【BNSK】品評会 in てきすとぽい season 13
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バードメン
投稿時刻 : 2015.07.19 15:21 最終更新 : 2015.07.19 22:09
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バードメン
古川遥人


 僕らの住む都市は周囲を高い壁に囲われている。
 壁の高さは都市の発表するところによれば123.6メートルとのことだった。
 なぜそんな高い壁が都市を囲むようにぐるっと周っているのかと言えば、他の都市に容易に攻められないようにするため――という説明を都市側は行っていたが、実際には都市に出入りする人間を徹底的に管理し、物資や交易に関しても都市側が厳しく管理し、余計なものを入れたり、都市の大事な情報を外に出さないようにするための壁だった。都市側の都合の良いように様々な操作を行うための壁である。いわばこの都市は、偉い人間たちによる虚栄心と猜疑心に囲まれている町なのだ。外に出られる人間なんて、ほとんど数えるくらいしか存在しない。たとえば国の政府から呼び出されたなど、よほどの理由が無ければ壁を越えて外へ出る許可は得られない。今年に入って半年ほどが経ったが、僕が確認できる限りでは、今年に外に出る事が出来たのは五十人にも満たないほどだ。なんで都市がそこまで厳しく僕らの出入りを制限し、あまつさえこんなにも威圧的に立ちはだかる壁で僕らを囲うのかは僕たちにも理解ができない。ほとんどの住民は、この壁のことを不自由の象徴として見ていたし、一部のレジスタンスたちは数十年前にこの壁を破壊する活動を行おうとしたらしいが、破壊活動を行う前日にそれが露見して、処刑されたのだと言う。見せしめに町の真ん中で首を切られて、そのまま五日間ばかり死体が放置されたらしい。僕が生まれる前の話だ。だから僕らがその壁について話し合うことは、暗黙の了解で禁じ合っている。もちろんあんな壁が存在しなければいいとは思うけれど、壁について話しているだけでも都市を支配する人間たちは罰してくる可能性がある。だから僕は時折、空を見上げながら、あの壁の向こうには何があるのだろうと考えながら、親友のガシェルといる時しかその事を話せなかったりする。生まれてから一度もこの町を出たことない僕らにとって、壁は圧倒的な不条理の象徴であり、それを越えて大きく広がっている空は自由の象徴である。あそこまで高く跳べたなら、僕らはどこへだって行けるだろう。ガシェルと一緒に空を見上げる時なんかに、僕は本気でそう思う。僕とガシェルは、壁を憎みながら空を睨むのだ。そうしていつかあの壁をぶっ壊そう、思いっきり飛び越そうと話したりする。

 秘密の場所。僕らがよく集まって遊ぶ場所がある。開発が中止になって、工事中のまま森の中に取り残された作業現場だ。人がやって来ることはまず無い。僕らの担任のリタ先生が言うには、薬を持った危ない男が出入りしたり、中途半端に組まれた鉄筋が崩れてくる可能性もあるから危ないと言ってこの場所への出入りを禁止しているけれど、少なくともガシェルにとっては、リタ先生の注意なんてどうでもいいことのようだった。僕としては先生の言い分にだってもっともな部分はあると思ったけれど、先生の禁止令くらいではガシェルは止められない。僕にだって止められない。彼は人のいないところで遊ぶのを好む奴だったし、たとえ暴力的な男や精神的に危ない奴らが僕らの前に現れたとしても、ガシェルは自らの内に溜めた鬱憤と苦しみを暴力性に変え、どんな傷や怪我を負おうとも相手をボコボコにするまでファイティング・マシーンのように動き続ける男なのだ。例えば以前、昼休みに隣のクラスのブランキーという奴がガシェルに因縁みたいなものを付けてきたことがあった。ブランキーは金持ちの厭味ったらしい男なんだけれど、彼は唐突にガシェルに向かって、『お前はアルコホリック(※アルコール中毒者)の息子の癖に、学校なんか来てんじゃねえよ。ここはまともな人間が通う学校なんだぜ、ガシェルくん』と笑いながら唾を吐きかけた。その瞬間ガシェルは、蓄積された鬱憤をぶつけるべき相手が現れてくれたと言わんばかりに薄笑いを浮かべて、速攻で相手の胸ぐらを掴み、目にもとまらぬ速さの右ストレートをブランキーの頬にお見舞いした。それから軽快なリズムで繰り出されるフック・フック・フックを右頬に叩き込み、最後には重低音が聞こえてきそうなボディーブローが彼の腹に一発決まった。ガシェルの鍛えられた筋肉は、それをぶつけるべき相手がいる限り、エネルギーを噴射し続けるロケットのような勢いで対象を痛め続ける。殴られた相手は泣きながら顔を腫らし、自ら喧嘩を吹っかけてきたくせに慌てて逃げようとするのだけれど、胸ぐらを掴んだガシェルはそれを許さない。ブランキーを地面へ放り投げてから馬乗りになり、顔面をヒステリックに叩き続ける。女子たちは悲鳴を上げ、優しげな男子たちは半歩下がり、血の気の多い男子たちは野次と声援を飛ばしながらガシェルの一方的なボクシングを楽しげに見ている。僕はガシェルのその暴走を止めようとしながらも、どこかでスカッとするような気分を感じている。ガシェルにとって世界はとてもシンプルだ。気に入らない奴はぶん殴ればいい。それだけだ。かつて彼は言った。『俺を馬鹿にしてくるやつは、全部ぶん殴ればいい。陰湿な言葉しか吐けない惨めな馬鹿を黙らせるには殴るのが一番だ。殴って殴って殴り続けて相手に負けを認めさせればいいんだ。殴り合いは一番分かりやすいコミュニケーションだと俺は思う。なあ、ミレファント、この世は戦いなんだぜ。俺はお前みたいに顔が綺麗じゃないし、決定的に人と違うところがあるし、俺を馬鹿にしてくる奴も多い。だから俺には圧倒的な力が必要なんだ。俺の力で立ちはだかる壁を壊さなきゃいけないんだ。邪魔なものを全部殴って、憎たらしい奴らを全部ぶっ飛ばして、目の前の道を切り開いていくしかねえと思うんだ。お前には迷惑かけるかもしれないけど、お前のことは全力で守る。俺にはお前しか友達いねえし』と、ガシェルは空を睨みながら言った。
 そうして宣言通りに、目の前に現れる邪魔者をことごとく殴り飛ばしながら彼は生きている。彼の破壊に満ちた生き方は、とても危険だ。暴力で敵わない相手には屈するしかない。暴力だけで成り立つ世界はいつだって、暴力でしか解決できない孤独を抱えている。しかし僕はガシェルのそんな生き方が、ある時にはとても格好いいとさえ思えるのだ。気に入らない奴は月までぶっ飛ばす! ガシェルは笑いながらそう言うのだ。

 そんな愛すべき破壊王ガシェルは、休日である今日も僕を秘密の場所に呼びだした。
彼らしくもない落ち着かない態度で、廃材の上に座って僕を待っていた。
「どうしたんだよガシェル。人でも殺しそうな顔してるぞ」
 僕が軽口を叩くと、彼はストイックな殺し屋みたいな目つきで僕を睨んだ。物心つく前から一緒にいる僕にとっては、彼がただ真剣な面持ちをしているだけなのだと分かるけれど、彼をよく知らない人から見れば、彼が僕を殺そうとしているのじゃないかと勘違いするかもしれない。ガシェルは眉間にしわを寄せながら答える。
「顔については生まれつきだ。まあ、表情は硬くなってるかもしれねえ」
 彼は笑みを浮かべようとして頬をひくつかせたが、それはただ頬が変に引き攣っただけだった。笑みではなく怒りにしか見えない。僕は彼の表情の不器用さに少しだけ笑いながら、すぐに声のトーンを落として訊ねた。
「もしかして、あれについて?」
「そうだ」
 彼は頷きながら、着ていたグレーのシャツを脱いだ。
 上半身裸になり、ゆっくりと僕に頷いて見せる。僕はドキドキしながら彼を見つめていた。彼は立ち上がって腕を広げて見せた。大きくなっている。抑えきれないくらいに大きくなっている。僕は一目でわかった。
「翼がすごく大きくなってるね」
「そうなんだ。十六歳の誕生日を迎えてから、理由は分からないが背中の羽がどんどん大きくなっているのが感触で分かるんだ。鏡で見ても、一年前よりはるかに大きくなってる」
「一年前までは、確か両手ぐらいの大きさだったよね」
「ああ、でも今じゃそれぞれの翼が腕くらいの長さになってる」
 彼は僕に背を向け、肩甲骨から生えている美しい翼を見せてくれた。
 まるで天使のように真っ白で、柔らかな印象を与える翼だった。けれど、鍛え抜かれた筋肉を持つガシェルの背中に生えていると、それはなんだか野性味あふれる鳥の翼にも見えた。何と言うのだろう、翼自体の美しさとガシェルの屈強さが奇妙なコントラストを生み出している。だから翼を持ったガシェルは、天使と言うよりも鷲や鷹、あるいは表情だけを見ればハシビロコウなどの鋭い眼光を持った鳥にしか思えない。
「どんどん隠すのが難しくなりそうだね」
 心配になって僕がそう言うと、彼は考え込むように顎に手を当てた。
「今まではタオルなんかを巻いて隠してたが、これだけ大きくなるとシャツが膨らんでるんじゃねえかと心配になるんだ。それにこれだけ大きくなると巻き付けた時にすごく窮屈で、圧迫される感じがする。あと、羽が擦れるのか痒くなってくる」
「でも何とか隠し通さないと、都市を監視する連中に目を付けられたら、最悪殺されるか、羽を引き千切られちゃうよ」
「そうだな……」
 彼はそう言って、少しだけ落ち込んだような表情を浮かべた。
「ガシェルのお母さんは、どうしてたの?」
 僕はそう訊ねる。ガシェルが翼を持っているのも、母親の遺伝子が彼に受け継がれたからだった。ガシェルの母親は翼を持った種族だ。地域によっては天使と呼ばれたり、ハーピーと呼ばれたり、サキュバスだと揶揄されることもあるらしいが、彼の母親自身は自分が何の種族なのか分からないと言っていた。彼女の生まれた村では皆が翼を持っていて、先程挙げたどの種族の特徴とも一致しないのだと言う。だから彼女自身は、己のことを単なる有翼人種と認識していた。
「母ちゃんの翼は、今の俺よりも大きかった。まあ背の低い母ちゃんだったから、物凄く大きな翼に見えたけど。俺の場合はさ、親父が普通の人間だし、いわゆるハーフってやつだから、母ちゃんほどに翼が成長するか分かんねえけど。それで……えーと、どうしていたかだっけ? 確か母ちゃんは朝起きて、親父にきつくタオルで巻いてもらって過ごしてた。翼を持ってるなんて知られたらそれだけで反逆者とみなされるからな」
 そうなのだ。翼を持っているということは、あの壁を自由に飛び越えて簡単に移動できてしまうということだ。住民を閉じ込めたがっている都市からすれば、そんな彼女は処罰するべき対象となってしまう。都市側の敵。不必要な自由。だから彼女の母親は、都市を監視する人間に翼を持っているとバレない様に過ごしていた。が、彼女は今から九年前、ガシェルが七歳の時に大きな病を患った。死期を悟った彼女は、監視が甘い夜中の内に、人目のない場所でこっそり空を飛んで都市の壁を越え、遥か遠くへ消えた。恐らく、病院に通ったり、死体となってしまった時に、他人の目に彼女の体が、広がる翼が、晒されてしまうと考えたからだろう。もし彼女が翼を持っているとバレれば、黙って有翼人種を匿っていたガシェルと父親も処罰の対象になってしまう。それを怖れて、彼女は自分だけ遠くへ飛んで、そこで一人で死んだのだろう。迷惑をかけない様に。
 誰にも告げずにいなくなったことで、ガシェルも父親もショックを受けた。精神的に相当傷ついた。父親は酒びたりになり、ガシェルは暴力で何もかもを解決するようになった。自分が弱いせいで母親が消え去ってしまったと思ったらしい。だからガシェルにとっては、己に生える翼は弱さの象徴でもあり、それでいて母親の形見でもあり、壁を越える微かな希望の可能性でもあった。
「ねえ、ガシェル。お前はまだ飛べないのか?」
 僕がそう訊ねると、ガシェルはそっぽを向いたまま黙った。問い詰めるような訊き方になってしまったかと後悔していると、ガシェルは髪をかき乱すような仕草をしながらこちらを振り向いた。
「不安定だが、翼を羽ばたかせることで、十メートルくらいは飛べたよ。誕生日から練習し始めて一か月後のことだ。毎夜ここで練習した。お前には……黙ってたけど……その、悪かったよ」
 僕らはお互いに秘密を共有し合う仲だ。隠し事はしない。それでもガシェルは翼に関することだけは、事後報告をすることが多かった。恐らく僕に迷惑を掛けたくないと思ってくれているのだろう。けれど、ここまで親しくお互いを知り合っている仲で、今更隠し事をする意味なんてないのだということを彼は分かっていない。一蓮托生。彼の抱える問題は僕の問題だし、彼の抱える希望は僕の抱える希望でもあった、だから僕は似合わない隠し事をした彼の腹を、弱々しい勢いで一発殴ってから、
「これで帳消しだな」
 と言って笑った。そして彼に言う。
「翼を持ったヒーローみたいじゃないか。バードマン」
 彼はきょとんとした目で僕を見てから、「俺がヒーローって、冗談だろ?」と言って大声で笑った。彼の翼はそれに合わせてバサバサと揺れた。
 ガシェルはいつかあの壁を越えたいと思っている。何かを破壊するだけだったガシェルが、己の翼で壁を飛び越えようとしている。徐々に大きくなっていく翼で、不器用な羽ばたきを見せながら新しい世界を見ようとしている。それを応援しない親友がどこにいると言うのだ。こいつは何もわかっていないんだ。親友ってのは無条件で相棒を信じてやる存在なのだと。精一杯力になってやる存在なのだと。僕はもう一度、それを伝えるために猫のような力で彼の腹を殴った。彼は不思議そうな顔で僕を見てから、ようやく明るい笑みを見せた。

 それから僕らは深夜に秘密の場所に集まり、空を飛ぶ練習をするようになった。
 と言っても、実際に練習をするのはもちろんガシェルだけで、僕は飛ぼうと頑張っている彼に、応援の声をかけることしか出来ない。
 一週間で飛距離がおよそ5メートルほど伸びる。更に一週間で10メートルほど飛べるようになる。それでもまだ高度が30メートルに満たない。目標は123.6メートル。いや、それ以上に飛ばなければならない。
 荒い息を吐きながら、彼は背中の翼を大きく羽ばたかせる。彼を中心として起こる風が周りに人気のない工事現場に吹き荒れる。廃材に被さったシートが煽られる。
 彼は飛ぶための技術を習得していく。ふらふらした軌道を描くけれど、徐々に飛ぶためのコツみたいなものを掴んでいる。どのような姿勢を取ればいいのか。どのようなリズムで翼を動かせばいいのか。どのように力を込めて翼を羽ばたかせればいいのか。風を味方に付ける方法。空気の抵抗を減らす方法。彼はそれを体で学んでいく。飛距離を伸ばしていく。
 風を切り裂いて、空へ向かっていく彼の姿。重力から解き放たれる。遮られずにどこまでも行こうとする。自らの手で空を掴もうとしている。
「すごいじゃないか。もう百メートルくらいは飛べるようになったんじゃないか?」
 二人で練習を始めた日から半年。
 彼はすでに空へと手が届きそうな位置まで飛べるようになっていた。
 彼は珍しく照れたような表情を浮かべ、少しだけ誇らしげに口を開く。
「ミレファントのおかげだ。お前が近くで見てると、俺はもっと自分を信じられるようになるんだよ」

 僕らが飛ぶ練習を始めてから一年ほどが経った。
 いくら目立たぬ場所とはいえ、毎日のようにその場所で空を飛んでいれば、いくらか噂が立つことは僕にもわかっていた。恐ろしい怪物が空を飛んでいるのを見た。天使が壁を越えて姿を現した。モンスターが街に入り込んでいるのを見た。そうした噂がいつの間にか都市を巡っていき、ある日、僕らが練習をしている時に、都市を監視する人間が工事現場に現れた。
「お前、何をしている」
 軍服の男は、数人の部下を引き連れ、僕のいる工事現場へとやってきた。
「先ほどこの場所で、噂になっている怪物が空を飛んでいるのを見たが、お前は何故ここにいる」
 彼はそう言って、こちらが竦みあがるほどの眼光で睨む。僕は思わず体をびくりとさせ、緊張のあまり喉がからからに乾いていくのを感じた。が、残念だったね軍人さん。既にここにガシェルはいない。あなたはもっと身を潜めて来るべきだった。
 10分ほど前、こちらに向かっている軍服の集団をガシェルが上空で見つけた。それから僕が「逃げろ」と強く言ったため、彼は家に帰った。ガシェルが見つかってしまえば、それは僕らの敗北を意味する。彼は逃げなければならないのだ。
 僕は軍服の男に向かって、取り繕うような笑顔を浮かべながら喋った。
「鳥が何羽か群れになって空を飛んでいくのは見ましたが、どこにでもいる様な鳥でしたよ。怪物ではありませんでした。恐らくレーレー鳥じゃないですかね? この辺の森に棲みついているんです。あれは成長すると大きくなるから」
「少年。下手な嘘は止めた方がいい。私はこの眼と知識で都市の上層部に上りつめた男だ。その私がレーレー鳥と怪物を見間違うことなどあるかね?」
「今は深夜ですからね。ほとんど影になっていて、ご自慢の目でも捕らえきれないのでは?」
「ふん。物体のシルエットこそが、その物体の情報を饒舌に語ってくれるということを君は知らないんだ。だが、まあいい。今日は逃げられたようだからね。しかし次には、逃げる隙も与えない。そしてね、ミレファント・クレイン君。私は君のことをよく知っている。調べさせてもらったからね。君が誰と仲良くしていて、いつも誰と一緒にいるのかということを」
 そうして彼は、立ち去ろうと僕に背を向けた瞬間――その体を回転させて、勢いのままに僕の頬を、思いっきりぶん殴った。僕は反動で吹き飛ばされ、遅れるようにして耐え難い痛みと血の味を感じた。
「私はね、理屈を並べ立てて反論するガキが嫌いなんだ。覚えておくといい。人が笑顔を浮かべながら饒舌に喋るときは嘘を吐きたい時だ。そして饒舌に喋る子供は、大人をイラつかせる」
 そうして彼は僕の腹を思いっきり蹴りあげてから、まるで猫のように足音すら立てずに去って行った。
 
 殴られた翌日にガシェルと会った時、彼は僕のために憤慨してくれた。
「くそ……っ! なんでミレファントが殴られなきゃいけないんだ!」
 彼は予想通り、あの場から逃げるべきじゃなかった、俺がミレファントを守るべきだった、と言った。その言葉だけで嬉しかった。それだけで僕の行為が報われた気がした。僕は彼を宥めながら、「いいんだ、僕にとってはお前だけが希望なんだ。僕が何度殴られたって良い。お前のためならこの体がぼろぼろにされたって良い。ただお前が壁を越える日まで、お前は見つかってはいけない。それは、僕の希望が消えてしまうことでもあるから」、そう言うと、彼はおとなしくなり、「すまん、俺の為に」とそれだけを言って、黙りこくったまま僕の横を歩き始めた。
 そうして黙ったまま歩いている中、俄かに周りが騒がしくなっていることに気づいた。何かあったのだろうかと顔をあげると、皆が僕らを追い越すようにして街の中心部に走っているのが見えた。そして人々が怒鳴るような声が聞こえる。どうやら町の中心部のデパートに、人質を取って立てこもった男がいるらしかった。僕とガシェルは顔を見合わせ、急いで街の中心部に走った。僕らに何が出来るわけでもないだろうが、もしかしたら僕らにも何かが出来るかもしれない。

 デパートの前の広場に着き、野次馬の群れをかき分けながら進むと、デパートの屋上に二つの人影が見えた。一人は拡声器を持った大柄の男で、その男の側に身を竦ませながら立つ小さい影があった。
「警察は俺の要求をのまないらしい! 時間ばかり掛けやがって、俺もいい加減に怒った。見せしめに、この子供をここから突き落とす!」
 犯人だろう男は拡声器でそう叫び、子供を屋上の端へと追い込んだ。野次馬の中から「レンファちゃーん! いやぁああ!」と叫ぶ声が聞こえて、恐らく母親だろう女性があられもない姿で泣いているのが見えた。警察は何をしているのだろうか。いま、まさに子供の命が理不尽に潰されそうになっているのに!
「なあ、ミレファント」
 僕が歯ぎしりをしていると、隣でガシェルが大きな体に腕を組みながら、仁王立ちして屋上を見ていた。
「俺はさ、人が死ぬのは嫌だ」
 彼はそう言って、僕を鋭い目つきで見た。
「馬鹿! 僕だって嫌だよ、でも、僕らに何が――」
 僕がそう言った瞬間、彼はにやりと笑った。
「おい、まさか、ガシェル……」
「お前がさ、俺の為に体を張ってくれた時の気持ちを、俺は今あの殺されそうな子供に感じてる」
「それにしたって……お前は……」
「ミレファント、お前が言ってくれたんだろ?」
 何が、と言おうと口を開きかけた瞬間、彼は生まれて初めて見せるまばゆい笑顔を僕に向けた。
「俺のこと、ヒーローみたいだって」
 それから彼は、纏っていた服を脱ぎ捨てた。あっという間だった。彼は胸で結ばれていたタオルを取り払い、今まで隠し通してきたその美しい翼を、彼自身の心のように大きな翼を、広げ始めた。周囲の野次馬たちが驚いた顔でガシェルを見る。彼の翼に押されるようにのけぞる男も、その翼の美しさに言葉が出ないようだった。彼は仁王立ちしたまま翼を広げ、僕に向かって思いっきり親指を突き立てた。
「ヒーローになってくる」
 僕は呆れながら、それでもただ頷きながら、返事をした。
「ああ……行って来い、バードマン」
 それが合図となり、彼は翼を羽ばたかせ、一直線に屋上へ飛んだ。ぐんぐん上昇する。もうふらふらとすることもない。ただ一直線に。十五階建てのアパートの屋上まで飛んでいく。周りの野次馬たちは何が起こったか分からない様子で、ただ突然現れた鳥男に、全力の声援をぶつけている。いいぞ、お前が助けろ、無能な警察に任せておけねえ、いいぞ、飛んであの子を救え、お願いします、あの子を救ってください、そして僕も声の限り叫んでやる。アイツの背中を押すために、アイツが風に乗ってどこまでも自由に飛べるように。
「行っけえええええええええ!」
 そうしてガシェルは鋭い風のように屋上まで飛んだ。犯人を勢いのままに殴り倒して気絶させる。それから子供を掴み、真っ白な羽を広げながら、僕らの元に戻ってきた。その一連の出来事に、地上の者たちは大歓声を送った。彼がこれほど大勢の人々から歓声を送られているなんて。涙が零れそうだった。もう暴力だけで解決していたガシェルではない。彼は正真正銘のヒーローになろうとしている。
 羽を舞い散らせながら、彼は子供を抱えてすっと降り立った。その瞬間、一斉に拍手と歓声が鳴り響く。子供の母親がガシェルの元に駆け寄り、子供に抱き着いた。それから涙と嗚咽で裏返った声で、ただただ「ありがとうございます」と繰り返していた。そうして子供は、にかっと笑いながらガシェルの方を向いて、「ありがとうバードマン」と言った。
 そんな祝福の中で、唐突にその空気を破った男がいた。昨日会った軍服の男だった。
 彼は野次馬たちを突き飛ばしながらガシェルの前に立った。
「とうとう姿を現してしまったな、ガシェル・クロウ」
「昨日の奴か」
「残念ながら、お前を処刑しなければいけない。英雄とは得てして、権力に仇なす可能性を秘めているのだよ、バードマン」
「小者がヒーローに負けるっていうのも、よくある事だよな」
 ガシェルはそう言って不敵に笑う。
 そして彼は僕の体を抱きしめてから、踏ん張るように腰を屈めた。一体何をするつもりだ、この絶望的な状況で、と思った瞬間に彼は叫んだ。
「お前にはミレファントの借りがある!」
 そう言ってガシェルが思いっきり腰を屈めた瞬間、彼はロケットのような勢いで軍服の男に向かって飛んだ。最初は何が起こったのか分からなかったが、気がついたら軍服の男が倒れているのが、上空から見渡せた。
 僕らはいつの間にか壁を越えていた。ただ風に乗りながら、ガシェルに抱えられながら、自由の象徴である大空を飛んでいた。
「なあ、ミレファント! あの軍服、泡吹いてぶっ倒れてるぞ」
「ガシェル、空、飛んでる!」
「あー、気持ちいいよなあ。空って。壁が、低く見える。町も小さく見える」
「すごいよ! すごいよガシェル!」
「なあ、ミレファント。どこへ行こうか。もうどこへでも行ける。自由だ」
「好きな場所へ行こうよ! そんで、やりたいことを見つけるんだ!」
「いいな、もうあの町に縛られたりはしない」
 そうして僕とガシェルは、雲を突き抜けるようにぐんぐんと上昇した。高く、高く飛ぶ。ただ遮るもののない大空に昇る。壁を越えて、町を越えて、どこまでも自由に、風のようにのびやかに、鳥のように自由に、この世界を、駆け巡っていくのだ。
「バードマンは一人じゃない。お前がいるから。二人でバードメンになれる」
 彼はそう言って、大きな翼を羽ばたかせながら笑った。
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