ラボラトリー・フード
人というのは、故郷から離れた場所に滞在していると、幼い頃から慣れ親しんだ料理を恋しがるものだと思
っていた。例えば日本人なら、海外旅行中に白米や味噌汁、肉じゃがなどを食べたくなるのだろう、と。
だが、どこにでもいるごく平凡な日本人男子中学生であったはずの俺、塚原遥人は、ここが故郷であれば絶っっ対に自ら進んで口にはしないであろう料理を、今、渇望していた。
「アアアアァアアアー! もう限界だ! 頼む! あれを、あれを食わせてくれ! 鶏挽き肉と香菜のタイ風ナンプラー和えを食わせてくれえええええ!」
俺は無人の部屋で絶叫した。ベッドとサイドテーブル以外には何も物の置いていない十畳ほどの部屋は音がよく響く。自分自身の声のうるささに頭痛がした。
やがてその余韻も消え去り部屋は恐ろしいほど静かになる。その瞬間、お腹が鳴った。腸の中で空気がうねるように流れ、振動している。野太い音はたっぷり五秒部屋に響きわたった。
惨めな気分だ。唇を噛むと同時に、ウィーン、と言う電子音が響いて、俺は反射的に顔を上げた。
自動ドアが開いている。そこに立っていたのは、白衣を着た、小柄で痩せ形の美少女。輝かんばかりのつやつやのストレートロングな黒髪に、陶器のような白い肌はまるで人形のようだ。だがその切れ長の瞳には、明らかに生きた人間にしか宿せない力強い意志のようなものが湛えられている。それにじっと見つめられると、発狂しかけていた頭が一瞬で冴え渡った。
「……ハルト」
大人びたアルトボイスに名前を呼ばれて我に帰り、俺はこの少女ーーシェリーがアルミ製の大きなボウルを抱えていることに気付いた。
「いい加減、君は本当のことを教えてくれてもいいんじゃないのか。昨日君は、このボウルの中身を「ひき肉と香菜のタイ風ピリ辛ナンプラー和え」と呼んでいた。その前日は「鶏挽き肉と香菜のピリ辛和え」だった。それが今日は「鶏挽き肉と香菜のタイ風ナンプラー和え」だ。どうして日によって呼称が違う? この食べ物の本当の名前は、何というのだ。どうして私たちに教えてくれない? ただ名前を知りたいだけなのに……」
抑揚のない声でそう淡々と紡ぐと、シェリーは小さくため息をついた。いかん、また不機嫌にさせてしまった、と思うと俺は冷や汗をかくばかりだ。シェリーは黙って部屋の中に入ってきた。カツカツカツ、と靴音が響く。膝丈の白衣の裾がかすかに翻った。ドン、という音とともに、ボウルが机の上に置かれた。
「食え……そんなに言うのなら……」
「い、良いのか?」
思わず聞き返したら声が裏返った。今までは試験管に小分けされた鶏挽き肉と香菜のなんとかしか食べることができなかったのに、今日はボウルごと持ってきてくれた。あの中に鶏挽き肉とかのピリ辛がどれぐらい残っているのかは不明だが、今までよりは腹を満たせるかもしれないと思うと、すでに涎が大量分泌され始めていた。俺の目線はボウルに釘付けになった。
「お前にとってこの料理はそんなに大事なのか……毎日大声で食べたいと声が枯れるまで叫ぶぐらいに……どうしても私たちにその本当の名称を教えたくないぐらいに……」
随分と弱々しい、らしくない声に俺は思わず顔を上げた。目が合う。相変わらず厳しく眉根が寄せられていたが、何かがいつもと違った。
「い、いやだからそういうわけでは……」
それを遮るように、シェリーが首を振り、目をそらした。そのとき、ようやく違和感正体に気付いた。
「今までーーすまなかったな」
「えっ」
そう言うなり急にシェリーは走り出した。カッカッカとまた靴音が響いて、長い黒髪が揺れる。白い小さい背中が自動ドアの向こうに消えていった。俺はしばらく閉まってしまったドアを見つめていた。また腹が鳴った。たっぷり5秒。どうしよう、腹が減っては戦はできぬというし、1週間前の給食を食べてから行動すべきではないか、という誘惑が頭の中を過ぎったが、さすがに目の前で女の子に涙ぐまれて無視するわけには……という思いも同時に過り、頭痛がした。
***
このひき肉とナンプラーがうんたらなんて料理は俺の好物でも何でもない。すべての発端はトミヤマ第三中学校給食センターで毎年7月に催されるエスニック献立週間なるもののせいだ。
俺はその日給食当番だった。割烹着に着替え、挽き肉のなんとかが入ったボウルを教室内に運ぼうとした瞬間、辺りがまばゆい光に包まれ、思わず堅く目を瞑り、再び目を開いたらその時はすでに俺はこの世界に来ていたのだ。
何を言っているのかわからないと思うが、俺も何が何だかわからなかった。そこは、SFアニメに出てくる悪の組織の研究施設みたいな部屋だった。迷彩服を着た10人ほどの男たちに囲まれていた。突然のことに思考停止して固まっていると、迷彩服の男たちをかき分けて、白衣を着た人間が二人現れた。一人は骸骨のような顔をしている大人で、もう一人が俺と同じくらいの歳に見える少女だった。シェリーだ。俺の顔を見るなり、大声で叫びだした。
「ドクター! ドクター・シャン! やりましたね、ついに大成功です!」
シェリーがドクター・シャンの白衣の襟を掴み歓喜を露わにゆさゆさ揺らしているのを俺は呆然と見つめていた。さっぱり状況が飲み込めないのでとりあえず「ラボで割烹着ってやっぱおかしくね?」などと思っていると、多少興奮が収まったらしいシェリーが今度は一目散に俺の元まで駆け寄ってきた。
「これが?! これが、君の世界の食べ物なのか?!」
そう言うと、俺の抱えていたアルミのボウルのふたを勢いよく取り払う。まだそのときは生暖かかった例のあれが、むわんと異臭を放った。
「不思議なにおいがする……これが、食べ物というものなのか!」
「ボクちんはこの臭いを嗅いだことがある気がするのだがー。とりあえず、お寿司ではないみたいー」
「あの、あの、あの、これは、俺、一体、これは……」
不可思議すぎる状況と、今までの学校生活では絶対にあり得ない、絶世の美少女がものすごい至近距離に接しているという異常事態にパニックになりながら口をぱくぱくしていると、ドクター・シャンが状況を説明してくれた。
「うーっす。とりあえず、ボクちんたちは平行世界の文明の食生活を研究しているところでー。急に申し訳ないのだが、協力して欲しいワケー」
曰く、ここは俺が今まで済んでいた世界の、無数にある平行世界の一つだとか言う話で。
ドクター・シャンの率いる研究チームは、様々な文明の食生活について研究するため、ひたすら平行世界から知的生命体を移転技術によって呼び寄せている。今回はたまたま俺が引き当てられた。
そもそも何故彼らがそんな研究をしているのかというと、彼らの国の、アルゴリズムによって未来予知をしているスーパーコンピューターが、1000年後に人類が滅亡するという結論を導き出した。そこに至る細かい経緯はわからないが、どうも彼らの現在の食生活に問題がある可能性が浮上した。そこで滅亡の未来を回避するため、あらゆる生命体や文明の食生活について研究しているとかなんとか、この世界の生命体については全て調べ終えたので、今はひたすら平行世界から食事中の生命体を呼び出しているとか……
「何度も失敗した末に、ようやく私たちと同じような二足歩行の知的生命体を見つけることができた! どうか、君の世界の食べ物について話を聞かせて欲しい。これはものすごく臭うのだが、なんという物なのだ?!」
せめてそれがカレーとか肉じゃがとか、最悪もう牛乳とか白いご飯とか味噌汁でも良い、そういう物であったなら、その後の展開が違っていたかもしれない。俺は食べ慣れない上にやたらと長ったらしい給食の献立の正式名称など正確に記憶できていなかった。
***
迷路のような研究都市を歩き回り、ようやくたどり着いた地下の、大きな自動ドアの前に立つ。開いた先に広がるのは、学校の教室二つ分ぐらいの広さだが、機械がひしめき合っているせいで随分と狭く圧迫感のある部屋だ。ここではいつもシェリーを含めた数人の研究員が忙しそうに作業をしているのだが、今日はドクター・シャン一人だった。
「うーっす、ハルトちん。こんなところに来るなんて珍しいにゃあ」
「すみません俺、シェリーを探してるんですけど……」
「シェリーちんならさっきお手紙のようなものを持ってきたのだがー。ボクちんは一日5行以上書ける人は許さないのでー。追い返したのだー」
このドクター・シャンはいつも人を煙に巻くようなことばかり言うのだ。
「ええと……どこへ行ったか知りませんか?」
「どこへ行ったかは知らないがー。そのうちまたハルトちんに会いに来ると思うのでー。とりあえずハルトちんはここに座ってボクちんと飲めばいいのだー」
「飲む?」
「昨日ついに、古代人が飲んでいたびぃるなるものを再現することに成功したのだー。ハルトちんの世界にもあると聞いたのでー。味見をして欲しいのだー。ういぃー、ひっく」
「ビールってお酒のことですか? 俺未成年なのでちょっと……」
「ハルトちんの世界では色んな食べ物を食べて楽しんでいるのに、飲み物には規制がかかっているのかにゃあ。不思議なのだー」
「俺にしてみればこの世界の食生活の方がさっぱり謎です。何も食べないで栄養ドリンクを一日一回なんて、こんな味気なさすぎな生活信じられない」
そう、それこそが俺が鶏肉と香菜のピリ辛和えを食べたいと叫び続けた理由だった。この世界には俺が持ってきたこの料理以外に、咀嚼し飲み込み胃腸で消化吸収するいわゆる「食べ物」がま