てきすとぽい
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第30回 てきすとぽい杯〈紅白小説合戦・紅〉
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神の言祝ぎ
(
みお
)
投稿時刻 : 2015.12.12 23:29
字数 : 2569
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神の言祝ぎ
みお
厳しい師であると、噂はあ
っ
た。
「猿。また筆が乱れている」
ぴしり、と音を立てて扇子が飛んで来たので、小園はびくりと肩を縮ませる。
その扇子がぴし
ゃ
りと当た
っ
たのは小園ではなくその隣に座る娘である。
「お師様、ごめんなさい」
べそべそと泣くその娘の本名を、小園は知らない。ただ、師匠は猿、猿と呼んでいる。真
っ
赤な着物に身を包み、顔を赤に染めて泣く様は、本当に猿のようであ
っ
た。
猿、と呼ぶのはあまりに気の毒で小園は何となく「あなた」と呼んだ。芸者である母が、人をそのように呼ぶ様が、美しく見えたせいでもある。
「あなた、大丈夫」
「小園。庇う必要はありません。ほれ。猿よ、師が手を貸しまし
ょ
う。もう時間がないというに
……
」
師は、音もなく立ち上がる。師というのは、絵の師である。
狭い部屋一面に、白い紙と墨に筆が転がり足の踏み場もないほどだ。
彼女が筆を執れば、その絵は今にも動き出しそうに見えた。線の美しさはもちろん、その絵は幸福に満ちている。
彼女は江戸の花街裏手に居を構える、当世き
っ
ての女絵師。墨を使うというのに彼女の着物は恐ろしく白く、そしてひとつも汚れない。
「さ、小園も私の手を見て」
ぞう
っ
とするほどに冷たい目であるが、その瞳の奥は優しい。
絵に関しては厳しいが、芯は優しいのだろう。まだ10にも手が届かない小園でも、それは感じ取れる。
だからこそ、小園はこの女絵師の元に弟子入りしたのである。
芸者の母の腹から転がり落ちた、てて無し娘。芸者にするには器量無し。憐れに思
っ
た母が、せめて好きなものを学ばせてやろうと選んだのがこの場所だ
っ
た。
三味線も踊りも唄もへたくそであ
っ
たが、絵だけは不思議とまあまあ描けた。
弟子はこの猿しか取
っ
ていないので。と断る師匠に無理にとねじ込み、通い始めたのは師走の頃。
ち
ょ
うど大作に取りかか
っ
ていたこの師匠は、小園の腕を見て途端に「ならば今月だけならば手伝
っ
て貰いまし
ょ
う」と言い放
っ
た。
「お師匠様。そのように急いで、この絵を仕上げねばならぬのですか」
「ええ、もうあと10日余りで
……
」
今、三人の前には長い長い白反物が広が
っ
ている。見た事もないような美しい布である。そこに贅沢にも墨を落として絵を描く。
何を描いているのか、最初こそ分からなか
っ
た小園だが、今ではぼんやりと見えて来た。
それは一年の風俗絵なのである。正月の初日の出からはじま
っ
て、上野の桜に初鰹、雨の夜を過ぎれば空に浮かぶ天の川、そして両国の花火大会、秋は紅葉に富士の山。やがて暮れゆく酉の市。
夏から以降はまだ下絵しか描かれていないものの、人物が皆微笑んでいるのが、なんとも幸福な絵であ
っ
た。
「どこかに納めるのですか」
「ええ。至上の方に」
だから急いで。と師は厳しくもどこか優しく猿の背を撫でた。白い袖をそ
っ
と押さえて、そのしなやかな手が猿の手を支えた。
「猿。私の後を継ぐのはあなたなのだから」
猿の手が、震えるようにやがて動き始める。最初こそ震えていたが、師の手に導かれるように筆が静かに動き始めると、流石一番弟子に恥じない線が生まれる。
「もう泣いていては駄目ですよ」
師はやはり優しいのだ。
小園はほんの少し、嫉妬めいた気持ちを抱いてしま
っ
た。
絵が完成したのは、大晦日の夜である。
母は仕事に忙しく、毎年大晦日は一人寂しいのが常であ
っ
た。しかし今年は寂しいと感じる間もないままに、年が暮れていく。
頬に墨をべたりと貼りつけて、
「できた!」
と猿が叫んだ瞬間、小園も思わず歓声を上げた。
猿の綺麗な紅色の着物もす
っ
かり墨で汚れているし、お互いの顔にも手にも墨色で一色だ。それでも目の前の布地には、絵巻物のような絵が広が
っ
ている。何と美しい図だろう。言葉ではなく絵の言祝ぎだ。
猿の小さな手を掴み、上下に揺らせば彼女は照れるように泣きべそをかくように小園の懐に顔を押しつける。
「ありがとう、小園ち
ゃ
んのおかげ」
「あなたが頑張
っ
たからよ」
「
……
二人のお陰ですよ」
はじめて仕上げたその作品に見入
っ
ていると、師の目が円を描く。初めて見る微笑みは、何と美しいことか。
師は、はらりと着物を落とした。代わりに、その反物を器用に体に巻き付ける。
一年を身に纏
っ
た彼女は、小園の側で膝を折
っ
た。
「小園。この一
ヶ
月よくや
っ
てくれました。お給金は出せないけれど、せめてこれを差し上げまし
ょ
う」
彼女が差し出したのは一枚の小さな絵である。緻密な線で描かれたのは、船に乗
っ
た愛らしい七福神。
猿がその紙をそ
っ
と手にすると、隙間に存外器用な字でさらりと文字を書き入れた。
「
……
永き世の、遠の眠りのみな目ざめ、波乗り船の音のよきかな」
これを枕の下に入れて眠れば、よい初夢を見られるのだと猿はいう。
……
はて。小園は首を傾げる。目の前に立つ猿は、これほどに威厳のある娘だ
っ
ただろうか。
「あなた?」
先ほどまでの猿は小園と同じくらいの背であ
っ
たというのに、気がつけば背は追い抜かされて宝船の絵を持つ手も大きい。
「いい初夢をね」
師匠の声に振り返れば、反物に身を包んだ彼女は小さな庭の上に踊るように舞い降りた。そして、暮れの月明かりにつつまれて不意に消えたのである。
「お師匠様!?」
冷たい庭に駆け下りて見てみれば、そこにあるのはただただ真
っ
白な反物。あれほど苦心して描いた絵は、全て溶け落ちた。
ほほ。と誰かが小園の隣で笑う。振り仰げば、そこに新しい女絵師が誕生していた。
「お師匠様が、天の神様に今年一年の様子をお届けに行
っ
たのです。大丈夫、また十二年の後に出会えますよ」
小園の隣にたつ猿は、いまやかつての師のごとく凜とした佇まい。紅色の着物は、冷たい闇夜に映える。手に持つ筆はかつてのように震えてはいない。
ああ。彼女は、彼女達は神の眷属である。
「小園。また、手伝
っ
て貰えますね」
一年の幸福を、絵にしたためるのが彼女達の役目。その絵を天の神が見て微笑めば、それはなによりの言祝ぎである。
どこかで、鐘の音が鳴
っ
た。
年が、移り変わ
っ
ていく。
「この子を鳥と、申します」
猿の背に、華奢な少女が一人。綺麗な青の着物に、まるで羽根のように軽そうなその体。
彼女は愛らしくも、小園に小さく頭を下げた。
「さあ、描きまし
ょ
う」
「はい、お師匠様」
鳥と小園の声が同時に重なる。それに重なる鐘の音。
去
っ
た師を惜しむように、雪がちらりと反物の上に舞い落ちた。
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