【BNSK】品評会 in てきすとぽい season 9
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海なる世界
投稿時刻 : 2015.01.08 17:31 最終更新 : 2015.01.08 17:32
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- 2015/01/08 17:32:55
- 2015/01/08 17:31:22
海なる世界
すずきり


「地球を知ていますか」
 と先生は白いカンバスを見つめながら言た。また先生が妙な話を始めたな、と思て私は背筋を伸ばした。
「知らない人はきとおりませんよ」
 と返したら、先生は私の返事になんとも感じなかた様にすらすらとしべりだした。
「地球と言うのは、いわばおきな石ころです。宇宙をくるくると巡る石。意識も思惟も何も無い。そこへ太陽の光が差し込んでいるわけです。太陽と言うのは、とてもおきな火の玉です。地球はくるくるしていますから、光が当たたり当たらなかたりを繰り返しています。そんなところへ生まれたのが人間です」
 先生の口はラジオに接続されている如くに淀みなく動いていた。瞳は相変わらず白いカンバスに向かている。しかしその眼はカンバスを通り抜けてどこか別の世界を見つめているようだた。そのためかどこか別の世界のことを聞いているような気持ちになて来る。
「人間はその石ころと火のもとに生まれたわけですから、当然その生態は石ころと火の影響下からでることがありません。火の当たている間に動き回り、火の当たていない間は眠ります。火を栄養に育つものを食べて育ちます。畢竟、人は石ころと火に統べられるものであるということ。万物と何ら違いがない・・・意識なき石と木と、意識を持つ人間には存在の上で違いは無いということ。万物に違いは無いということ。全てが平等でしかも不可分であるということです」
 先生はやと筆をカンバスに乗せた。青色だた。
 私はただ「ははあ」とだけ応えた。先生の話はそれぎり途絶えたので、私は自分の絵に集中し出した。その晩、下宿に帰て布団に入たときにふとこの話を思い出したので、眠りに落ちる間先生のおりたかたことのなんたるかに見当をつけてみた。
 なるほど先生は石は万物であるとおた。我ら絵描きの仕事は万物をカンバスに移し替えること。そうでなくとも万物を材料にして絵を描く。そして火とは日の光。万物を照らす日の光が無ければ絵は描けない。光の表現の無い絵は無い。絵とはすなわち石と火。万物を等しく鑑賞し、光を残さず観察しなくてはならない。何故なら、それが絵描きの仕事の全てなのであるから。


 翌日先生にこう話してみた所、先生は「ううん」と唸てあご髭をひねり出した。私は先生の唸ている間、壁に掛けられた先生の絵を眺めた。十数枚が一列に並べられている。その全てが青い。数多の微小な差しかない青が塗りたくられているだけに見える。ただの模様にも見える。一体何を描こうとしているのだか、ちと見た限りでは鑑定できなかた。ようやと先生は口を開いた。
「人はとかく複雑な事を考えますね。形而上の問題をとりわけこねくり回します。しかしそちらに囚われると、形而下の問題を見失う事になる。人は本質をどちらに見いだすべきでしうか。と、こう言う私の口にした『人』という言葉が何を差すか、君解りますか」
「はあ、人ですか。そり、我々人間一般のことでしう」
 とくに深く考える気も見せずに私は応えた。しかしそれが先生の予期する通りの答えだた。
「そう、一般の人です。しかしこれは、誰の事を言うんでしうか。この世全ての人間のことでしうか。ヒトが地球上に存在してから今までの歴史上の全ての人間を指して言うとはちと考えられませんね。じあ、まさに今生きている全ての人でしうか。いや実は一般に言う『人』というものは誰でもないんです。誰でもないから、一般なのです。」
 いよいよ何が言いたいのか私には見当がつかないので、少しくぼーと聞き始めてしまう。
「『人』というのは名前です。しかし名前というものは人が生まれたあとに生まれたものですから、絵には出来ません。絵に描けるのは石ころと火だけです。わかりますか。床、天井、壁、時計、机、椅子。ここにはいろんなものがありますが、それらを写生して描かれるのは数字の描かれた円盤の上に三本の棒が載たものであて『時計』ではありません。四本の木の棒の上に大きな一枚板が乗たものであて『机』ではありません。いやこれでもおかしいのです。言葉で絵は表現できないのですから」
 先生は満足した風に薫陶を終えたという顔をしたので、あわてて正直に「何をおているのかよくわかりません」と私は言てみた。
 先生は頭をひねて、何が伝わていないのかと考え出した。私はどうやたら何も伝わていないということが伝わるか思案した。


 翌日先生は今日は教室を出ましうといて、画用紙と鉛筆だけ私に持たせて屋外へ歩き出した。
 ほんの数分歩いた所に公園があて、そこが目的地だた。先生は花壇へ歩み寄て、花をじと眺め出した。今度はどこでもない、まさに花そのものを見つめている眼だた。
「万物を鑑賞しなさい」
 と先生が言たので、私はそれにならて花を見つめてみた。パンジーやチプや何やと色々なのがある。絵に映えそうなものをと思て物色していると、小さな紫色の花弁を控えめに湛えた花を見つけた。なんと言う花だかわからなかたので、先生にこれは何ですかと聞いてみた。すると先生は待ていたというように話し出した。
「その花の名前は甲です。あるいは乙です。もしくは丙です。・・・何でも良いのです」
 私はその口ぶりに思わず吹き出した。
「そんな法は無いでしう」
「法も何も無いのです」
 先生は存外真面目な顔で言た。
「それは石ころではありません。絵にはなりません」
「名前を知る事は大切な事だと、以前はおたじありませんか? 世界を認識するということは名前を知る事と等しい。ミヤマクワガタもヒラタクワガタもコクワガタも名前を知らない者には分別できない。認識できない。ということだたと思います。言葉は世界を切り刻む。どんどん切り刻んでいて最小単位まで刻まれたものを知て初めて認識できると、こうおたはずですよ。石ころも刻まなければ認識できません。名前で切り取らなくては、絵にできないのでは?」
 私は鬼の首を取たつもりでまくしたてた。おかしな話ばかりする先生への鬱憤ばらしである。
 しかし先生は泰然としてこう応えた。
「君、これをスケチして見なさい」
 先生は空中で指をくるくる回している。
「これなんと言う名前か知ていますか。空気というのです。さらに分解すれば、酸素、二酸化炭素、窒素などなどです。ほら名前を知ているから、描いてください」
 私はこの先生のいじわるに少々暗い気分になた。先生との意思疎通がままならず、結果こう応対されてはたまらない。しかし先生にとて私がよい生徒でないことは間違いない。私はただ肩をすくめて平気なふりをした。
「空気は描けません。透明ですから」
「そうでしう。しかし目に見えないのに名前があるのは不思議だと思いませんか」
「空気は見えませんけど、触れるというか、実体を感じられますから」
「そう、呼吸してみれば確かに感じる。存在を認知できるわけです。しかし見えない。だから絵に描く事は出来ない。話を戻して、この紫色の花をスケチしろと言われたらどうです」
「そり描けます」
「じあひまわりを描けと言われたら描けますか」
 この辺りにひまわりは無い。しかし、ひまわりなんて小学生でも見ないで描けるはずだと私は考えた。
「無論描けます」
「それじあ、この紫の花のスケチとひまわりの絵を引き比べてみたら、どうです」
 私ははてなと首を傾げた。どちらも花の絵には違いない。花の種類は違ている。そこで私ははたと先日の先生の話を思い出した。そして合点した。紫の花の絵は、まさにその通り目の前にあるものを絵の上に移転させたものだ。一方ひまわりの絵は『ひまわり』一般を表現したものだ。そんなひまわりはこの世のどこにも生息していない。私の頭の中にある『ひまわり』という名前と結びつく像、つまり概念でしかない。つまり先生は、それは絵でない、と言いたかたのではなかろうか。
 こう話すと先生は頷いた。
「名前というのは概念であり、言葉の上で利用するために存在するものです。一言で言えば、それは情報にすぎません。酸素、窒素は知ていても、知覚はできませんね。それらは情報そのものだからです。ひまわりは情報であり、且つ実際に存在を認識した経験のあるもの、実在を知ているものです。だから絵には描けます。しかしその絵は情報を紙の上に移転させたものですから、畢竟その絵も情報の枠をでません。しかし」
 先生は強調して言た。
「この名も知らぬ紫色の花は、まだ情報ではありません。実在ただそれしかありません。それを絵にする事が出来たら・・・しかしそれも難しい。私たちは知識がある故に、見た事の無いものでも、大体の見当をつけることができますから。この花も、どこまでが花弁で、茎で、葉であるかわかてしまう。するとそれらの概念と照合しながら絵を描いてしまうわけですから、情報が入り交じてしまう。なまじ知識があるためにこの花の存在を純粋に見ることができないんです」
 私はなるほどと思た。純粋なる絵の為にはいかなる情報も混ざてはならないというのが先生の自説らしい。しかし、それは人の成し得る業だろうか。先生はこの世界のすべてが等しく石ころの一部であると言た。我々人間がどれほど知識を発達させた所で、人もそこらの木や花と不可分であると。じ、その不可分なる一部である人間が、それらの外へ飛び出して、石ころを客観的に認識することはできるのだろうか。一切の先入観や知識情報を交えずこの世界を認識し、絵にするなどというのは、神の業ででもあるように思える。先生は決して届かぬものへ向かて行ているように思える。
「それは難しいことですから、まあ心の片隅に留めておいてくれればそれだけで結構です。ただ一つだけ覚えておいて欲しいことは、物を見る時は概念を頼りに見ない様に務めて欲しいということだけです。ひまわりだと思てひまわりを見ている内は、ひまわりという概念を見ているに過ぎない、ということです」
 先生の言いたい事はつまり、この世界の見方とでもいうべきものだた。描く前に鑑賞する能力を養わなければならない。ただそれだけのことなのだ。私はそう納得した。


 先生は庭が好きですよね、ということを先生に話したところ、国の遺産だか何かに登録されている有名な庭に連れて行てもらえることになた。
 先生は良く一軒家が欲しい欲しいと雑談中に話す。そり一軒家の方がアパートより良いでしうなと返すと、先生は違う、庭が欲しいんだと言う。しかし今時、ろくな庭を持た家がありはしない。それどころかちと立派なマンシンの方が有り難がられる昨今に、庭が欲しくて一軒家を持ちたいというのは好き者の先生らしいことこの上ない。
 また、絵の教室には資料と称して先生の本が大量に置かれているが、その中には庭の写真集や庭論の如き理論書が多くある。今日もどうぞ宜しくお願いしますと教室に入てみると、先生が一人庭の写真を眺めている姿を何度となく見かける。そうしたことを材料に推理して、先生は庭が好きですよねと言てみたのである。
 旅費は先生持ちで、私たちはリニアに乗た。先生はいつになく機嫌が良さそうだた。
「君、石ころの話をまだ覚えていますか」
 先生は言た。石ころと火の話は先生の話の中でも強烈だたので私はよく記憶していた。
「ええ、よく覚えています」
「今日行くところの庭を見たら、その内容がもと良く了解できるかもしれません。いや逆に石ころの話を良くわかていれば、庭をもと楽しめるかもしれません。いやそんな余計なことは考えないで宜しい。行けば解ります・・・」
 なんだか要領を得ない先生の陶酔した口ぶりは、まるでこれから遊園地にでも行くかの様だが、実際の目的地は文化遺産である。私には庭を楽しむ間口がないから、本当の所はこの旅行を楽しむつもりである。従て新幹線の中でも先生に話すことは庭とは離れた内容になた。
「先生は向こうの土地のご飯屋さんとかにも通じられているんですか」
「ご飯? 学生時代に通ていた定食屋がまだあれば・・・。いや確か庭園近くに料亭があたような」
「料亭なんて、高いんじないですか。私はあんまり値の張るご飯は味が解らなくなるので困ります」
 先生は怪訝そうな顔をした。
「はあ、そうですか。じ、適当に探せばどこかあるでしうから、現地で考えましう」
 私は見知らぬ土地の食事に思いを馳せて、旅程を楽しむことにした。
 果たして昼過ぎに私と先生は庭園の中へ入り込んだ。昼は車内で駅弁を食た。これも旅情があて、私に満足を与えた。
 古い木製の門の左右には竹垣がどこまでも連なていて、その内を覗く事は出来なかた。放たれた門の中も、すぐ砂利道が右に折れていて、草木の壁のために内側の全容はちともわからない。一見、迷路のような感じもする。周囲には警備員の他、人は無い。風が吹く度に葉の触れ合う音が聞こえるが、どこまでも遠くからその音が重層的に響いて来るので、庭の規模が底知れない。
「この庭は日本からまるごとそのままここに移設したものなんです。だから周囲の風景は元の庭園とは異なています。元がどんなだか私も写真でしか知りませんけど。しかし庭を享受する分には特に弊害もないでしう・・・じ、入ろう」
 といて先生はずんずん入ていく。私もその後に影の様に付いていく。
 庭園の中には橋だの池だの、小さな滝だの、色々な要素があた。植物は四季折々に咲くものをそろえていて、広く拡がた原もあれば、築山があて地面がうねり上がたところもあた。木の生い茂るために薄暗い道もあれば、空を仰ぎたくなるほど開放的な道もあた。そしてそうした中に、ちこんと屋敷がたていた。人間がこの中で暮らすというのに違和感を覚えるほど、庭の自然が強力な印象を私に与えた。
「いや人もここに住まなくては、庭たり得ないのです。虫も住む、鳥も住む、そして人も住む。それでこそ庭というものです。逆に、人の住むところに庭を輿らえるのでもありません。人も人の住居も庭の一部です。庭は家のおまけでも空きスペースでもありません。家が庭の一要素なのです。しかし文化遺産なわけですから人がここに住む事はありえませんね・・・惜しいような仕方が無いような」
 池に突き出した四阿に休みながら先生はそう話した。
「なんだか石ころの話を彷彿とさせますね。すべてが庭の一部分だなんて。つまり、庭の中にあるものもまた、不可分だということでしうか」
 そうです、と先生は頷いた。
「絵の課外授業じないですけど、君、この庭を巡た後で、この庭を絵にしろと言われたらどうしますか」
 実はそう来るのではないかと思て私は絵に撮りたくなる構図をずと考えていた。この庭を代表するなにかがありはしないか、と目を光らせていたのである。しかし結論を言えばそんなものはどこにもなかた。ここの住居があるいは最も絵らしいものになるのではないかと予想していたのだが、前の通り、屋敷も庭のある一部に過ぎず、それを絵にした所でこの庭園を表現するには物足りないだろう。先生はこの庭を絵にするとしたらどう描くのだろうかとむしろ問うてみたいくらいだた。
「そう、君の目算は正しい。庭のどこをきりとても、この庭ではない。逆金太郎飴とでもいたところでしうか。ハハハハ」
 先生は自分で言た事がよほど面白かたらしく、声を出して笑た。私は金太郎飴なるものを知らなかたので何を言わんとしているかわからなかた。
「しかし不思議ですね。全ての要素はこの庭のものなのに、要素だけ取り出すと庭でなくなるなんて」
 私は笑う先生そちのけで言た。
「失礼・・・いや、実を言うとそれは当たり前の事で不思議でも何でもありません。必要条件とか十分条件とか、数学で学びませんでしたか」
「あ、私にはよくわかりません」
「そうですか。簡単に言えば、君がさき言たのと同じことですが、庭は要素の集合なのであて、要素そのものが庭ではないということです。人間だてそうでしう。いろんな物で構成されていますけど、爪や横隔膜そのものは人間じありません・・・海を想像したらわかりやすいでしう。海を見れば、どこまでも海だなあとわかりますけど、手で掬てみたそれは、海とは思わないでしう」
 私は解た様な解らない様な気がした。
「しかし海を絵に描いてみろと言われれば簡単ですよね。海中の光景でも、海辺の景色でも。庭となるとそうは行かなくて、どこを描いてみても、庭という気がしない・・・」
 先生はちと考えるそぶりを見せた。あるいは単に庭に息づく鳥や木々に耳を澄ましているだけかもしれなかた。
「君、それはまた目の前のありのままの海を描くから簡単に思えるのです。私や君が描くのが難しいというのは概念の庭を描こうとしているから難しいのです。この間、概念のひまわりを描くのは簡単だと言いましたが、概念とありのままのモノでは、必ずしも概念のほうが簡単とは限らないのです。確かに概念の方が記号的で表現しやすいかもしれません。しかし抽象の度合いが高ければ、それだけ絵にするのは難しい。恋を絵に描く事は難しいでしう。恋はひまわりに比べて遥かに抽象的なものだからです。同様に、庭というものは今目の前に見ていますけど、抽象的な概念なのです。私たちは視界に入る一面しか捉えられない。しかし庭内の道を巡ることで、その全貌を経験的に知ている。その経験的知覚よて私たちは庭という概念を構成しますから、絵に経験を反映させなければ庭を絵にした気がしないのです。しかし経験を絵にする事などできない。わかりますか」
 私はうんうんと頷きながら内心首を傾げた。先生の話はいつも本当の事を言ているのか怪しい。
「庭と言うのは、さき石ころと同じという話をしましたが、まさにその通りで世界そのものなのです。世界のミニチア、それが庭であると言ていい。即ち庭を描けというのは世界を描けというようなものです。世界を絵にしてくださいと言われたらどうしますか。宇宙から見た図でも描くしかなさそうじありませんか。庭も同様です。絵には出来ない」
「えーと、じあそこらの一軒家にある庭は? あれは縁側から見れば絵に描けそうです」
「そうした庭と、この文化遺産とよばれる庭では、ちと格が違うと言わなければなりません。概念で感じさせる、世界を構築する庭が、素晴らしい庭なのです。前者と後者は別物と考えた方が宜しい」
 それから私と先生は色んな所に寄り道をしたせいでご飯屋さんを探す暇も無く、駅に併設されたフストフードを食べた。しかし地方限定メニがあて、私の旅情を刺激し、やはり満足を与えてくれた。先生はその様を見て何か勘違いしたらしく、君の舌は安ければ安い程満足を覚えるらしいとおた。


 帰りのリニアで、先生は窓の外をぼんやりと眺めていた。
「さすがにお疲れですか」
 私は聞いた。コロニーの外周を走るリニアでの遠出には私も堪えた。何度乗てもふとした拍子に宇宙へ飛んでいてしまいそうな錯覚に陥る。これが精神に疲労を蓄積させるのだろう。
 先生は窓から眼を離さずに応えた。
「あれ、あれが地球だよ」
 私は先生がじと見つめている小さな星を見た。黒々としたものが太陽光を浴びて漆黒の宇宙にぼんやりと浮いている。
「知ていますよ」
 と私は応えた。
「地球というのは、実はこんななのじないかと、庭に居ると思うのです。我々の世代は情報でしか自然というものを知らない。写真や絵や映像では知ているが、それはやぱり情報でしかない・・・。地球の七割りが海だたということは知ているでしう。コロニーの作られた海とは比べ物にならないものだたと思います」
 私は先生の持つ地球への思慕というものがわからなかた。人間の住処はどんどん、そこから離れていくものだ。
「海という言葉は、そもそも地球の七割りを占めるそれのことのみを指す言葉ではありませんでした。広大なもの、抱え切れない程膨大なもののことを海と呼んだのです。例えば砂漠も海と呼びました。人類は石ころの上で生まれました。しかし今や石ころを離れてしまていますね。それでも本質的には地球と人はやはり不可分なのです。このコロニーも地球環境を模倣したものです。地球と言う概念を絵にしたと同じです。今の若者にはあまりそういう意識が無いのでしうが。しかし全ては不可分なのです。人間は名前で万物を切り裂きました。石と名付け、木と名付け、動物と名付け、人と名付け、バラバラにしてしまたのです。そして地球は地球に過ぎないと、故郷まで切り離しました。かつて地球では何でもそうやて切り裂いていく風潮があたそうですが、その頃と何ら変わりがありません。本来はこの世界は海なのです。どこにも切れ目が無い。人も星も海の一雫なのです。太陽も、どの星々も全て繋がているのです。別々だと思うのは概念が別々だからです。わかりますか・・・もともと名前など無いのです。全てが不可分で等しい、それが世界というものです」
 私は話を聞きながら、先生が教室で描いていたのは海だたのだな、と合点した。


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