たったひとつのぼくを求めて
5
ビルに挟まれどこか閉塞感のあるような歩道橋を渡り、最近建てられた日本で最も高いというビルに入る。この七階の本屋に、ぼくは惚れ込んでいた。SFの本が豊富に置いてあるのだ。SFを贔屓している店だというわけでもなくて、とにかく欲しい本が揃
っている。某社の学術文庫も揃っているというのだから驚きだ。手元に置いておきたかった古典SFをここで大人買いしたら、レジの女性店員さんにじっと見つめられて気恥ずかしかった覚えがある。エスカレーターで七階に着き、書棚を眺める。特に買いたい本があって来たわけではなかったのだが、用もなく入ってしまうのが本屋というものだ。相変わらず豊富に揃っているSFの棚を見て、気分を良くする。古典SFばかりではなくつい最近発売されたSFも取り揃えているのだから感心だ。他にもいろいろな棚を見て楽しむことができる。眺めているとふと、海外小説の棚で蒼い表紙が目についた。海のイラストだ。目に吸い込んでくるような、引きこんでくるような海。リチャード・バックの小説だった。「かもめのジョナサン」で有名なリチャード・バックといえば空や飛行機を題材にすることが多い、というよりもそればかり書いている作家だが、やはりこの海のイラストも、空のお話なのだろうか。ぼくは本を手に取り、立ち読みを開始した。たちまちぼくは異世界へ飛ばされてしまった。
そこには数人のぼくがいた。どのぼくもきっと、ぼくと同じように異世界から飛ばされてきたぼくなのだろう。数えてみると四人いた。ぼくを合わせると五人だ。ぼくが五人もいる。ぼくたちがぼくの目の前に集合することで、ぼくは複数の鏡を合わせたような迷宮の入り口を覗いているような感覚にとらわれてくらくらした。これからなにが起こるのだろう。と思う余裕もないままに飛行機が地面に突っ込もうとしていた。でも時が止まったみたいに、飛行機は地面に突っ込みながらも空気のクッションに受け止められてぴくりとも動かない。時が止まったみたいに、というか、実際に時が止まっているのだ。景色はすべて沈黙していた。粒子さえも活動することを休止している。それならこの世界に光がなくなってしまうようなものだけれど、そういうこともなくて、ただいろいろな条件を無視しながらこの世界の時は止まっている。あるいは、そうだ、この世界にはもともと時なんてものは存在しないのかもしれない。もとからないんだから、光は時を必要としない形で存在できているのだろうし、ぼくたちもこうやって、動くことができているのだろう。ぼくは腕を動かしてみる。きちんと動いた。だったらあの飛行機もやっぱり動くはずなのに、動かないということは、もしかしたら他の理由があるのかもしれない。ぼくは一度、仔細に四人のぼくを眺めてみた。他の世界から来たというのだからなにか違いがあるのだろうけど、どこにも違いは見受けられない。でもやっぱり、どこか違いがあるような気もする。その非常に曖昧なニュアンスはぼく以外のぼくも感じ取っているみたいで、みんな目玉をきょろきょろさせている。ぼくたちは同じでありながら異なり、また異なっていながらも同じなのだ。それがよくわかった。
ぼくはぼくに話しかけてみることにした。でもはたして言葉は通じるのだろうか。という不安は、実はさほど感じてはいなかった。なぜならばぼくは日本語しか使えないからだ。あ、でももしかしたらこのぼくは英語も達者かもしれない。それは羨ましいことだが、でもぼくのことだから日本語を使ってもらわないと困る。ぼくはぼくのことを信用していたから、あまり不安を感じなかったのだ。ぼくは空を見上げる。飛行機が地面に衝突しそうでぼくは驚いてわっと声を上げた。でも時が止まっているのか飛行機が地面に実際に突っ込むことはない。まあ突っ込んでいたならここにいるぼくたちも巻き添えをくらうだろうから、時は永遠に止まっていてくれていいのだけれど、でも考えてみるに、時が止まっているのなら永遠というものはもはや存在せず、だというのに時が永遠に止まることができるというのは、いったいどういうことなのだろう。ああ、そういえばぼくはぼくに話しかけようと思っていたんだった。なんだか面倒なことが起こる予感がした。飛行機を背にしてぼくはぼくに話しかける。「やあおはよう」でも確かさっき、書店に寄る前にオムライスを食べたのだった。美味しいオムライスだったし、オムライスを食べたということはつまり昼食であるはずだった。だからおはようと言うべきではなくこんにちはと言うべきだったんだ。でもそう気づいたからといって、相手のぼくが住んでいた世界にとってオムライスがイコールで昼食なのかといわれるともしかしたらそうではないかもしれないし、そもそも考えてみればぼくの世界でもオムライスを昼以外に食べてはいけないだなんて法律はない。ああでもだとしたらぼくは、さっき昼食を食べたのだろうか。それとも朝食を食べたのだろうか。そうやって悩んでいるばかりのままそうして悩み続けていると目の前のぼくは問題なく「おはよう」と返事してきた。ああ良かった本当に言葉は通じるらしい。ぼくは安心してオムライスの味を忘れることができた。それから残りの三人も「おはよう」あるいは「こんにちは」もしかしたら「こんばんは」と返してきたような気がする。一件落着だ。一件落着だから、ぼくはぼくたちから離れて走って、それで走ると崖のようなものが見えたからそこまで息を弾ませて、それで飛び降りて自殺した。
さっきぼくがぼくに向かって「おはよう」と言ってきたものだからぼくは咄嗟に「おはよう」と返すことにしたのだけれど、「おはよう」とはどういう意味だったのだろう。そうしたらぼくとそのぼく以外のぼくが「おはよう」とか「こんにちは」とか「こんばんは」とか難しい言葉を話すものだからぼくはこんがらがってしまってああそういえばこの世界には時がないのだったなと思いついた。なぜ思いついたのかは分からないけれど、発想とはそういうものだと思っている。発想とは常に躍動的なものだ。ではその失われた時を求めるためにはぼくはなにをしたらいいのだろう。と考えると、なぜそんなことを考えているのだろうとぼくはぼくを考えることもできるようになる。でもきっとぼくは良い奴なのだろうなと思った。自画自賛した。そうだ、でもこうして自画自賛するのは不思議なことではない。それというのも、ぼくは今日書店に寄る前に、少し離れたところのビルの最上階付近にあるオムライス専門店でオムライスを食べたのだけれど、そのときも自分を褒めてやりたくなるようなことがあったのだ。ぼくはオムライスを食べている間、手が滑ってスプーンを落としてしまい、ウェイターがすぐさま新しいスプーンを持ってきてくれたのだけれど、ぼくは良い奴なのだから洗う手間を省くために落としたスプーンをそのまま使うことにしたのだ。と、威張っている自分を諌めることができたのだからぼくは良い奴なのだ。ところでさっき、ぼくが自殺してしまったらしい。それは一大事だしぼくは死にたくないなぁと漠然とだけど思っているものだから死にたくないのになんでぼくは死なないといけないんだろうと気分を落としていると、でもぼくはぼくが死んでいないことに気付いた。ぼくは生きている。でもぼくは自殺している。ああそうか分かったぞ、生きているぼくと、自殺したぼくは同一人物ではなかったのだ。そうだと分かるとぼくは嬉しくなって、安心して生き続けることができた。それはまた嬉しいことだ。ぼくはぼくが死んだというのにるんるんの気分でぼくが生きていることを喜んでいた。やったぁぼくは生きている。けれどもぼくは死んでいる。やったぁぼくは生きている。けれどもぼくは死んでいる。それでもぼくは生きている。
まったくここはどこなのだろう。ぼくは辺りを見渡した。するとなんと、ぼくがぼくの他に四人もいる。つまりぼくを合わせて五人のぼくがいるのだ。ぼくは走って逃げてしまいたい衝動に駆られた。人間ならば誰しもそう思うだろう。しかしこういうときに走ってしまうと、ぼくはマラソンランナーになって金メダルを獲得してしまうから、どうしても、ぼくは走ることが許されないのだ。少しは遠慮というものを覚えるべきだとぼくはいつかぼく以外の誰かに言われた覚えがあるから、その教えを忠実に守って、今回ぼくは走らないでおくことにしたのだ。それで走ることはぐっとこらえて、ぼくはぼくのことを観察してみることにした。それぞれどこか、微妙に違うようで微妙に同じだ。つまり言葉で言い表すことはできないぐらいには似ていて、そして言葉で言い表すことはできないほどには違っていた。どこがどう違うのか、説明することができない。どこがどう似ているのかさえ説明ができない。だというのにあの四人のぼくが、ぼくではないことがとてもよく分かったのだ。あるいはそれは、ぼくがぼくという実感を認識しているからかもしれないが、それを抜きにしてもぼくよく分かったのだ。ところでぼくは、言葉で表現できないものなんてこの世には存在しないものだと思っている。言葉を信仰している。それはたぶんそんな良い小説作品たちと触れあってきたからだろう。でもぼくは浦島太郎の存在を失念していた。絵にも描けないくせに言葉には表せるのか、と聞かれると、ぼくはきっと答えに窮したに違いない。でもぼくは浦島太郎なんて忘れていたからそんなことはどうでもよかった。ああそうだ、言葉で言い表すことができないのなら、言葉の代わりに映像や絵や音楽を使えばいいのだ。竜宮城だって映像で撮ればばっちり説明することができる。ぼくはとても冴えていた。でもそれを実行する元気はなかったのでそのままにした。とにかく曖昧な、よく分からない差異がぼくとぼくとぼくとぼくとぼくにはあったのだ。それはたぶん、異なる世界に住んでいたから、環境がぼくに違いを与えたとか、そんな分かりやすいものではない。ところでそんなことを考えているうちにぼくのうちの誰かが「おはよう」と言ってくる。そしてまたぼくのうちの他の誰かが、「おはよう」と言うのだ。ぼくは戸惑ってしまった。そしてまたもう一人が、「おはよう」と言う。つまりいまここで「おはよう」と言えば許されるのだなとぼくは理解して、ぼくは「こんにちは」と発言した。それは自分の感覚に忠実に従った発言だった。最近は言葉狩りが激しいからもしかしたらこの発言も検閲にかかるかもしれない。ぼくは発言した後に戦慄した。でももはや一度口に出した言葉は取り消すことは不可能なのだ。ぼくは走り出したい欲求に駆られた。そうしている間に、ぼくではないぼくが、急に走り出した。ぼくの欲求を奪い取ったみたいにそれは良い走りだった。きっとぼくと同じ理由で走りたいと思いながらも、走るのをこらえていたのだろう。あの世界のぼくは、ぼくよりも忍耐強くないらしい。そう思うとぼくはぼくに勝った気がして誇らしくなったが、実に危ないところだった。ああ、忍耐強い、そして忍耐強くない。このふたつの表現によって今ぼくはぼくとの差異を言葉で説明することができたみたいだ。これはすごい進歩だった。それはともかく走っていったぼくが崖から飛び降りて死んでしまった。ぼくが死ぬ場面を見るというのはやっぱりぼくとしては悲しいものだから、ぼくは涙を流した。するとふいに空が明るくなってくる。なにがあったのだろうと思い目の下を拭うと、あの飛行機のなかに乗