銀座マンホール in the Manhole
キミシマは雨に濡れた銀座の裏通りを一人トボトボ歩いていた。そろそろ春が来るというのに、しぶとい冬が街にへばりついているような、寒い夜だ
った。
彼は所々ほつれた黒い革の鞄をぶらぶらさせて、何度も時計を見てはため息をついた。時刻は23時半。つい最近彼女と別れたばかりなので、さっきまで、一人孤独にバーで酒を飲んでいたのだが、ふと何かを無くしたことに気がついて大慌てで店を飛び出した。今日もずっと身につけて持っていたはずなので、駅からバーのあるひっそりとしたビルの隙間の通りのどこかで落としてしまったのだろう。キミシマはそう考えて、深夜の銀座を歩き回った。
30分探してもそれは見つからなかった。鞄の中をひっくり返しても、ジャケットを裏返してもやっぱり無かった。酒も薄れてくると、面倒なことになったという思いがずしりとキミシマの肩を重くした。
終電も近い。キミシマはまたため息をついた。
すると薄暗い街灯の端を何かが通り過ぎた。あたりには誰もいないと思っていたキミシマはびっくりして小さく「ひっ」と声を上げた。それはでっぷりと太ったネズミだった。灰色のまるっとした身体を左右に振りながら、ネズミはキミシマにお尻を向けて走っていった。キミシマはなんだネズミかと安堵しつつ、その行方を眼で追った。ところがネズミは10mほど路地をすすんだところでこつ然と姿を消した。街灯の光が届かない闇の中へ吸い込まれたように見えた。
キミシマはなんだろうと思って、ネズミが消えたところまで歩いていった。雨に濡れたアスファルトは黒曜石のように黒々としていて、街灯や店の看板の光を反射してキラキラと輝いている。しかしネズミの消えたところだけが、光を一切反射せずに、まるで世界を丸く切り取った様な具合に、深い闇になっていた。キミシマはそれがなんなのか一瞬の間わからなかった。あまりにも黒くて闇が濃かった。
携帯のライトを付けてそこを照らすと、それが丸い穴だということがすぐにわかった。
キミシマはまたしても、なんだ、とほっとした。それはマンホールだった。何故か解らないが蓋がないのだ。キミシマはライトで照らしながら周囲を探してみたが、青いプラスティックのゴミ箱や煙草の吸い殻、ビール瓶が転がっているだけで、蓋らしいものはどこにも無かった。
そのまま素通りしても良かったが、キミシマは流石にこれは危ないな、と思った。自分も普通に歩いていたらこのまま真っ逆さまに穴に落ちて、大けがをしていたかもしれない。あるいは、死んでいたかもしれない。偶然ネズミが先を歩いていったから、穴に気付くことが出来たのだ。
すると穴の底からかつんかつん、と足音が響いて来た。
誰かが下に居るんだ、とキミシマは思った。下水道の業者か何か知らないが、そいつが蓋を開けっ放しにしているのだろう。キミシマは危ないぞ、と注意してやらねばなるまいと考えてマンホールの梯子に手をかけた。
梯子は巨大なホチキスの針みたいな形をして、底まで並んでいるようだった。キミシマは気をつけながら下っていった。穴は随分深かった。途中上を見上げると、丸く切り取られた空がとても小さく見えた。ということは穴に落ちたらそれだけ危ないということだ。
キミシマはやっと一番底に降り立った。真っ暗で何も見えない。さっきの足音はどこへ行ったんだろう? 頼りないが、携帯のライトをつけて辺りを歩いてみることにした。降りてすぐ右は鉄格子で塞がっていたので、その逆方向に足音の主がいるはずである。
ライトでぐるりを照らしてみると、天井はトンネルの様に丸く、地面は真っ平らにコンクリートで舗装されていた。意外なことに、水の流れは無かった。マンホールの底というのはどこも下水道で、水が流れているもんだと思っていたキミシマはちょっと驚いた。ここは作業上用いる何かしらの通路、連絡路みたいなものかもしれない。
しばらく歩いていると、暗がりの向こうから足音が近づいて来た。やっと人を見つけた、と思ったがライトでその姿を見てキミシマは仰天した。彼はモスグリーンのヘルメットを被った白人だった。そしてその手には重々しい銃が握られていたし、背負ったリュックははち切れそうな程膨らんでいる。ベルトにはもっと物騒な武器もひっかけられている。
彼は汗を垂らしながら、つま先から50センチ先の辺りを真剣に見つめながらキミシマの横をすっと通り過ぎていってしまった。
キミシマはというと、その場に固まっていた。銃を持っていたのと身体のでかい外国人というのもあって、心底びびってしまったのだ。はっとして振り向いた時には、すでに携帯のか弱いライトでは照らせないところまで離れてしまっていた。
彼はなんだったんだろう? と思っているうちに、また足音が闇の中から聞こえて来た。それも、一人二人ではない。ぞろぞろと、重層的な響きがする。
最初に見えたのはトレンチコートを着た若い女性だった。ポケットに両手をつっこんで、やれやれという風に頭を振りながら、やはり彼女もキミシマなど気にもかけずに、脇を抜けていった。そして次に野球のユニフォームを着た背の高い青年がよたよたとしたおぼつかない足取りで現れた。
それから何人も何人も次々と様々な姿が現れた。この闇の向こうには何かがあるらしい。
キミシマは誰かに声をかけてみようという気になった。皆一様にキミシマに眼もくれないが、質問くらい聞いてくれるだろう。
次に現れたのはギターケースを抱えた、長髪の男だった。年齢はキミシマと同じくらいかもしれない。
「あの」
そう言うと、彼は顔を上げて立ち止まった。
「俺?」
長髪の男は指を鼻に向けて言った。
「ええ。……この先って何があるんですか?」
キミシマは真っ暗闇の向こうを指差した。
長髪の男は、キミシマの差した闇の方を見てから、「何も」と言った。
「え? 何も無いんですか? こんなに沢山の人がいるのに」
キミシマは訊いた。
長髪の男は面倒くさそうに頭をかいてから、息を吐いた。それから恥ずかしそうに、人目をはばかるように、ぼそぼそ言った。
「つまりさ、何も無かったから、みんな帰って来てるんだよね」
長髪の男はそのまま別れも言わずにキミシマを通り過ぎていった。
また一人きりになったキミシマは、奥に進むか迷った。この先には何も無いというなら、行っても仕方が無い。しかしあの男の言うことを鵜呑みにして引き返していいものか。
と、そこへグレーのスーツをきりっと着こなした姿勢の良い女性がかつかつとヒールを鳴らしながらやってきた。
「あの」
キミシマはさっきと同じように声をかけた。
女性はきびきびと頭をキミシマに向けて、「何?」と答えた。ハスキーで色っぽい声音をしていた。
「この奥って、何かあるんですか? 貴方はどこからやってきたんです?」
「この奥も何も、ずっとこの調子よ。真っ暗で、息が詰まりそうなくらい狭苦しくって、寒くて……そんな道がずっと向こうまで続いているだけ。たぶんね」
彼女は少し疲れた様な顔つきで、肩をすくめて言った。
「たぶんって?」
「私だって一番向こうまで行ったわけじゃないもの。しんどいから引き返して来たのよ。みんなそうでしょ、この世界に生きる人間っていうのはね。あんたもさっさとこんなところ、出てった方が良いわよ」
彼女は片手をひらひらと振っ