ディレイド・ルーム
遠く、太陽系を漸く離脱しようかという座標地点に差し掛か
ったとき、妻のモーニングコールで目が覚めた。
「あなた……起きてください、あなた……」
機械で合成された声に囲まれる毎日のなかでは、聴き慣れた声でも清涼剤のように沁みてくる。顔を突き合わせて暮らしていた頃には考えられないほどの慈愛に満ちた声に聞こえたものだから、私はまた小さく笑みを零してしまった。人間のクルーが他にいないので気兼ねもなく、羞恥もない。独身に戻ったかのような一人暮らしをかれこれ数十年、体感でも3年は過ごしているのだから、人肌が恋しくなってきているのもやむを得ないことだろう。船内時間で朝7時。モニタに映る妻の傍らに据えられた時計も同じ時刻を示している。ディレイド・ルームは今日も問題なく稼働してくれているようだ。
妻の耳元に目をやると、5年前(無論体感時間の話だが)に地球で直にプレゼントしたプラチナのイヤリングが今も美しく輝いている。当時は安物と見くびられるのが嫌なばかりに奮発しすぎた短慮を後悔したものだったが、彼女の好きな真珠を避けたことといい、結果的には長期保存に向いた装飾品をよくも選んだものだ。なにがしかの運命に導かれているかのような錯覚に再び囚われると同時に……私の返答を待ち受けて停止しているモニタの向こうにいる女性が、紛れもなく自分の妻なのだと確認できて安心した。彼女のイヤリングと私の指輪は、それぞれ付け替える順序が実は暗号になっていて、二人の間でだけエラーチェックができるよう示し合わせておいたのである。コールド・スリープの眠りについて返信を待つ長い長い実時間の間、私たち二人を取り巻く世界に起こった変化は、コンピュータの記録で知るしかない。だがこのように取り決めておけば、映像が加工されたり、何者かになりすまされたりしていてもすぐに検知できるというわけだ。……とはいえ、これは本来戦時下用のプロトコルであって、特別警戒するようなことなど何もない。適度な刺激と緊張をお互いがすぐ欲するようになるに違いないから、という彼女のちょっとした遊び心を聞き入れたまでのことだった。
要はただの倦怠期予防策・マンネリ対策で形式的な確認にすぎなかったが、最初にやるべき手順が決まっていると覚醒も早くなる。私はすぐにカプセル内のベッドから起き出して、少し不安定な船内重力に体を慣れさせながら答えた。
「やあ、おはよう。元気そうだね」
「あら、やっと起きたのね。また夜更かしかしら?」
私が返答するなりモニタが再び動き出し、“妻”が間を置かずに質問を投げてきた。いつものことながら的確な台詞のチョイスに舌を巻く。抑揚なども含め、ほぼ完璧に近いシミュレーション。私が昨日夜更かしをした事実を組み込んで、コンピュータがリアルタイムに合成したみせたものなのだ。実際のところ妻が届けてくれているメッセージは一方的に続くものであり、双方向の対話には程遠いビデオメッセージにすぎない。それを、恰も対話しているかのように感じさせるため、妻の「次の言葉」と私の「今の言葉」の合間をより自然に埋め合わせる「想像上の台詞」を、膨大な統計データから計算して作りだしているのである。圧縮や経年劣化などによって欠損した情報を補完し、滑らかな画像や動画、音声等を復元する技術が発展して、自然言語のレベルでも応用・実用化されたからこその恩恵だ。リアルな会話だけで双方向の対話を成り立たせようとすれば、頻繁に眠りにつき、遠く離れるほど長い間返答を待たなければならなくなるため、遠隔地での有人宇宙開発を効率化するうえでは欠かせないツールの一つとなっているのだった。
「大丈夫。浮気はしてないよ。……する相手がいないからだけどね」
「そう。でも……本当は年のせいじゃないの?」
「ははっ、かもね。“生誕百年”も近いしなぁ」
ちょっとしたジョークもお手のものだ。こうした「合間を埋めるやりとり」が「次の言葉」に円滑につながるまで続く。無論、より自然にするためにはプライベートな情報まで根掘り葉掘り提供しなければならないわけだが、その領域に踏み込む気は毛頭なかった。それこそ区別がつかなくなる虞まであるからだ。昔は敵国にサイバーエージェントとして送り込むため軍事的に開発されていたプログラムである。今は民生用とはいえ、迂闊に気を許して何でも喋るわけにはいかなくなる生活は御免だった。
「昨日の件だけど、考えてくれた?」
……とはいえ、まだ声で微妙な違いは感じ取れる段階だ。映像だけならとっくに区別がつかなくなっているにもかかわらず聴覚では容易に聴き分けられるところが、人間……というより生物に残された謎なのだ。電気信号としては全く同一である以上、問題は聴覚そのものではなく、視覚や聴覚などを統合させる高次認知機能の問題なのであろうが……まあ、私の専門ではないのでそれ以上の理屈は知る由もないし、興味もないことだった。
「ああ、それね。……なんだよ、起き抜けに」
本人のほうだと話題からしてすぐ気づく。職務に忠実なあまり、重要なことを後回しにできない性格もそのままだ。
「……まあ考えてはみたけどね。やはり記憶を提供する気はないよ」
私の返事に、今すぐ答えが返ってくるわけではない。こちらからも同時並行でメッセージを送り返してはいるが、それが届くのは彼女が再び目覚める2年ほど後のことである。
「君が昔のことを思い出させようとするなんて、そりゃよっぽどのことなんだろうさ。けどなぁ……」
私は彼女に出会うまで、孤児として施設で暮らしてきたコンプレックスから抜け出せないまま生きていた。少なくとも私の場合、フォスター・ペアレントなんて気がいいだけのただの人だった。本当の意味で家族に恵まれたと思えたのは、親というものを諦めた後、恋人とも違う、彼女という存在に出会えた後のことだ。子供の産めない体である彼女の場合は、逆に子という存在を諦めることができてから。私たちは家族を諦めるために出会い、家族になるために生まれたのだと信じることができたからこそ、結婚したのだった。
「……違うの。いえ、むしろこれまでがそうだったのよ……ごめんなさい」
珍しく彼女が先に謝ってきたので、機先を制されたようなムズ痒さを覚える。
「え……何が“そうだった”んだい?」
「……組織にじゃないの。私に、私だけに教えて欲しいのよ……」
……軽く混乱する。“組織”? 彼女はいったい何の話をしているのだろうか。いや、今のは私の「今の言葉」を踏まえて答えたようにも聞こえた。……シミュレーションの産物か? 声から判断するに、確かに本人のそれなのだが……。
「いったい何のこと? 組織って」
その瞬間だった。機器の調子を心配した矢先に、モニタが突然乱れたのだ。彼女の肌も服も、壁も時計もすべて赤みがかった色調になっている。船内ではそれ以外に異常を示している機器もないようなので、地球側の問題かと対処法を思案していると……徐に彼女が告白を始めたのだった。
「私は、スパイだったの……。あなたの記憶の中に眠っている、幼少の秘密を呼び覚ますために送り込まれた組織のエージェント。つまり……偽りの家族、ね」
「はあ……?」
何の冗談だと憤慨しかけるも、荒唐無稽すぎて後が続かない。シミュレーションの故障なのだろうか。
「……あなたは覚えていないのでしょうけど、組織はずっとあなたを観察してた。だから本当は知ってたの。あなたが何者か、どこから来たのか……最初からね」
「……何の冗談なんだよ。そっちはエイプリルフールだとでも言う気かい? 何の話をしてるんだ?」
「あなたの正体の話よ」
間髪入れずに返事が来たので、驚きはしたがネタも割れてしまった。今のは明らかにリアルタイムの対話でなければ説明のつかない符合だろう。私はしばらく流れに任せてみることにした、
「ふ……正体ねぇ。じゃあ、聞かせてもらいましょうか」
「あなたは……地球外からやってきた知的生命体、つまり宇宙人……エイリアンよ」
プッ……と吹き出さずにはいられなかった。あの妻が深刻な面持で言ったのがいけない。異常な色合いを差し引いても残るギャップの妙味。シミュレーションのジョーク・レベルが、突然変異的に向上したようだ。
「ははっ、なんだいそりゃ?」
「そして彼等が欲しがっているのは……宇宙船の認証コード。あなたが地球にやってきたとき、恐らくは事故か何かで頭を打ち、忘れてしまった……ね」
「彼等? また新しいのが出てきたね」
「……あなたの同胞。本当の家族……よ」
「なるほど、そう来ましたか」
コンプレックスの一部はとっくに読み取られていたということだろう。そのデータを利用した創作のようだ。
「さっきまで通信していたのは、彼等の高度な文明が作りだした私の虚像……。本当の私はもう……この世にはいないわ」
「ちょっと待った」
思わず気色ばんだのが自分でも分かるようだった。
「さすがにその設定はいただけないだろう……やり直せ」
しかし“彼女”は、変わらぬトーンで続けるばかりだった。
「……やり直す、か。そうしたいわね……あの頃に戻りたい。たとえ……家族ごっこだったとしても、私は嫌いじゃなかったわ。ほんとよ」
どくん。心臓のリズムが狂ったのが分かる。
「やり直せ……そう言ったよな?」
民生用のシミュレーション・プログラムにもロボット三原則は当てはまる。はずだ。
「……やり直せない。あなたにはもう、分かったでしょう?」
「冗談だろ……?」
「むしろ奇跡よ。あなたと……もう一度話せたのだから」
会話が成立してしまっている。完全に。
「幽霊の存在なんてこれっぽっちも信じない、この俺が……? エイリアンだぁ? 何の冗談なんだよ!!!」
妻が悲しそうに見つめている。私の……妻だったはずの女が。
「……ごめんなさい。時間がないの。今のうちに話しておかなければ……」
「やめてくれ……」
「約4年前のことよ。彼等に侵攻されて、地球人の半数が殺された」
「……頼む」
「私は組織に、あなたを監視してきた組織に戻っ