているのが『完璧な人間』だたらどうなるだろうか、と考えた。そうしたら彼女はそれをモデルに絵を描くのだろうか。それはないように思えた。そんな『完璧な人間』が座ているアトリエには彼女もキンバスも存在しないと思う。
 そうしたら『完璧な人間』は、さみしさを感じるだろうか。
 たぶん、それもないだろう。
 そんな優しい感情を持つようには、できていないと思う。
 だから、ただ座ている。
 きと素敵な容姿で、僕のように疲れて気の抜けた体勢でもなく、自然体だけど絵になるような姿で、だけど誰に見られることもなく、『完璧な人間』は座ている。
 言葉を話すこともなく。
 涙をそそぐこともなく。
 命がつきることもなく。
 ただあるままに。
 それは存在する理由すらも必要がないのだろう。生まれた要因さえないのだと思う。人間ということさえ怪しい。でも、それが『完璧な人間』なのだ。
 僕は目をあける。
 彼女はまた筆をおいて、思想していた。協力できることはなにもない。一緒に生きていることも彼女は僕に感謝したりもしないだろう。
 アトリエから離れれば、彼女はそこまでおかしな人間ではない。たしかに本当に一般的な人間かと言われれば肯定はできないけれど、だからと言て超然とした別の種族というわけではない。普通に人と会話もするし、笑うことだてまれにはある。普通の人間と同じように生き、普通の人間と同じような弱さも持ている。
 だけど、絵を描いている彼女は違う。
 僕には絵を描いている彼女が『完璧な人間』であるように思えた。
 イメージとは違う。いらだているようなときもあるし、泣いているときだてある。ただ、そんな表層にはないもと芯のところに、僕は『完璧な人間』のイメージを見る。
 彼女は眷属なのかもしれない。
 仲間の絵を描きたいのかもしれない。
 違うかな。
 彼女がどうして今のようになたのか、僕は彼女に聞いたことがある。それは聞いてみればたしかにうなずけるような流れだたけど、どこか単純で、しなければならないという使命にあとづけで用意された理由のようにも感じられた。
 それは『完璧な人間』が、なぜかアトリエに座ているシーンを説明しなければいけないときのような。仮定から理屈を積み上げていたようなそんな気持ちの悪さを僕は感じた。
 いつか彼女は筆を置くだろう。
 それが『完璧な人間』を描き上げたときだと、僕は思わない。歳をとり、絵を描く力を失て、ある限度に達したときに『完璧でない人間』は手を止めなければならない。
 それが与えられた使命でもあるのだ。
 ただ、まだしばらくはそんな瞬間が訪れることはない。
 僕は絵を描いている彼女が好きだ。
 僕は絵を描いていない彼女が好きではない。
 彼女が絵を描くところを僕はずと眺めていた。             <了>
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