【BNSK】月末品評会 in てきすとぽい season 3
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あの日の真白なキャンバス
投稿時刻 : 2014.05.25 22:34
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あの日の真白なキャンバス
ほげおちゃん


 あれは二十八歳になた四月のこと。
 その日の夜は雨が降ていた。傘をさせばパラパラと音がするくらいの雨で、公園には水溜まりと枝分かれした川がいくつも出来上がていて。
 公園の中にはもちろん、その周辺にすら誰もいなかた。
 だからこそ私は足を踏み入れたのだ。
 スマートフンを手に、公園の写真を自分なりに構図を考えて撮て。
 本当は一枚か二枚撮たら帰るつもりだたけれど、その公園に足を踏み入れるのは随分久しぶり(少なくとも十五年は経つだろう)だたから、なんとなく中をくまなく歩いてみることにしたのだた。
 今は疎遠になたけれど、まだ小学校に入る前に仲良くなた友達。あのとき私はたしかイトコとジングルジムで遊んでいた記憶があるけれど――すでにジングルジムは跡形もなく撤去されている。そんなことは公園に足を踏み入れる前から分かていたことだし、撤去されたのはここ最近の話でもない。もしかしたら記憶が朧げな、十五年以上前に足を踏み入れたときでさえジングルジムは存在しなかたかも。だけど私がこの公園の中を歩くのだと決めたとき、まず思い起こされたのはその記憶だた。
 中を歩いていれば、意識すればいろいろな記憶が蘇てくる。
 象の鼻を模した滑り台は以前はステンレス剥き出しで、一秒かそこらで滑り落ちれるくせにとても大きく感じたのを覚えている。
 何度取り替えられたか分からないブランコは、勢い良く立ち漕ぎしたら逆さまになて落こちてしまうんじないだろうかとビクビクしたり。
 砂場は、犬か猫の糞が埋まていたことがあたから大嫌いだた。
 他にも、公園と道を挟んだ向かいには家が並んで立ていたけれど、全部取り壊されて空き地になていて。
 私はそういた光景を、全部カメラに収めていた。
 スマートフンのカメラは露出補正が充分でなく、それゆえ雨の降る町がまるでミニチアのように見えてしまうのだが、私はむしろその方が幻想的で好きだた。どうせ見た目と同じ写真は撮れないのだから、いそのこと非現実でも印象深いほうが良い。
 そんなときだたのだ。私があいつを見つけたのは。
 公園の隅この、柵を越えた先の木が植えられた部分。
 春になれば桜が咲く木の根元に、何かもこりとしたものが横たわている。闇と同調するような真黒な毛布で覆われていたから、パと見ただけでは分かりにくい。しかし一度意識してしまえば、目を逸らすのは不可能だた。
 最初、私はそれを動物の死体だと思た。猫にしては大きいから、たぶん犬だろうて。普段なら何もせず場を去ていたはずだ。しかしそのとき、何故だか私はそうしなかた。どうせなら撮てやろうと。装ていただけかもしれないが、そのときは至て平静で、ただ純粋な好奇心に任せて行動してやろうと思たのだ。
 まず少し離れたところから一枚写真を撮た後、おそらく人生で初めて公園の柵を越える。木の根元に近づき、カメラを構えようとしてギとした。腕が見えたのだ。土に塗れて、しかも真暗なのに、人肌であることが分かる腕。私はそのとき声を上げたのか、あまりにも驚きすぎて声を上げられなかたかは覚えていない。しかし肩にかけていた傘を地面に落としたことは覚えている。その音のおかげで、少しだけ冷静になることができたのだから。
 唯一剥き出しになている腕を、食い入るように見つめる。細い腕だ。未発達で、これは子供の腕だと私は思た。
 もしかして、子供の死体なのか……
 全身に悪寒が走り、早く立ち去るべきだと本能が警告を発する。そして私は本来であればその本能に――従うべきだたかどうかなんて今となてはわからない。しかし私は、その瞬間においては本能に逆らうことを選んだ。何かが少しずつ狂ていたのだ。以前まで写真に興味のなかた私が、急に興味を持ち始めたこと。雨であるにもかかわらず、わざわざ夜に散歩しに外へ出かけたこと。公園に足を踏み入れたこと。どれもが自分の認識する自分とは異なていて。
 私は思い切て震える腕を伸ばし、毛布をゆくりと剥がした。
 顔が、なかた。
 正確には、目がない。鼻がない。口がない。のぺらぼうがそこにいた。
 しかもそれは目が無いにもかかわらず、私のことを見たのだ。
 今度こそ私は腰を抜かした。雨でぐちぐちになた地面に、ぺたんと腰を落としてしまた。
 なんだ、こいつは?
 しかもそいつは私が毛布を剥がしてから、まるでスイチが入たかのように動き始めた。
 細い腕をぐるぐる回し、上半身を起こそうとして――
 私は思わず飛ぶように後ずさた。そのまま振り返り勢い良く駆けようとしたので、公園の柵に躓き、転びそうになる。私はそれでも何とか踏ん張り、バカみたいに走て家に逃げ帰たのだた。
 私は玄関前の水道で、汚れた体を洗うことにした。
 服ごとホースで、身体中にまとわりつく土を洗い流していく。
 あいつは、一体なんだたんだ。
 体がぶるりと震える。水の冷たさなのか、生理的な感情によるものなのか、よくわからない。身も心もぐちぐちた。
 これから、一体どうすればいいんだろう。
 そんな言葉がずと頭を駆け巡る。
 これから、どうすればいいんだろう。これから、これから――
 直近の問題は、どうやて私は家に上がるかということだた。玄関を開けたら土間が広がているから、そこまでは濡れててもいい。だけどそこから先は居間だから絶対に濡らしたくない。
 とりあえず、玄関の屋根の下で服の裾や袖を絞た。頭がぼんやりとしながらも、機械的に服を絞て、絞……
 私はスマートフンを持ていないことに気がついた。
 まるで雷で打たれたような衝撃だた。
 私にとてスマホは、なくてはならない必需品だたのだ。一日中とにかく暇があればスマホを触て、それが無い生活なんて、今となては全然思い出せない。
 あのとき公園で、私はスマホを落としてしまたのだ。
 大きな重りが頭にのしかかり、意識をそのまま手放してしまいそうになる。
 あのスマホには、絶対に他人には知られたくないデータが入ていた。もし知られたら、自殺するしかなくなてしまう――
 頭を抱えて塞ぎ込んで、何分そうしていたか分からない。私が出した結論は、あの場にスマホを取りにいくことだた。
 あの、化け物の元に。

 徒歩一分ほどの道のりを、絶望に一歩ずつ足を踏み入れるような心地で、私は再び公園にやてきた。
 もう一度目に来たときのような高揚感は失われていた。
 闇はどこまでも深いように感じられたし、雨音は先ほどより強くなて、意思を打ち砕かんとしているように感じる。
 私はあの木の前の柵に向かて、さきほど毛布を剥がしてしまたから、あいつの姿がはきりと見えた。見間違いじなく、顔がない。そいつはもう動いておらず、死んだようにじとしていた。
 そいつから一歩も離れていないところに、デスプレイを下向きにしてスマホが落ちている。
 私は柵を越えて、スマホを拾た。
 幸い、まだ壊れていないようだた。
 私はゆくりと、のぺらぼうを見下した。
 のぺらぼうは死んでいるのではなく、苦しんでいた。
 表情は見えないけど、苦しんでいる。
 むかし家で飼ていた小鳥の雛が、衰弱死していくときのようだた。
 私はさきほど、何故これをそんなにも恐れていたのか分からなくなた。
 ただの弱々しい生き物じないか。
 普通の、放り出されたらひとりでは生きていけない餓鬼なんだ。顔がないから世間体が悪く、親に捨てられて。
 私は急に、こいつのことを哀れに思た。
 哀れな、哀れな、この世では生きていくことが許されない生物なんだて。
「ねえお前、助けてほしいか?」
 気がつけば私は、しがんでそいつの顔を覗き込むように声をかけていた。
「助けて欲しいんだろ?」
 表情がない怪物が、こくりと頷いた、ように見える。
「どちなの? 助けてほしいの?」
 こくり、と今度はもう少しはきりと頷いたように見える。
「どうしよう、かなあ」
 私は興奮していた。
 どうしようもなく背徳感があて、私は興奮していた。
……ねえお前、私のことを裏切らない?」
 こくり、とまた小さく頷く。
「本当に? どんなときでも? 間違えていると思てても逆らわない? もし私がお前を助けたら、一生私のために生きてくれる?」
 こいつは苦しんでいる。
 苦しんで、苦しんで、それでも自分が助かるために首を振ろうとしている。
 醜い。
「わかた。じあ助けてやる」と私は言た。

 本当は私は、すぐにでも救急車を呼ぶべきだたのだ。
 そいつがのぺらぼうだろうがなんだろうが、私は赤の他人で関係ないことだたのだから。
 しかし一度関わてしまたら、そういう訳にはいかない。
 そいつは結果的に、丸々二日間苦しんだ。ずとずと、狂たように汗を流して。
 私はずと看病につききりで、会社に行く暇がなかた。計画的でない有給休暇を取たのは、そのときが初めてだた。
 金曜日の朝、そいつは目覚めたのだ。
 気がつけば、私の顔をそいつが覗いていた。
 突然のぺらぼうだたので、私は思わず大声をあげてしまた。
「何やているんだよ!」
 そいつはぶかぶかのパジマを着ながら、体をビクとさせる。
 私のパジマだた。それ以外に着せるものはなかたのだ。
 そいつがいつまでも何も喋らないので私は溜め息をつき、
「元気になたんだ」
 こくり、とそいつは頷く。
 少しは声を出せばいいのに。口がないようで、あるんだから。
「ちと汗流してくるから、お前はそこでじとしてて」
 階段を降り、居間を指差しながら言い捨てて、風呂場にシワーを浴びに行く。
 朝起きてからシワーを浴びるなんて随分久しぶりだたから、とても心地良かた。
 風呂場から上がてみると、言われたとこりそいつは居間の隅こでじとしていた。
 顔がないからよくわからないけれど、居心地の悪さというか、遠慮を感じているのだろうか。
「そういうところは普通にしてていいから」と私は言う。
「お腹空いてるでし。朝ご飯作てあげるから、待てて」
 適当に刻んだ野菜に、目玉焼き。冷凍食品のオカズ。ご飯は冷蔵庫で保存しておいたものを使用。
 ふたり分でもそれほど手間はかからない。
「ほら、できたよ」
 まるで料理店のように、テーブルの上に皿を並べていく。
 そいつはピクリと顔を上げたように見えたが、こちらに寄てこようとはしなかた。
「早くこちに来な」
 私がテーブルをぽんと叩くと、怖ず怖ずと寄てくる。どうやら相当臆病なやつのようだ。
「いただきます」
 私だけがその言葉を口にして、朝食に手をつける。
 そいつは目(顔?)を朝食に向けるだけで、テーブルの上に手を出さずじとしていた。
「お前、私の料理が食べられないの?」
 そう言うと再びそいつは体をビクとさせて、慌てたように自分の箸を手に取た。そして一口目を口にする。
 先ほど述べたとおり、そいつには口があた。
 何もないところに食べ物が消えていくようで不気味だけれど、見えないだけで、たしかにそいつには口があるのだ。
 それに気づいたのは、看病で水を飲ませようとしたときだた。
 そいつは生死の境目を彷徨ていたとき、全身から噴き出す汗を補うように、死に物狂いで水を口にしていたのだ。
 そいつは最初はちびちびと目玉焼きを口にするだけだたけれど、やがて恐ろしい勢いで食べ物を口にし始めた。
 全身で、生きようとしている。
 この私より一回りもふた回りも小さい体のくせして、どこにこんなエネルギーが詰まているのか。
「今日はさ、お前に構てられないから」
 ひととおり食べ終えたのを見て、私は言た。
「会社に行かないといけないから。二日連続で休んだことなんて初めてだよ。私は真面目だからね」
 そう言うと、先ほど朝食を頬張ていた元気は何処へやら、また縮こまてしまた。
 私はその反応に満足して、
「食器洗いぐらいはできるでし? やといてね。あと、それから――
 人差し指でそいつの顔の中心を指差す。
「絶対にこの家から出てはいけないよ。誰かが訪ねてきても返事しちダメ。誰もいないように振る舞て」
 なんとなく逡巡しているように見えたので、
「これはお前のためでもあるんだよ」
 きとんとしたのを悟て、
「もし見つかたら、お前をここに置いておくのが難しくなてしまうんだから」
 その言葉を聞くとそいつはまた体をビクとさせ、縮こまてしまた。
 臆病なやつだ。
 しかしこれで、本当にこいつは私に逆らえないんだということが分かた。
 私は再び満足して、
「頑張れば長くここに置いてあげることができるんだから。頑張ればね」
 そして私は支度をして、会社に向かた。

「お、来た来た。体調はどう? もう大丈夫なの?」
「大丈夫です。すみません、突然ご迷惑をおかけして……
 出社すると上司がフレンドリーに話しかけてきたので対応する。
「駿河さんが休むなんて珍しいから、本当に心配したよ」
「すみません」
「結局何だたの? ただの風邪?」
「は、はい……強烈なやつに当たたみたいで……
 二日連続で休むという電話をかけたとき、医者に診てもらたほうが良いと上司が行たのだ。
 私はそのことについて後ろめたさを感じていたが、あいつを医者に連れていくかどうかについても、あのときはひどく迷ていた。そりあいつの体調だけを考えれば、医者に診てもらたほうがいいのだろうけど――
「今日は仕事溜まているかもしれないけど、無理しなくていいからね」
 チームのメンバーが来たから、その人たちにも謝て。
 メールボクスを開くと二百件以上メールが溜まており、一気に現実に引き戻された。
 だから休むのは嫌なのだ。
 休んだ分の仕事が溜まるだけだから。
 私は無我夢中でメールの処理に取り掛かた。

「今日はこれで帰ります」
「お疲れ様ー
 なんとか八時になる前に仕事を終えたが、私の脳みそはもうボロボロだた。
 これでも昔より早く帰れるようになたのだ。
 昔は十時近くまで残ていることもあたが、最近は残業規制が厳しい。早く帰れるから楽かと言われると、同じ仕事量を短い時間でこなさないといけないので、以前より辛くなた気がする。
 私はときどき、将来に漠然とした不安を持つことがあた。
 今は脳みそフル回転でなんとかついていけてるけど、将来三十代、四十代となたとき同じように仕事を続けていけるのか。そしてこのまま死んでしまうのか。
 会社から家までは、電車を乗り継いで一時間以上かかる。会社の人たちからは近くに住んだほうがいいんじないかと言われるけど、私はできるだけ会社から離れていたかた。
 この電車で帰るときが、私の安息の時間だ。
 本を読んだり、脳みその体力があるときはちとした文章を書いたり。
 だけど今日は、何にもやる気がでなかた。だからスマホで適当にニスを眺めて。電車が地下に入りそれも出来なくなたから、スマホをポケトに仕舞い、ぼうとして。
 突然あいつのことを思い出した。
 家に置いてきたのぺらぼうのことだ。
 あいつはいま、どうしているのだろう――
 私は急に、電車の中でじとしていられないほど不安になた。
 地下鉄から乗り換えるために外に出て、すかり日が落ちていた風景がさらに不安を煽り立てる。
 私は、あいつを裏切らないと感じていたけれど、そんな保証はどこにあるんだ?
 だいたい私が会社に行ているあいだ、一体あいつは何をしていたのか。
 膨大な時間だ。
 私はその時間を毎日会社で費やしていて、だからこそ人生に虚しさを感じているのだ。
 そんな膨大な時間があれば、あいつは一体何を――
 私はスマホで自宅に電話をかけた。一回、二回、三回……
 出ない。
「なんで出ないんだよ!」
 留守番電話に繋がた瞬間、私は思わず叫んでしまた。
 そのときはホームで、周りの注目を集めてしまて。
 私は謝るため頭を下げたまま縮こまてしまたけれど、それでもあいつが電話に出ないのが不安で、不安で……
 きと不審者のように、車内で体をガタガタ震わせていたと思う。
 何故こんなにも不安なのか私にはわからなかた。
 ようやく最寄り駅について、頭をふらふらさせて。
 私は帰路の途中で、もう一度だけ電話を掛けた。
 またしても留守番電話に繋がる。要件を伝えてほしいというメセージと、ピーという音が聞こえて。
「どうして電話に出てくれないんだよ……!」
 私はもう泣きそうだた。
 泣きそうで、それを必死になて食い止めて何かよくわからないことを呟いて。
 突然、かちりという音が聞こえた。
……たの?」
 返事はなかた。
……受話器取たんでし? 取たんなら返事してよ、ねえ」
 だけど返事はない。
 私はそのことについて罵詈雑言を浴びせようとした。
 何故、どうして。今朝だて全然話さなくて。
 そのとき、私の中を一直線に線が走た。
 それは下の下までスルスルと、まるで届かなかた井戸の底に届いたみたいに。
「もしかしてお前、喋れないの?」
 突拍子なことを口にしていた。
「喋れないの? 喋れないんでし、ねえ」
 返事がない。
 返事がないのに、それはあいつの無言の肯定のように感じられて。
 私は電話を切り、狂たように家に向けて駆け出した。
 玄関を開けて中に飛び込んで、居間にあいつがいた。
 私は思わず抱きしめる。
「ごめん、ごめん」
 一体何を謝ているのか分からなかた。
「お前、お昼は食べたのか?」
 首を振る。
「じあ夕ご飯は?」
 首を振る。
「バカ」と吐き捨てるように私は言た。
「今すぐ何か作るから。すぐできるから」
 私は冷蔵庫の中を引掻き回しながら、帰路の途中でのことを全て後悔していた。
 何を疑ていたんだ。
 疑うことなんてなかたんだ。やぱりただの、弱ちい生き物じないか。
 私は冷蔵庫のありたけのものを詰め込んだ料理を、そいつに向けて出した。
「ほら」
 冷静に見れば、それはグロテスクなものだたかもしれない。
 そいつは箸を手にしつつも、料理に手をつけることに躊躇していた様子だた。
 しかし私がじと見つめていたので、ついに料理に口つけた。
 一口食べれば、どんどん、どんどん減ていく。
 やぱり。私は料理には自信があるんだ。
「ごめん、本当にごめん」
 のぺらぼうの食べぷりを見ながら、独り言のように呟く。
「私は狂ているんだ」
 前から薄々感じていたことだた。
 私は以前から他人と違うような気がしていて、それでも今日の行動は異常だた。
 いつの間にか私は狂ていたのだ。
 のぺらぼうが手を止めて、こちらに顔を向けた。
「こんなやつに拾われて、災難だろお前」
 そいつはやはり何も言わなかた。
 そのかわりに、またパクパクと夕食を食べ始める。
 完璧な回答だた。
「ねえ」
 思わず背後から抱き締めて、
「お前が喋れなくなたのはいつから?」
 のぺらぼうが再び手を止めて、
「私のせいじないよね?」
 抱き締める手を強めながら、私が言う。
「私が医者に連れていかなかたせいじないよね? 前から喋れなかたんだよね? それに、のぺらぼうだから連れていかれても困るもんね?」
 そいつはしばらく固まていたけれど、やがてコクリと返事する。
 それを見て、私は思た。
 こいつは本当は、のぺらぼうじないんだ。
 私が顔を見えないだけなんだ。
 何らかの理由で。
 私はスマホで、そいつの写真を撮た。
 毎日毎日、そいつの写真を撮ることにしたのだ。

――――――

 one。
 ひとり、ひとつ、個の。
 私はそれを独立した、ひとつのオリジナリテ溢れるものだと認識していたけれど。
 誰でも、と訳すのを見たとき、最初は全然意味がわからなかた。
 ひとりと誰かじ全然違うじん、て。
 だけど成長していくうちに、とくに社会人になて、私はそれを痛感せざるを得なかた。
 みんな、誰かになていく。
 大人になれば誰もが集団のひとりになていた。
 結婚して、子供ができて、その子のために生きるようになて。
 同じように子供がいる人と楽しそうに話す同僚を見て、そちの世界に行てしまたんだなと思た。
 テレビニスで見る、世界だ。
 いろんな大人がいるのを見て、誰もがその亜種なんじないかて認識する。
 私はひとりになた。
 そして私も、誰かになていくのだ。
 彼らにとて。
 私は何にもなれないまま時が過ぎていても、何にもなれなかた誰かとして皆の脳に記録されていく。
 私はそれを題材にした文章を書いていた。
 時にはそれは小説だたり、詩だたり、ただの汚い言葉の羅列だたり。
 ずとずと同じことを書き続けていて、成長なんか見られないから。
 ズルができないかて探してしまう。
 本当はすぐそばに抜け道があるんじないかて。
 そして勝手に期待して、失望したりする。

 私はあれからすぐ、家の賃貸契約を解約した。
 私が生まれる前、三十年前から両親が借りていた家だた。
 古臭いけど交通の便が良くて、家賃が安くて、住み慣れていて……
 だけど解約せざるを得なくなたのは、あいつを飼てしまたから。
 近所に住んでいる親戚のおばさんにバレて、そんなの間違ているて言われて。
「いくら寂しいからて、知らない子と一緒に住むなんて……
 私はカとなておばさんを突き飛ばした。
 おばさんがひくり返て転んで怪我をして、警察沙汰にはならなかたけど、私はとても居心地が悪くなたのだ。
 それでもそいつを捨てることはできなかたし、何より捨てるにはもう遅すぎた。
 もうコトは起きた後だたし、何より情が移ていたし……
 本来なら私がそいつを捨てるはずが、いつの間にか立場が逆になて。

 気づけば、十年の月日が流れていた。

「行てきます」
 声が聞こえる。
「今日は少し遅くなるかもしれないけど、十時までには帰てくるから」
 男なのに、透き通るような綺麗な声だ。
「明日は久しぶりに休みだからさ、遠くに出かけようよ。マネーが車を運転してくれるて」
 私はこくりと頷く。
「じあ、行てくるね」
 もう一度名残惜しそうにそう言て、あいつが部屋を出ていく。
 またひとりだ。
 ひとりになてしまた。いつものように。
 私はしばらく、何もせずぼうとする。
 何十分か、何時間か、ひとりで考え事をしているのかしてないのか。
 しばらくしてテレビをつけると、あいつの顔がアプで映ていた。
 あいつは俳優になたのだ。
 去年からテレビに出始めて、今や若手人気一・二を争う人気俳優である。
 私は金塊を掘り当てたのだ。
 声だて、普通に喋れるようになた。
 あいつはみるみるうちに輝き始めて……
 私はスマートフンのフトアルバムを開く。あいつの写真がそこに映ていた。元ののぺらぼうだたときから、顔がはきり見えるようになた今まで。
 それを見て悲しくなた。あいつはもういないのだ。何も描いていないキンバスのように、真白なあいつは。
 今となては私が、あいつの立派なお荷物だ。
 声の出なくなた私を――
 あいつのマネーが、私のことをどういう扱いをしているか知ている。
 私は鏡を見た。そこには、消えない年輪のような皺が刻み込まれていた。(完)
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