ピー Part2
その国には大勢の神が住まうという。聞いた話によると八百八。鍋や箸にまで宿
っているらしい。人々の信仰心が篤いのだろう。妖精のピーは朝食のパンケーキを食べながら、そろそろその東方の国へ出掛けてみようかと考えていた。楽しいことがあると、尻尾が反応する。竹とんぼのようにくるくる回る尻尾を見て、ピーは貯金を全部使いこむにした。
三月中に訪れたのは、四月に水かけ祭りがあるからだ。妖精がいる国では数々の祭りが催されるが、この水かけ祭りがもっとも賑やかで規模が大きい。この時に風邪をひいたり、怪我をして休んでしまうと、土着神としての権威が失墜する。それだけは避けなければならない。権威が失墜すれば信仰心も衰え、妖精が持つ力も半減してしまう。二年前も歯痛で寝込んでいたら、国中が大洪水に見舞われてしまったのだ。ピーは長老に大目玉を食らった。罰として受けた額の「肉」の字は、鏡を見ると痣のように未だにうっすらと残っている。
あの手この手の水面下交渉を行い、ピーは有給休暇を取得した。そして彼方では桜の開花宣言がされた三月の三週目に、LCCを利用して東方の国へと降り立った。
空港を出てまず向かったのは東京だった。さらに具体的に言えば、すり鉢上の地形の底に駅がある渋谷と呼ばれる街である。そこにハチという犬の妖精がいるという。聞くところによると映画にまでなったらしい。妖精界のレジェンドだ。しかもすり鉢の底にいるというのがいい。妖精はたいてい木の上や、屋根裏に住んでいるものだが、よほど謙虚な性格なのだろう。
けれども、悲しいかな渋谷はタイ族の街とは勝手がちがう。ピーはスクンビットあたりでよく見かける、難しい文字の看板が並ぶ路地で道に迷った。すり鉢の底へ向かえばいいだけなのに、建物や信号が多すぎる。
「すみません。道を教えてください」
ピーは通りすがりのブーツをはいた若い女に声を掛けた。優しそうな感じがして、尻尾がくるくる回る。
「道? つーか、君かわいいね。名前なんていうの?」
両膝を折り曲げ、若い女はピーの頭をなでた。タイ族では侮辱に当たる行為だが、ぐっと堪えることにする。
「名前はピーです。ハチという妖精に会いに行く途中なんです。駅へ行く道を教えてください」
「ピー? 背中にきれいな羽があって、お尻にもかわいい尻尾が生えてるのに、大きな声では言えない名前なの?」
「大きな声で言えますよ。ピーです。ハチがいる場所を教えてください」
「じゃあ、そのピーに入る名前が分かったら教えてあげる。そうだなあ」
女はピーの耳に手を当てて、恥ずかしそうにある言葉をささやいた。あまりの驚きで、ピーの尻尾は逆回転した。
「ち、ちがいます。僕の名前はピーです。ハチのいる場所を知りませんか?」
「あれ、外れちゃった。じゃあ、これかな」
女はまた耳に手を当てた。次の言葉を聞いて、今度はピーが恥ずかしくて気絶しそうになった。
「や、や、やめてください。僕の名前はピーです。どうか、ハチのいるところを教えてください」
「えー。ざんねーん」
女は光沢のある唇を尖らせると、また耳に手を当てた。囁かれるたびにココナッツの匂いがする。ピーはタイ族の村に帰りたくなっていた。
「ど、ど、ど。どうして、そんなことを言うんですか。い、今は昼間ですよ。僕の名前はピーです。ハチに会いに来たんです」
ピーはめまいがしてきた。つつましいタイ族の村では考えられないことが起きている。この人間の女は何なのだろう。この国には八百八の神がいると聞いたのに。
ピーの尻尾は、くるくる回ることをやめていた。いつもお腹をすかせている、寺院の野良犬の尻尾のように垂れていた。
「あー、ちょっと待ちなよー。そっちじゃないしー」
ブーツの女の言葉も耳に入らなかった。ピーは109と書かれたビルの先にある坂道を上っていった。
この国には神はいないのだろうか。
じゃあ、僕が神になれば、唯一の神なのだろうか。
神になれば、もう額に「肉」と書かれることもないのだろうか。
坂を上るピーの尻尾が、再び回りはじめる。けれども、それは今までに見たことがない回り方だ。
右に左に回り、後ろに前に激しく動く。ピーの尻尾の先端は、いつの間にか矢じりのように尖っていた。
(次のてきすとぽい杯につづく)