アーカーシャ
いらいらしていた。だから水をかけた。水濡れ厳禁、と書かれた紙が貼られていたからだ。
水をかけたら何が起きるのかと思
った。紙が滲んでいった。インクも滲んでいった。文字が読みにくくなっていった。
さらに水をかけた。ペットボトルから注いだ。夏は暑い。だから持っていた飲み水だった。それをかけていった。
紙が黒くなった。文字はもう読めなくなった。水流で紙がやぶれた。破片が流された。
何も起きはしなかった。
期待はずれだった。
どこからか人もやってこない。怒られるようなこともなかった。
誰かのいたずらだったのか。それとも見えないところで問題が起きているのか。
つまらないな、と思った。
水がなくなった。水に濡れた紙の前を離れた。自販機の前へ立った。新しい水を買った。
水を飲んだ。暑いと思っていた。体が汗ばんでいた。
ケータイにメッセージがあった。彼だった。少し遅れるとのことだった。
本屋さんへ入った。エアコンが効いていた。涼しいと感じた。
彼が来るまで本を立ち読みすることにした。恋愛の特集だった。彼の気を惹く方法が書いてあった。ランキング形式だった。ファンションについても写真が載っていた。どれも好みではなかった。
電話がなった。電話にでた。
「今どこ?」
「駅の向かいの本屋さん。三階にいるよ」
「わかった行くわ」
本を閉じた。棚にもどした。人の波をさけて出口へ進んだ。彼が見えた。彼が店に入る前に店を出た。
「ちょっと涼みたいんだけど」
「遅れたのが悪くない? いこう」
ふたりで街を歩いた。ウィンドウショッピング。高いものを買うほどのお金はない。彼もわたしも。
「さっき、水濡れ厳禁って紙が貼ってあってさ」
「水かけたの? どうなった?」
「なんでわかるの?」
「わかるよ」
なぜなのかの答えにはなっていなかった。会話なんてそういうものだとも思った。
「なにもなかったよ。怒られたりもしなかったし、なにか壊れたりもしてないみたいだし、ブザーやサイレンも鳴らなかった」
「なってほしかったんだ」
「まあね。彼氏が待ち合わせに来ないからイライラしてたんだよ」
「かわいそうに。見に行ってみよっか。今頃、問題になってるかも」
二人で最初の待ち合わせ場所に行った。紙は元通りになっていた。乾いたのではない。古い紙はまるめて捨てられていた。新しい紙が貼られたのだ。
「あれがわたしがかけたやつ」
まるまってるゴミを指さした。彼がそれを見た。そして言った。
「誰かがなおしたんだ」
「誰が?」
「さあ? 今も監視してるかも」
わたしはカバンからペットボトルを出した。さっき買ったものだ。一口だけ飲んだ。そしてまた紙にかけた。紙が黒く滲んでいった。文字がだんだん読めなくなった。そして破れて流された。それでもやめずにかけ続けた。
「目的はなに?」
「水をかけること」
「賽の河原みたいだね」
「犀? 水浴び?」
「そうそう」
彼は噛み合ってない話を肯定した。彼の時折の癖だ。わたしもそのような彼を受け入れていた。めんどうだからだ。
「楽しいね」
「暑い」
「昼にしよっか。エアコンの効いてる店で」
パトカーがサイレンを鳴らしながら近づいて来るのが聞こえた。そして目の前を横切って、遠ざかっていくのが見えた。聞こえた。
「お前を捕まえに来たわけではないらしい」
彼が笑った。わたしも笑った。
「うっそ、共犯でしょ」
「二人で捕まると面会がいなくてさみしいだろ。だから一人でいってらっしゃい」
空のペットボトルをゴミ箱に捨てた。ランチのお店歩いて行った。すいていた。メニューを渡された。透明な水の入ったコップも渡された。
「やめなよ」
彼が言った。
「なんでわかったの?」
わたしが言った。
「わかるよ」
コップに入った水を彼にかけようかと思っていた。イライラしていたのだ。
「水濡れ厳禁の注意書きがないからよくない?」
「あったらかけるんでしょう?」
「まあ、そういうものだよね」
コップを手に持った。彼に微笑んだ。水を半分ほど飲んだ。そして、コップを置いた。食事を選択した。注文した。笑いながら食べた。おいしかった。会計を済ませた。店を出た。
そして彼と別れた。
「さようなら」
<了>