てきすと怪2014
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大沢愛
投稿時刻 : 2014.09.14 23:27
字数 : 3314
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大沢愛


 芒の原だた。
 中天に月がかかていた。
 秋冷の頃である。
 草むらにすだく虫の音もこころなしか名残惜しげに響いた。
 かなたの稜線から水の流れが続いていた。月影、星影を写し、砕きながら、さらさらと流れていた。
 ひとの歩幅で渡りきれぬ河原に、大小さまざまな丸石が影を浮かべて広がていた。水が気まぐれに閾を越え、足元を撫でる。かすかな光が揺らぎ、ゆくりと呼吸をしているかに見えた。

 石のひとつが、月影に曳かれてさまよい出た。それは石ではなかた。桜色の光沢を背負た白い錘。
 指だた。

 指の背にはほくろが見える。
〈俺は無力だ〉
 指は言た。
〈幼い頃から、俺は弱かた。
長じても人に脅され、言いなりになるばかりだた。
遂にはこうして、指を切り落とされることになた。
それでも、俺はどうすることもできなかたのだ〉
 指の腹が、這い登た小石を撫でる。
〈このほくろは、そんな俺がいつも涙をぬぐた跡だ。
手の甲やハンカチで堂々とぬぐえるのはまだしも強い奴だ。
弱い俺は、泣いているのを悟られまいと、指の背でそとぬぐうほかなかた。
だが、もはや指をなくしてしまた。
これから俺はどうやて涙をぬぐたらいい?〉

 流れの中から浮かび上がたものがある。先端部をそぎ落とされ、赤身の覗いた錘。
 指だた。
〈俺は無力だ〉
 指は言た。
〈幼い頃から、俺は喧嘩なら誰にも負けないと思ていた。
周りの連中を叩きのめして、従えて歩いた。
強さが俺の拠り所だたのだ〉
 赤身から滲出した液体が、指の這うあとに残てゆく。
〈だが、強いものなど世界中に一人しかいない。
ほかはみな弱いのだ。
俺がそのことに気付いたのは手ひどい負けを喫した時だた。
爾来、俺は負け続けた。
かつて倒した相手にもやり返された。
体中を責め苛まれ、肉片にされて放り出された。
今の俺は、怖い。
この上まだ、俺を追て来るものがいるかもしれないからだ〉

 小石の影に身を潜めているものがいる。膨れ上がた表面には皺がない。両棲類の頭部を思わせる。
 指だた。
〈俺は無力だ〉
 指は言た。
〈俺は何もしなかた。
本当に何もしなかたのだ。
何もしないのだから悪くないと思ていた。
何もしないことが誰かを傷つけるなどとは思いもよらなかたのだ〉
 指の先端には微かな陰りがあた。
〈これはかつて柱の棘が刺さた時に母親が抜いてくれた痕だ。
その母親を、俺は殴た。
この手で思い切り殴た。
家を飛び出した。
そして奴らに捕また。
ビデオカメラの前で指を一本ずつ切り落とされた。
指は一本ずつ母親のもとに郵送された。
なけなしの金を母親が吐き出し終えると、俺は用なしになた。
もともと用はなかたのに〉

 湿り気のある土が膨れた。脱皮を目指す虫のように、泥まみれの塊が這い出てきた。
 指だた。
〈俺は無力だ〉
 指は言た。

 枯れかかた草の根方をかき分けて、土埃を被た錘が現れた。
 指だた。
〈俺は無力だ〉
 指は言た。

 小石が揺らいだ。
 流れの水面がせり上がた。
 虫の声が遠のいた。
 伏した葦がそよいだ。
 指だた。
 指だた。
 指だた。
 指だた。
〈俺は無力だ〉
 指は言た。
〈俺は〉
〈俺は〉
〈俺は〉
〈俺は〉
 言た言た言た言た。
 指は指は指は指は。

 風の音が宙でもつれ合い、囁き声が四方に広がていた。


 車のエンジン音が遠ざかて行た。
 後頭部を突き上げる無数の小石は痛みを訴えていたはずだたが、男の意識は痙攣する腹部にあた。
 銃創から流れる血は、月明かりの下では黒々とした水たまりだた。水たまりの端が流れに触れると、ついと溶け出して文様を描きつつ遠ざかてゆく。
 男は歯を食い縛ていた。四肢の腱を切断されて、身動きは取れなくなていた。これは男が使う常套手段でもあた。身動きを奪てから、苦痛を与える。頑強に抵抗するものが少しずつ心を折られ、やがて哀願する。その姿を見届けてから、とどめを刺す。このやり方ゆえに男は畏れられていた。
 苦痛に耐える姿を、男は醜いと思た。苦痛を素直に受け入れること、すべてを委ねること、それだけを男は求めた。苦痛によて自分に譲り渡してくるさまざまなものが、男の矜持を肥え太らせた。まさかの裏切りに遭い、身の自由を奪われた時、男が真先に恐れたのは、自分が他人に苦痛を譲り渡してしまうことだた。
 男にとては幸いだたが、裏切者たちは苦痛のやり取りの美学を解していなかた。腱の切断のあと、男を車に乗せてここまで運んだ。腹部に銃弾を撃ち込むと、そのまま遺棄した。息絶える瞬間を見届けようともしない怯懦と怠慢を、男は嗤た。
 耳の奥に虫の音が届いていた。拍動を増した心臓が、耳の奥まで鼓動を響かせていた。このまま、誰にも苦痛を見せることなく死んでゆく。刻一刻と希望を剥ぎ取られてゆく男にとて、唯一の拠り所だた。嚙み締めた歯の隙間から浅い息を吐く。月の周りの星々が潤んでは遠ざかるさまを、かすかな笑みとともに睨み続けていた。

 男の意識は熱に覆われてしだいに鈍麻していた。脈を打つ音に覆われた聴覚はほとんどなにものも拾わなくなていた。にもかかわらず、ときおり耳たぶを撫でるような音が割り込んでくる。
〈俺は無力だ〉
 確かに、そう聞こえた気がした。自嘲の癖を持たなかた男にとては耳慣れない言葉だた。男はふと不安になた。自分のどこかに、死を目前にして醜態をさらす弱さが潜んでいるのかと疑た。月は瞼を閉じてもそれとわかる明るさで男の顔を照らしていた。食い縛た歯をわずかに緩めて、嗤てみせる。俺は大丈夫だ。苦痛を身の内に抱え込んだまま、誰にも譲り渡さず死んでいける。
〈俺は無力だ〉
 混濁しつつあた意識が冷たい刃でこじ開けられる。頭部は動かせない。眼球をせいいぱい回転させて見たものの、人の姿はなかた。男は幽霊の類は信じなかた。そんなものがいるなら、とくの昔に憑り殺されているはずだ。もしそんなものがいたとして、いまわの際に復讐を試みるなら、好きにすればいい、と思た。苦痛に我を忘れて泣き叫ぶようなものが、いくら恨みを募らせたところで―
〈俺は無力だ〉
 脈動を抑えて聴覚を取り戻そうとした。一瞬だけ、耳の曇りが晴れた。
〈俺は俺は俺は俺は〉
 腹部の痛みは硬質な塊となてのしかかていた。男の感覚は腹部を切り離そうとしていた。腹部の向こう、既に遠くなてしまた足首のあたりに、触れてくるものがあた。
 蛇だ。
 男はとさに思た。冬眠前の蛇が、血の匂いに誘われてやて来たに違いない。蛇に咬まれて死期が早まるなら、苦痛を抱えて耐える時間もそれだけ短くなる。
 蛇を受け入れる気になると、男の意識は再び混濁し始めた。蛇は一匹ではないらしい。こめかみをはいずる気配に続いて、瞼を探るのが伝わてくる。
 ずぶり、と音を立てて、眼球に蛇が這いこんできた。男の感覚は失われつつあたが、潰れた眼球から液が吹きこぼれる中、神経を掻き回される耐え難い痛みが頭蓋を抉た。
〈ふれはむりくら〉
 眼窩の内側で何かが呻く。もう一方の眼球が潰され、頭蓋内は痛みではちきれそうになた。両耳が塞がれる。奥に進もうとするものの、骨に阻まれてもがくばかりだ。
〈くえはうようあ〉
 涎の漏れる唇をこじ開けられる。一瞬、舌が触れた。蛇の冷たいぬるぬるした感触ではなく、憶えのある塩辛い表面だた。歯を食い縛て押しのけようとする。
 ゴキ
 顎を突き抜ける激痛とともに前歯が折られる。口内に溢れる血液をかき分けて、さらに口蓋を突き破ろうとする。
〈ぶぼべばぶびぶば〉
 意識が遠のきつつあたが、それでも、蛇に似たものが腹部の銃創から内部に侵入しようとしているのは分かた。ここで喰いこまれれば叫び声をあげてしまう、と思た瞬間、男の意識は飛んだ。

 眼窩内を探ていたものが、背後の孔を突き破て脳に達したからである。

 
 芒の原だた。
 月はそろそろ傾きつつある。
 水の流れはさやさやと続いている。
 夜気を纏た河原の小石がしらじらと浮かび上がている。
 虫の音は、いつの間にか遠のいてしまた。
 葦の葉に降り積もたこまかなしずくが寄り集まり、月の光を宿したかとおもうと、不意に葉を離れ、闇に散た。

                   (了)
 
 

 
 
 
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