誰かの携帯電話が鳴った。
　おかしいなと、痛みに耐えながら率直に思う。《船》には当然私ひとりしか乗っていないし、私は携帯電話なんて持ってきていないからだ。不思議と懐かしさを覚える電子音だった。やがて着信音は鳴り止み、再び《船》が航行する機械音だけが聞こえるようになる。「ジジジ、ピコピコ」と。
　宇宙という海原を進んでみても、波の音などは当然聞こえてこない。この《船》は私の棺桶。終末期患者の生前宇宙葬が合法化されてから、もうじき十年が経とうとしている。女手ひとつで私を育ててくれた母からは最後まで反対されたが、生まれついての宇宙バカで、ＩＳＳで殉死した父の背中と空の果てばかり見て育ってきた身としては、最期に憧れの場所を漂って死にたいというのが唯一の望みだった。最初で最後の親不孝として許してほしいと告げると、最後には諦めたような笑顔で送り出してくれた。母の写真は私の視界に常に入るよう、人ひとりぶんのスペースしかない《船》の壁面に貼り付けてある。棺桶の内に縛り付けられた状態で窓の外を眺めるたびに、窓の隣の写真にも目が行くという寸法である。心も身体も宇宙にあれど、母の顔を忘れることは死んでも許されないだろうなと、私は苦笑するばかりであった。
　笑いながら涙が出そうになった瞬間、着信音が再び鳴り響いた。
　幻聴ではないと察していた。音は私の足元から聞こえていたが、縛られているので手を伸ばすことはできない。《船》には私自身のほか、多くの「遺品」が重量制限の範囲内で詰め込まれている。友人からの手紙。父の時計。大事にしてきた火星人のぬいぐるみ。望遠鏡。学会誌に発表した論文のコピー。家で愛用していた茶碗と箸。何でこんなものまでと言いたくなるようなものも、数多く含まれている。けれど携帯電話を入れた覚えはなかった。入れたとすれば母の仕業だろうかとふと思った。最期くらい静かに死なせてほしかったなと、動かぬ身体のままため息をついてしまう。
　仮に携帯電話が実在するとしてである。誰が電話を掛けているのだろうかとふと疑問に思った。
　ジジジ、ピコピコ――。いつの間にか電話は切れ、静寂が戻っていた。或いは私がおかしくなってしまったのか、実は既に事切れていて死後の世界にいるのか、そんな他の可能性にも思いを巡らせる。
「可能性、か」
　口をついて出た言葉。久しぶりに思い至る概念だった。
　あらゆる可能性を試してみて、それが駄目だったからこそ私はいまここにいるのだと思い返す。人は可能性を求めて生きる生物だと、誰かが言っていた。その言葉を当てはめるならば、現状はいわば緩やかな自死に他ならなかった。大学での研究は行き詰まっていたし、研究を続けるための身体すら、病に奪われてしまったのだ。全ての可能性が失われたと失望している。だからこそこの《船》でいま、夢の残滓の果てを漂流しているのだと思い返していた。
　思い返すなかで、おぼろげな記憶が頭に浮かぶのをふと感じた。
　はっとして顔を《船》の底に向ける。そうだ「あの電話」だと、私は右足を目いっぱい足元に伸ばした。指先で何とかたぐり寄せようとする。《船》に積んだ覚えはなかったが、「それ」しか考えられなかった。電池の切れかかったような電子音――あの電話がついに鳴っている。「実験」が実を結んだのだと、不意に身体を震わせてしまう。現実感が失われていくのを感じていた。
　幼い頃の私は、宇宙人に会いたいと願う少年だった。その願いは今も変わらない。
　せめて声だけでも聞いてみたいと、夢を見つづけてきた。
　私の中の、もう一人の冷めた私が「馬鹿な夢を見るな」と諭してくる。母の声にも聞こえたし、父の声にも似ているように思う。あの電話は、壊れた携帯電話を改造しただけの「受信機」は、私という人間の原点であった。どこかで失くしてしまっていたけれど、それが今になって何者かの声を受信しているに違いなかった。そう根拠もなく確信して、私は胸を踊らせる。
　電話が再び鳴り響く。「待ってくれ！」と、私は叫んでいた。
　気づかぬうちに、鼻と口から血が流れている。もう一人の自分が言うように、これは夢なのかもしれないなと少し思った。夢でもいいと、すぐに邪念を打ち消してやる。夢でもいい。今際の際だっていい。僅かな可能性を掴んでいた。最期の可能性。最期の研究。可能性の中で死ねるのならば、夢でも構わないと思った。暗闇を探す。見当たらない。どこにもない。見つからないまま視界が徐々に失われていく――。



　やがて着信音が止み、静かになる。「ジジジ、ピコピコ」さえ聴こえなくなる。
　無音。動かない身体。さいごにみえなくなった眼でまどのそとをみる。

　■が私のことをじっと■ていた。


　　　○

　人は可能性を求めて生きるものだと、誰かが言っていた。

　私の身体は、電源の落ちた《船》のなかで永遠の眠りに就こうとしている。
　着信音を鳴らした主――「彼ら」は、《船》の外壁を覆うようにして私のことを待っていた。生者には到底知覚できないであろう彼らの姿を■て、先ほどまで浸っていた感傷が打ち消されるのを感じる。生きていたならばきっと、笑い飛ばしていたであろう光景だった。
　故郷の惑星の人々に伝えたいとふと思う。可能性は無限であると――。
　その可能性、或いは夢や希望を生者に抱かせるのが我々の役目であると、無意識のうちに理解していた。生者は我々を、幽霊とか、宇宙人とかいう呼び名で好き勝手に定義している。呼び名は何でも構わない。けれど演じるのなら当然後者がいいと、私は心から望んでいた。
　いつか「本物」が現れるその日まで、可能性を継続させなければならない。
　私を乗せた《船》の外で。
　私の夢は、死してなお続いていくようであった。

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