【BNSK】品評会 in てきすとぽい season 11
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キカの悲歌
投稿時刻 : 2015.04.18 19:09 最終更新 : 2015.04.19 01:28
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キカの悲歌
木下季花


 ――恋人よ、世界はどこにもないだろう、内面以外には――
                       By ライナー・マリア・リルケ


 この奇妙な物語は、私がリルケの詩集を読んでから眠りに就いた翌日の物語である。
 
 ベドから起き出した私は恐らくBPM97あたりの三拍子で部屋の中に足音を刻んでいた。自室の鏡の前には昨日の私がいた。彼は何度もネクタイを締めようとしているのだが、彼がその動作が完了することはない。彼がネクタイを締めようとする度に時間は少しだけ巻き戻されて、ネクタイを結ぼうとする時点の彼にまた戻てしまう。そして彼は時間が巻き戻たことを知らずにネクタイを結ぼうとする。延々と同じ動作が繰り返される。だから彼がネクタイを結び終えることはなかた。彼は会社に行けない。彼がネクタイを結ぶ動作に合わせて、私は三拍子のステプを踏む。ネクタイが締められていくときの音。
 シ、シ、シ
 毎日決められた動作を行うとき特有のリズム。私はそれに合わせて足を曲げながらクラシクバレエのように華麗なステプを踏み始める。それは終了することないクラシクダンスだた。その三拍子は永遠に繰り返される。彼がネクタイを結び終えない限り、私のクラシクバレエのようなタプダンスもまた終わることはないのだ。
 タプダンスをする私を横目で見ながら、私は朝の光に満ちたリビングへと入る。そこにはコーヒーを飲み続ける私がいる。彼もまたコーヒーを飲む動作を終えることができない。飲み干す度に彼はコーヒーを吐きだしてもう一度コーヒーを飲み始める。マグカプは空になた状態と液体で満たされた状態を目まぐるしく繰り返し続ける。何故そのような状況に至るのだろうか。コーヒーを飲み続ける私とは、一体いつの時点の私なのだろうか。
 過去のある時点の私が、延々と同じ動作をしながら、現在の中に閉じ込められている。それは果たして私の記憶の再現なのだろうか。もし記憶なのだとしたら、記憶の私と現在の私が、同一時間上に存在することなどあり得るのだろうか。テーブルに向かてコーヒーを飲む私を、私は見つめ続けている。見つめている私の横を通り抜けて、私はコーヒーを飲み続ける私の向かいに座り、コーヒーを飲み始める。今コーヒーを飲み始めた私とはいたい誰なのだろうか。主体としての私の姿を私は探すことが出来ない。そして恐らく意識することもできない。
 
 今日の私はインタビを受けなければならない。スケジル帳にそう記載されている。私は指定されたスタジオに向かた。その道中を歩きながら、私はインタビアーにされるであろう幾つかの質問を予想し、それに対する幾つかの答えを頭に浮かべた。それと同時に、インタビアーがしないであろう質問を予想し、それに対する答えを頭に浮かべた。
「なぜあなたの左足親指の爪は深く食い込んでいるのですか」
「それは私の歩き方がおかしいせいかもしれない。あるいは私は鋭い爪が肉に食い込み、その痛みを自覚することで文章が書けるのかもしれない。あるいは戒めとして私は常に痛みを感じ続けねばならないのかもしれない」
 私は貸しビルの中にあるスタジオに入る。
 真白な壁に囲まれた部屋の真ん中には二脚の椅子が置かれている。その椅子の一つには私が座ていた。訊ねるであろう質問を確認するように、メモを見ている。私が来たことにはまだ気がついていない。
 壁際には照明を焚いている私と、椅子に向かてカメラを向ける私がいた。何故そこに存在するのか分からない私もいた。私は私たちに挨拶をしながら、インタビアーの前に用意された椅子に座る。私を見たインタビアーの私はにこりと微笑む。今日はよろしくお願いします。と彼は言う。こちらこそ、と私は言う。目の前の私は短く息を吸う。インタビアーである私は早速、私に質問を投げかける。あなたが書いた文章の事なのですが。インタビアーである私は、少し間をおいて話を続ける。それは紛れもない私の癖だた。
「あなたは先週、小説としての文章を完成させました。しかし昨夜になて、あなたはその文章を全て燃やしました。果たしてこれはどういうことなのでしうか」
「それは昨日の私に訊いてくれないと困るな」
 私は軽く微笑みながらそう言う。インタビアーも納得して次の質問に続く。
「それでは、次の質問です。あなたは何をしている時に、最も自分らしく在れると考えていますか」
 私は少し考えながら、浮かんできた言葉を口にした。
「恐らく相手を見下しながら、偽善者ぶている時です」
 それがまるで本心には思えなかた。格好をつけている自意識過剰の男の台詞に聞こえた。
 しかしながら、この発言の後では、私は大勢の私に非難を受ける事だろう。


 私はインタビを終えて家へと帰る。
 玄関にある鏡の中にいる私が私を出迎えた。鏡の中の私は絶えず、私のことを見つめている。私は鏡の前に立ちながらグリーンピースを食べるふりをした。グリーンピースは私の嫌いな食べ物だたが、鏡の中にいる私もこちら側の私も、その動作をして見せるだけで苦い顔はしなかた。形のないグリーンピースは、苦痛を与えすらしなかた。
 私が部屋に向かうのを、鏡の中にいる私が見送ている。彼はいつでもそこにいるのだろうか。それとも私が認識している時だけ彼はそこにいるのだろうか。それは私の永遠のテーマだた。認識している時にしか私は私を確認できないのか。私はそれについて考えている。

 廊下を歩いていると数え切れないほどの私がリビングに向かているのが見えた。表情に乏しい私もいれば、笑い続けている私もいる。絶えずステプを踏み続ける私もいれば、作りたての人形である彼女に抱き着く私もいた。
 彼らは一様にリビングに入る。私はリビングでしか小説を書かないからだ。私はリビングに入る。コーヒーを飲み続けている私がいる。目薬を差そうとして容器から液体を垂らしながらも時間が巻き戻るせいで永遠に目薬を差せない私がいる。彼の目は渇ききている。時計でジグリングをする私は、もはや時間が進んだり巻き戻たりするせいで、時計が手に触れることなく延々と中空で舞い続けている様子を眺めている。時計の針は様々な方向へと回り、気が触れたような動きを続けている。私は彼らを眺めながらリビングのソフに腰掛けた。リビングに集まてきた私たちは私の前で踊り始める。それは始め、足並みが揃わずにお互いを傷つけ合いぶつかりながらまるで格闘技のようにもつれ合ているだけだた。だが、時間が正しい方向に進むようになると、彼らはきれいに足並みをそろえて、美しいダンスを踊るようになた。足のステプ、手の動き、それらが綺麗にシンクロし、百人近い私がリビングで奇妙な踊りを見せ始める。その奇妙な動きは、何百もの手と脚が綺麗に弧を描いたり振り回されたりすることで喩えようもない美しさを生み出した。二百本近くもある足が一斉に跳ねあがり、同時に地を衝く力強い音は私に感動をもたらした。彼らはきれいなワルツを踊り出している。今では全くぶつかることもない。ソフに座る私は、完璧な踊りを見せ始めた百人近い私をじと眺める。そうして私はようやく燃やし尽くしたはずの文章の一行目をもう一度、書き始めることが出来るのだ。

 恐らく、私がここまでややこしい状況に追い込まれたのは、昨晩にリルケの詩集を読んでしまたからのように思う。
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