『ミキへ

　楽しかったよ。そして今日もキレイだった
　あしたもヒルガオがさく森のむこうで会ってくれるかい　　ナオキより』


「……やっぱり汚されてるよ。図書館の資料だったんだろうに、落書きすんなっつーの……」
　古書店のワゴンセールで見つけた古本が、例の「死刑囚の街」から払い下げられてきたものだと知ったときから覚悟はしていたが、案の定モラルもへったくれもなく落書きされていたこと以上に驚いたのは、そこでやりとりされる“恋物語”のあまりの陳腐さゆえだった。あの街の死刑囚というのは基本的に皆、いい歳のおっさん・おばさん連中である。学のない者が多いということなのかもしれず、嗤う気にはならなかったもの、考えると相当に気色が悪くて怖気を催してしまった。いまどき、ジュブナイルの登場人物でももう少し精神年齢は高そうだ。よもやプラトニックな関係ということでもないのだろうに、よくよく見ると、思わずこちらが赤面してしまうほど稚拙な恋文のオンパレードなのである。
「いくら安いとは言ってもなぁ……あの店主、手元に置いときたくなかっただけか。……この値段じゃ我慢するしかないけどさ」
　しばらく読み進めていくとまた空白の多いページに差し掛かり、返答と思しき書き込みがされていた。


『なおきくん

　はなかざり、うれしかった
　とってもキレイだった
　もうすぐたなばたさまですね
　わたしはすぐ会いたいです
　大すきだよ
　　　　　　　　　　　　　美き　』


「ミキって……もしかして、あの８人殺し？　稀代の悪女と言われた烏丸美樹なのか……！？」
　一昔前に世間を騒がせた毒殺魔だ。私でも覚えているほど悲惨な事件だった。本当にあの犯人がこれを書いたのだとすれば、なんとも不気味な暗号染みて感じられてくる……。確か結婚詐欺でも前科があったはずが、これはそういう手練手管なのだろうか。それとも死を前にするとどんな人間であれ、明鏡止水のごとくピュアな感性を取り戻すとでもいうのだろうか……。
　肝心のテキストの内容とは全く無関係の挿話が現れる度、異様な現実に引き戻されてしまうので難渋した。電車に揺られて帰る道すがらである。俗世を離れて読書に耽られる数少ないリラックスタイムが台無しだ。
「勘弁してくれよなぁ……」
　さんざん悪事を働いた死刑囚たちが“殺される”前に記していった奇妙な恋愛書簡。そういう触れ込みで売られていればそれなりに賠償金の足しにもなったのではないかと思わなくもないが、ただひっそりと処分されていたというのが返って空恐ろしく迫ってくる。物語の世界に戻れず困っている間、私は知らず知らずにこの書物が元いた時空に引き寄せられてしまうのだった。

　　◆

　残虐な刑罰として身体死刑が廃止され、脳の活動だけを一部停止させて「魂を殺す」精神死刑の時代になって久しい。抜け殻となった凶悪犯の体が、主を喪った状態で打ち捨てられる街がここであった。世間的には、“殺された”人間の体は植物状態のように無反応となり、ただ栄養の継続投与によって機械的に生命活動を続けるという認識が定着していたが、自分のようにこの街に勤める者なら一人の例外もなく、それが実情とはかなり異なる俗説であることを毎日目撃し、かつ秘密にし続けなければならなかった。全く奇妙な話だが、ここは世の穢れとは一番無縁な世界なのである。
「こんにちは、用務員さん」
「はい、こんにちは」
　３年前の連続無差別通り魔犯の“体”が、また挨拶をしてきた。“生前”の名は柘植直樹。世間を震撼させたあの顔が、見るも穏やかになって日課の散歩を楽しんでいるのである。恐らく被害者遺族でさえ毒気が抜かれてしまうだろう光景だ。正しく、ここに死刑囚は最早いない。全員が“殺されてくる”のである。この街を一目見てそれを疑う者はいないだろう。だが、同じ疑問を一様に口にせずにもいられなくなる。
「しかし、あれはいったい誰なんだ……？」
　演技などではないことは、街中に張り巡らされた監視カメラによる長時間の記録映像と、例外なく“ああなる”確率からも明らかだ。精神死刑の施術方法は既に確立されており、一切の苦痛を与えずに「魂を奪い取る」ことには成功している……彼らの様子を伺うかぎりそれは確かである。
　しかしそれなら「彼らは何者で、どこから来たのか」ということが次の問題になろう。原理的には植物状態そのものになってもおかしくない施術であり、そもそも所期の目標の一つは植物状態だったとも聞いている。司法行政とも関連する一部の学会では、密かに「生命の謎」として活発に議論されているらしかった。特に法医学関係者は、精神死刑の旗振り役となって利権を拡大させてきた経緯があるだけに、人権団体などに察知されて「実態はただのロボトミーではないか」などと疑義を唱えられたりする前に、真相を究明しておこうと躍起になっているようである。……かく言う私も、実のところ用務員などではなく、噂を漏れ聞いて一発当ててやろうと潜り込んだフリーライターなのであるが。
「おっと……あっちは麗しの美樹嬢じゃないですか」
　かの毒殺魔が小石か何かを拾い集めているのが見えた。やはり一際目を引く存在である。身なりは質素だが、鬼気迫る表情が影を潜めた分、その若さと美貌が異彩を放ち、隠しようのないものとなっているからだ。整形が常態化して久しいと言われる昨今の芸能界でもこれほどのタマはいない。ここが通常の拘置所なら男女共同での収容など到底考えられないのだが、彼女がすぐ近くで住み暮らしていてなお、なんとも牧歌的な風景が広がっているということ自体が、この施設の素朴な真実を象徴しているようだった。
　……同時に改めて興味を惹かれもする。自由意思の“殺された”場所に鎮座ましますのは、いかなる存在なのか……。
　法医学関係者から詳細な手順のデータを手に入れられていれば、話はもう少し簡単になるはずだった。何が起こっているのか科学的に突き止めるのも、専門分野が近い人物に当たれば興味を惹く可能性は高い。実際の症例を見てきたかぎり、少なくとも開頭して跡が残るような外科的施術方法でないのは確認済みで、ロボトミーとは全く別物だ。恐らく特定のターゲット分子を狙うタイプの新薬か何かによる、生化学的な処置ではないかと思われる。
　一番わかりやすい仮説として挙げられていたのは、多重人格者の場合は“殺しきれない”人格が残ってしまうのではないか、そして死刑囚ともなると誰もが潜在的に解離性障害の一種を患っていて、言うなればそれが、本人によって封印されていた「良心」というものなのではないか、というものだった。……私に言わせれば、わかりやすいというよりは稚気まみれの俗説そのものなのだが、世間に内情が露呈した時のためだけに用意された保身の結晶なのかもしれない。
「こんにちは、用務員のお兄さん」
「はい、こんにちは」
　美樹嬢が一礼をして通り過ぎていく。最終的な答えはまだ出せていないのだが、急ぐことはないだろう。外の世界ではとっくに喪われた「清楚」という言葉も思い浮かぶ……それだけで、この街には十分な傷心旅行の価値がありそうだ。
　……ん、清楚？
　この日初めて、自分の言葉に座りの悪さを感じて戸惑った。それは女性としての成長を感じさせる言葉であるように思えたからだ。時を止めたかというほどに変わり映えのない、繰り返される日常だけが支配するこの街で、それはついぞ感じたことのない種類の変化だった。しかし、それは何に由来したものだろう……？
　まもなく思い当たったのは、ほんの些細なことだった。ちょっとした言い回しの変化で違和感を覚えたのである。自分自身が身元を偽っていることもあって、他人になりすます者への警戒心が過敏に働いたということだろう。ついこの前までは「おじさん」と呼ばれていた、それだけのことである。

　　◆

　元のテキストも佳境に入り、漸く風景のように気にかけなくなりつつある頃のことだった。


『ミキへ

　さみしかったよ、会えなくて
　どうかした？　体はだいじょうぶですか　　ナオキより』


　場違いなジュブナイルの落書きは続いていたのである。溜め息をついてページを繰ると、しかし事態は急転した。すぐに返信が、それも今生の別れがあったようなのである。


『なおきくんへ

　残念だけど、美きはもう会えません
　　すべての愛をこめて、不在の恋人より
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　美樹』


　烏丸美樹のほうが先に“処刑”されたようだ。やはり確定順なのだろうか。ロミオとジュリエットのように運命に引き裂かれる恋人……とまではいかないが、少々哀れに思えなくもない。が……彼等の犯してきた罪を思えば当然の報いというものだろう。せめてもの救いは、その後すぐに相手の「ナオキ」も“旅立った”ということであろうか。遺言にしては何だか意味が通らない気もするが、とにかくこれで、煩わしいト書きのような挿話ともおさらばできるようだった。しかし……いずれにしてもこのテキストを読み終えたら、やっぱり売るか捨てるかしようと思う。


『ああ、意識がうすれていく　　、たぶん　ぼくも時間なんだ
　きっと思い出してしまう　何もかも　　ぼく　は死ぬんだ　さよなら　ミキ』


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜了＞

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