法螺貝の話
山伏が吹いている法螺貝であるが一般に日本で入手できる法螺貝は北米産のものが殆どで、日本で艶出しなどの加工を施しているが職人がほとんどいなくな
ってしまったため昨今では東南アジア製のものがほとんどであると言われている。あの法螺貝に使われている貝殻は勿論法螺貝という貝のものであり、サンゴの死骸を削って巣を作るという面白い習性を見せる。この貝の群生地ではサンゴの死骸に大量に開いた穴があり、面白い光景としてスキューバダイビングの名勝地として有名である。学名はDhipedio Liellugenという種類のものであるが、ラテン語で馬鹿騒ぎや与太話を意味するLiellubという言葉が語源となっている。中世ヨーロッパにおいて香具師がこの貝を用いて客寄せをやっていたのがその由来と言われている。日本では法螺貝がほら話の語源となっているのだからなんとも面白いものである。日本では法螺貝の出す大きな音のように話を大きく、誇大に表現する様から法螺話という表現が生まれたそうである。またあるいは江戸時代において似非の修験者が法螺貝で町民を呼び集め、このお守りは霊験あらたかでこれこれこういう言われがあるものだという商法をしていたために法螺話という表現が生まれたという説もある。
さて、何故山伏が法螺貝を使うようになったのか、それには様々な説があって、中国から密教が渡来した際に伝わったという説、修験者の開祖・役小角が山野に分け入った際に法螺貝を携えていた伝説、ある修験者の枕元に不動明王が立って起きてみたら法螺貝が置いてあったなど様々な説がある。
ここでは平安時代の書物「草庵記」に示された日部野鷹丸篠近の逸話をご紹介しよう。日部野鷹丸は後に玄上を名乗り東北の羽黒山に入山し、修験者として伝説的な逸話を残す人物であるのだがその実在の真偽の程は専門家でも未だ意見の別れるところである。
篠近は当時武蔵国で源氏の武士団で部下の荒くれ者を引連れていた。日部野氏は平将門の乱の折、初め将門側について活躍したのだが、将門が新皇と名乗り始めた際に危惧を感じ始め、俵藤太と内通、情報流し乱を収めるのに功績が在ったとして力を強めていく。後に源氏が関東で力を握り始める頃になってもその地方の有力者として幾つかの合戦にも参加していた。篠近もまた父に従い功績を上げ、小武士団の棟梁としての地位を維持していた。当時の篠近は荒くれ者で、戦場での略奪は至極当然、気まぐれに無関係の村を襲ったりもしていた。
ある日のことである。大きな合戦が起こるとして当時の源氏の棟梁は配下の武士団達にふれを出し、参集するよう命じた。篠近もこの命を受け、集合地へと向かった。その向かう途中、小さな漁村へ立ち寄った。寂れた漁村ではあったが、丁度日暮れ時であり、兵達に疲れも見えはじめたこともあり、その晩は漁村に泊まることにした。
武士団が漁村に入るとそこには男の姿しか見られなかった。武士団を恐れ、女子供を隠したのであろうと思われたが、篠近たちは戦の前ということもあり高揚してたために激昂し、女を出せと出迎えに出た男を脅した。しかし、男は刀に怯えながらも女はおりませぬと弁明した。男が言うにはこの海に化物が住んでおり、それに生贄を捧げなければならぬというのである。もはや若い女は皆生贄に出し尽くしてしまい、この村は明晩最後の日を迎えるのだという。武士たちは妙ちきりんな話に苦笑しながらも、そんなものがいるならば、我々が退治してやろうという話になった。参集まではまだ時間がある。ならばということで明晩までその村にいることにした。確かに昼になっても若い女の姿は見当たらない。あながち男の言ったことも嘘ではないと篠近も思い始めた頃には、日も暮れ始めていた。篠近は念のためということで武士たちを忍ばせ、腹心の一人を村人につけ、己は生贄の祭壇の前に立った。
夜もいよいよ深まってきた。先程まで鳴いていた海鳥たちも静まりかえり、波の音だけがくりかえしくりかえし響いていた。
ぼおぉっと、洞穴を風が通るような音が響き渡った。
武士たちの間に緊張が走り、中には刀を抜き放つものもあった。
音はどんどん近づいており、波の調子も不規則に変わってきている。
魔物か、と篠近は思った。
のっそりとした山のような影が海岸に迫ってきた。
篠近はじっと海の先を見据えた。そのものの姿を見極めんとし、前へぐいっと進む。
暗闇に浮かぶ二つの光。不気味で鋭い眼光である。
「放て!」
篠近は短く、だがしっかりと響く語気で言い放った。
火矢が海の怪物に向かって撃ち出された。放物線を描いた矢が暗闇の中から化物の姿を浮かび上がらせる。
山のような化物の表面はゴツゴツした岩のようで、それに海藻やら流木が絡みき、フジツボやらが群生している箇所も見受けられた。鏃は弾かれるばかりで、怪物の姿は再び闇の中へと隠れてしまったが、その異様さは皆の目に焼き付いた。幻覚や錯覚のたぐいではない。やはり化物であるのだ。
その時、ぼおぉっと一際大きな音がなったため、武士の中には逃げ出したり、腰を抜かすものもあった。
ただひとり、刀を抜いて海に向かっていったのが篠近である。勇者であったからとも、やけくそであったとも言われているが真偽は定かではない。
大きな波が一つやってきたかと思うと、篠近の姿は消えていた。そして、いつのまにか化物の姿も霧のように消えていたのであった。
その後、篠近の遺体は上がらず、また怪物がやってくることもなかった。頭領を失った武士団は別のものが頭領に成り代わっただけですんだ。
十数年後、一人の若者が浜辺を歩いていた。
手には法螺貝があり、名を篠近と名乗った。行方知れずとなった武士と同じ名であり、当人はその本人であると言いはるのである。確かに当時村にいた者もおぼろげながらその顔を覚えていた。
男が語るには今までずっとこの法螺貝と戦ってきたのだという。何度も何度も、不思議と腹も減らず、眠気も起きず、疲れも感じず、ただひたすらに戦っていたのだと。
そしてやっと勝って浜に上がってみれば、時は十数年も流れており、自分には何も残っていない。
篠近は無常を悟り、その無常の響きを法螺貝より奏でるのであった。
勿論、上の話は荒唐無稽な法螺話である。本当のことなど何一つ無い。法螺貝の生態の解説、学名、産地などもホラである。草庵記などという書物も知るかぎりでは存在しない。もちろんその後に続く説話も出鱈目である。本当のところ、法螺貝の名称の由来、仏教的な異議としては、古代インド語で知恵の円環を現す「ホーラー」という言葉が由来となっている。元々は金属製の道具であったが、中国から日本に伝わる際に、同型の貝殻を用いるようになった。大本のホーラーというラッパ状の楽器も現在の法螺貝のように螺旋状の形をしていて、音色が中を振動させて響いていく中で音の螺旋を作っていくとイメージされていた。螺旋は円環が上昇していくイメージで有り、部分による無限全体の内包という象徴としても機能している。故に法螺貝は仏者の内的密法を外へ向かって増幅させるという役割へと転じていった。法の螺を作り出し、現世における密法に利用する道具が法螺貝というわけである。
まあ、これも法螺話である。
実際のところは――