輪廻蝉
常永二十一年 八月
蝉が鳴いている。
羽根をを震わす摩擦音が腹の中で共振し空気を鳴らす。
うだるように熱いが、村の子供等は熱さも気にせずに遊び、喚く。
そんな様子を眩しげに眺める目がある。城生五郎貞光(じ
ょうごろうさだみつ)、城生家当主重光の嫡男だ。
「いかが致しました?」
馬上の貞光に、同じく馬上の従者が語りかける。従者の名は丸子祐定(まるこすけさだ)、貞光の乳兄弟で股肱の家臣だ。
「いや、こんな暑い日でも童らは遊ぶものだな」
「左様でございましょう。我らもあれほどの齢の折は暑さなど気にせずはしゃぎまわっていたものです」
貞光は何か思案げに首を傾げる。
「そうであったかな」
「そうでございましょう。覚えておられないので?」
「覚えてはいる。だが、どこか虚ろでな。まるであの頃は常に夢を見ていたような気さえする」
「夢で御座いますか」
そう言って天を見上げた祐定の青い瞳にはさらに青い空が映る。
鳶が一羽、円を描いて飛んでいた。
「ああ、あの頃の思い出が、夢か現か、偶にわからんようになる」
確かに貞光は幼少の頃、この村の子等のように遊んでいたのだ。思い出される。
一本杉の木陰。田畑に挟まれた小川。地蔵ヶ原の野っ原。
走り回って、転んで、笑って、泣いた。
「しかしながら」
祐定は貞光の目を見据えた。
「貞光様の夢はまだ半ば」
「確かに、まだ夢の半ばかもしれんな」
―だがそれは父上の夢を見せられているだけかもしれん。
貞光はそれを口にはしなかった。口にはしなかったが祐定には察せられているかも知れなかった。
あの青い目は何でも見通す目だ。
あの目が、祐定をそうさせた。そうすねば、生きていけぬようにさせた。
貞光は祐定を見返すと、馬首を返した。
「お帰りで?」
「いつまでもこうしてはおれまい。支度をせねばな」
「支度で御座いますか?」
祐定はとぼけた様子だったが、祐定が見抜いていることは貞光とて承知している。
「父上はけりをつけるつもりだ」
「……」
「戦だ。手木州を攻める」
ふと、貞光は右手の古傷が疼くのを感じた。
そうして思い出されるのは、かつて幼少の頃に共に遊んだ者の顔だ。
逢いたい。
そんな気持ちを振り払うかのように貞光は馬を走らせた。
常永七年 八月
蝉が鳴いている。
子は泣くまいと、歯を食いしばっている。
右手からは赤い鮮血が滴り落ちている。
「泣くか! 泣けばよい! 弱い奴は泣け!」
そんなふうに少女は、泣きそうな少年を罵倒する。
「泣くものか!」
少年は言い返すもののその声は震えている。
「弱いからそうなるのだ! 弱いものから死ぬのがこの世のならいと、父上がおっしゃっていた」
「わしは……わしは、弱くない!」
そう言って少年は刀代わりの棒切れで少女を殴りにかかる。
だが少女は事も無げにそれを避けると、少年の背中を打った。少年は呻きをあげて、膝をつく。
「ほら、弱い」
「弱くない」
「もう、そのへんにしてくだされ千代姫様」
もう一人の少年が見かねて止めに入った。青い瞳をしている。名は西坊丸。後の丸子祐定である。
一方必死に涙をこらえている少年は、最松丸。後の城生貞光だ。
そして男勝りの腕っ節で勝ち誇っている少女は千代と言った。直弓家当主・直弓兼盛(なおみかねもり)の娘だ。
城生家の領地と直弓家の領地は接しており、一族間での交流もあった。
「最松丸様、手当を」
手ぬぐいで傷の手当をしようとする西坊丸であったが、最松丸はその手を振り払う。
鮮血が舞う。
傷は深く、血は流れ続ける。
「まだじゃ! おなごになぞ負けてなるものか!」
「なりませぬ!」
必死に止めようとする西坊丸であったが、最松丸の気迫に思わずたじろいでしまう。
「ふん。面白い」
その気迫に答えるように千代は棒切れを構えた。
常永二十一年 八月
蝉が鳴いている。
直弓兼盛は屋敷の廊下を気忙しげに歩き回っていた。家臣たちに指示を飛ばすと、何か考えこむように庭を眺めたりしている。
「父上、いかがなされました?」
「ん? 千代か」
娘の姿を認めた兼盛は眉間に寄せていた皺を緩める。
「何ということはない。心配するな」
そんな父の言葉を信用するような千代ではない。
「嘘をおっしゃらないで下さい。顔を見ればわかります」
「ふむ……隠しきれんか」
「いかがなされたのです」
「城生の動きが怪しい。重光めがなにか企んでおる」
城生重光、貞光の父で直弓家とともに仕えていた手木州家に謀反を起こし、隣国の戸保井家と同盟を結んだ男だ。
領地を接している直弓家とは幾度も小競り合いがあった。
「戦でございますか」
千代は鋭い目で父を見た。
「で、あろうな」
娘の視線を避けるように兼盛は目を庭に向ける。
「大きな戦に御座いますか」
「今度ばかりは彼奴も賭けに出るであろうな」
千代は貞光や祐定の顔を思い浮かべる。
久しく見ていない。
だが、そんな考えを掻き消すかのように、兼盛がひどく咳き込み始める。
「父上!」
慌てて背中を擦るがなかなか兼盛の咳は収まらなかった。
口を抑えた掌には赤いものが見える。
「父上……」
「皆には黙っておれ」
「しかし……」
「戦が起きるのじゃ」
千代は兼盛の一人娘だ。養子の男子もまだ迎えていない。
「わしがおなごに生まれて来たばかりに……」
―おなごでなければ父の代わりに戦えたというのに。
「そう言うな。わしはお前のような娘を持てて幸せなのじゃ」
兼盛は苦痛を隠すように笑いながら千代の頭を撫でてやった。
「お前には、本当に迷惑ばかりかける」
「父上……」
兼盛は娘に背を向けると、再び眉間にしわを寄せ思い詰めた表情に戻った。
―我が体よ。あと少しだけもってくれ……。
常永十四年 八月
蝉が鳴いている。
貞光は廊下を早足で突き進み、障子を勢い良く開け放つ。
「父上!」
貞光の目の前には口をぽかんと開けて間抜けな面をした父・重光の姿があった。
「どうした貞光。驚いたぞ」
「いったいどういうことですか!?」
重光は腕を組み、首を傾げる。
「はて、何のことか」
「千代のことです!」
貞光は肩を怒らせながら重光に詰め寄る。
「ああ、そのことか。直弓兼盛殿の娘、千代姫殿がお前の許嫁になった。将来、我家と直弓家は縁を結ぶ。それだけだ」
重光は大したことではないとでも言うようにあっけらかんと言い放つ。
「手前に相談もなしに勝手に!」
「いいか五郎、お前もこの家の嫡男だ。ならば覚えておけ。決まることは勝手に決まる。そういうものだ」
「わかりませぬ」
「だが決まってしまったものはしようがない」
その後、何度も問いただそうとするも貞光は重光に簡単にはぐらかされてしまった。
「ならば、直接直弓にいくしかあるまい」
思いつめた貞光は祐定の前でそう宣言した。
「何故で御座いますか」
祐定は苦笑しながら、乳兄弟の憤懣とした顔を見る。
「納得いかん。嫁を勝手に決められたのだぞ!」
「千代姫様のことがお嫌いなのですか」
一瞬の間があった。貞光は言葉に詰まった様子だった。
「嫌いだ」
慌ててそう言ったものの、その顔には複雑な色が浮かぶ。
わかりやすい、と祐定は思った。
「確かに腕っ節が強いのは玉に瑕ではありますが、優しいお方です」
「ならばお前がもらえ」
「ご冗談を。拙者では釣合いませぬ」
「わしならば釣り合うか。それは馬鹿にしておるのか?」
祐定は何も言わずただニヤニヤとしているだけだ。
「もういい! わしは直接千代に聞いてくる」
そう言って厩へ駆け出す貞光のあとを慌てて追いかける祐定であった。
馬に乗った直弓千代と行き当たったのは丁度子供の頃に遊んでいた野っ原だった。
「貞光!」
「千代!」
まるで一騎打ちの名乗り合いでもせんばかりの勢いで相手の名を呼び合う。
お互い険し表情だ。
そんな様子を少し離れた場所で、祐定は眺めていた。一体どんな顛末になるやらと傍観を決め込んでいる。
「聞いたか?」
二人は同時に同じ言葉を発し、二人ともすでに婚約のことを知っていることを改めて知る。
「お前と結婚するなどもってのほかだ」
「それはこちらの台詞」
「馬鹿げている」
「ああ、とんでもなく最悪だ」
その後も二人の口からは罵詈雑言が飛び交う。祐定は笑いを堪えるのが難しかった。
「何が可笑しい!」
これまた二人同時に祐定を睨みつけ、声を荒げる。
「申し訳ございません」
そう言って頭を下げる祐定だが、その顔は笑っている。
二人とも馬から飛び降りると詰め寄っていった。
風がふき、千代姫の長い髪が棚引く。
子供の頃は邪魔だと言って自分で髪を切っていたようだが、さすがにそんなこともできなくなっていた様子ですっかり美しい黒髪が長く伸びている。
「だが」
「親の決めたこと」
「わしらにはどうすることもできん」
いつしか、二人も笑い合っていた。
「もう稽古をつけてやる事もできんな」
「稽古だと? わしの剣術の腕を舐めているのか」
「剣術? ただ振り回しているだけだろう」
「言ったな」
「ならば」
「勝負」
二人は近くに転がっていた棒切れを拾い上げると、刀のように構えた。
また風が吹く。
常永二十一年 八月
蝉が鳴いている。
遠に日は暮れているというのに未だにうるさい。
灯火の元、千代は目の前の書物に集中しようとするが、蝉の声に邪魔されて、ついつい別のことを考えてしまう。
戦のこと。父のこと。貞光のこと。
そんな想念が目まぐるしく巡っていく中でついついうつらうつらとしていると、壁に何かがこつりと当たる音が幾度か聞こえてきた。
なんだろうと思い、外へ出てみる。
庭は闇である。
だが闇に紛れた人影を認めた。
―曲者?
人を呼ぼうとした時、そのものが前に出てきた。見知った顔である。
丸子祐定。
かつての友。そして、今は敵。
祐定は静かに膝をつき、頭を下げる。
「城生家の者が何をしに参った」
「お迎えに上がりました」
祐定は静かに、だがはっきりと言った。
「迎え? 妾は城生の者ではない。この家の娘だ。迎えなど来る道理はない」
「しかし貞光様と千代姫様は許嫁」
「それは遠の昔に流れた話」
「ですが、貞光様は未だ千代姫様を想っておられます」
「そう言ったのか」
「言葉は聞かずとも、わかります」
「言葉も聞かずに、わかると申すか」
「わかります。そして、あなた様も」
祐定は青い目をした鬼子として捨てられ、重光に拾われて貞光の乳兄弟として育った。
その恩義を、祐定は忘れない。だから城生には絶対の忠誠を誓っている。
しかし家中でも青い目は不気味がられた。
そのたびに重光や貞光が庇ってくれたが、それでも偏見や好奇に満ちた目は無くならなかった。
だから人の心を読むことを覚えた。
人の目を見据え、相手の心を悟ることを学んだ。
だが、貞光と千代のことに関しては心を読むまではなかった。
「貞光も幸せだな。そなたのような家臣、いや友を持って」
「某は今でも千代姫様の友でおるつもりです」
「そうだな。そう……例えどんな境遇であろうとも、我らは友でありたいものだ」
千代は寂しげな目で祐定の青い瞳を見つめた。
「友同士でも、殺しあわなければならないのか」
「時勢故に」
「妾は父を捨てることはできん。この家も」
「……」
「分かっていてきたのであろう」
そう祐定には分かっていた。分かっていたが、来れずにはおれなかった。貞光のため。己が主君となる人のため。
そして、別れの挨拶のために。
これが最期になるであろうと、そう思われてならなかった。
「ではまた。我ら城生の勝利の暁には、お迎えに上がります。貞光様とともに」
「ふん。負けんよ。我が父は。我らが直弓が支える手木州家は」
祐定は音もなく消えていった。
祐定が消えてもしばらく、千代は祐定のいた場所を見つめていた。
蝉が鳴いている。
戸保井家の援軍と合流した城生の軍勢は破竹の勢いで手木州領内を進軍する。それもそのはずで手木州軍は守りの難しい枝城を捨て、兵力の集中を図っていたのである。城生軍は軍勢を二手に分け進軍した。一方は当主重光が戸保井の援軍と合わせた主力を指揮し、一方は貞光を大将として進軍していた。
大きな戦闘も起こらず手木州領内の深くまで入ったが、手木州軍にとっては地の利もある。慎重に進むように重光は全軍に通達する。
貞光の軍勢が初めて大きな軍勢と衝突した。
不動ヶ原で待ち伏せをしていた直弓の軍勢とぶつかったのだ。
はじめのうちは貞光の軍勢が力押しをしているように見えた。
矢が飛んでくるのを太刀で切り弾きながら貞光は軍勢に下知を下す。
「押し潰せ! 敵は小勢ぞ!」
勢いを増す城生軍に次第に敵は退き始めていた。
直弓の旗が揺らめいている。
ふと、千代の顔が頭をよぎる。
「貞光様!」
祐定の声にはっとすると足軽の鑓が突き出されてきていた。
どうにか避けたところに祐定が駆けつけ馬上より太刀で足軽の首を飛ばす。返り血がかかった。
「考え事は後になされませ! ここは戦場ですぞ!」
「すまぬ。お主の言うとおりだ」
なおも敵を押していくが、どうにも妙だった。だが、妙な感覚を覚えた時にはすでに遅かった。
伏勢が現れたのだ。
「罠だ!伏勢だ」
矢が次々と飛び、茂みの中から敵がわらわらと湧き出してくる。
「撤退だ!」
だが、撤退しようにもそこらじゅう敵だらけだ。
「貞光様! 某が殿をつとめます」
「だが!」
「お早く!」
「貞光様を早く連れて行け!」
祐定は郎党にそう下知すると、自らは敵の中へと突っ込んでいく。
「祐定!!」
貞光は引きずられるようにしながら後ろを振り返る。
「輪廻の先にてお待ち申し上げます」
笑っていた。
祐定は笑っていた。だが、それもすぐに見えなくなった。
殿を務めた祐定と手勢は敵の中に呑み込まれた。
「使えんな」
伝令の報告を聞きながら、重光はそう漏らした。
その言葉に戸保井家の援軍を指揮するため派遣された和名尾重遠は薄ら寒いものを感じた。
この男は己の息子すら駒としか考えておらぬのか。
「まあ、死なずに残った兵をまとめただけましではあるが……さて和名尾殿、愚息は負けて兵を失ったがこちらは順調だ」
「左様ですな。問題は手木州が籠城するか否かですが」
「手木州の杉観音城は守るには難しい城」
「ふむ。なれば篭ってもらったほうが容易く勝てると」
「臆病者の手木州はともかく、宿老の直弓ならば打って出ることを進言するでしょうな」
「ならば軍勢をもう少し進めて川を渡り、この丘の上に陣を引くことといたしましょう」
「無難ですな。まあ、無難に勝ちましょう」
丘の上から敵の軍勢が見える。
丘の上に陣取った城生軍は地理的に有利さがあるし、軍勢の数も手木州軍のそれを上回っている。
「押し潰せ」
城生重光が言った下知はそれだけだった。
大軍が押し囲むように手木州軍を攻めていく。
伏勢を隠すような場所もない。
あとは用兵がものを言う。次第に情勢は明らかになっていく。
城生の軍が手木州の軍を圧倒している。
だが、そんなさなか、城生を押し返すような勢いを持つ一軍があった。
本陣を目指し突き進んできている。
それを指揮する将は真っ赤な甲冑を身にまとっている。
「直弓か。ちと不味いかもしれんな」
床几に腰を掛けていた重光が思わず立ち上がる。
「父上、私が参ります」
本陣に留め置かれていた貞光が言い放つ。
「ならん。お主は我が世継ぎぞ」
「進徳丸がおります。祐定は直弓の伏勢に殺された。祐定の仇を討たねばならぬのです」
「ならんと言っている」
「聞こえませぬな」
そう言うと、貞光は本陣を去っていった。
「よろしいのですかな」
和名尾がそう尋ねると、重光はゆっくりと頷いた。
「ここで死ぬようならば、それはその程度だっ