尼将軍
姉がいる。
とんでもない姉だ。
気が強く、少々の頃から男児とは言えども、姉の風下に立たされていた気がする。
義仲が死に。
平家が壇ノ浦に沈み。
義経は北で死んだ。
頼朝の政権は安泰かとも思われたが、源氏の嫡流を巡る政争は続き、次々と粛清の嵐が起こ
った。
そんな中で、己の子すら政権の安定のために手にかける。
そんな女が、姉だ。
尼将軍とも呼ばれるそんな姉のもと、泰時は第三代執権となった。
姉に対する恐怖はそれでも止まなかった。
だが、それなりに勝手知ったるわが一族、処世術は心得たつもりである。そんな遠慮もあってか父・義時の遺領配分に際して泰時は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。
なるべく姉の目の突かぬところで政務を。
どこか実務官僚の気風のあった泰時は、政務に没頭し鎌倉府の構築に力を注いできた。
承久の乱、後鳥羽上皇の決起に対抗したのも尼将軍である姉の功績も大きい。もちろん、その影で東西奔走してのが我々であるという自負はあっても表立ってそれを誇示するだけの勇気はない。
戦乱にはわしは似合わぬ。
そう、泰時は思った。
義仲騎下の巴御前にしろ、姉にしろ、やたら戦乱には気の強い女が現れる。
そういった女とは、泰時は気風が違う。
泰時は実務的に政治組織を立ち上げていくのが性に合っていった。
新たな政治機構を作ること、それは魅力的で楽しいことなのだが、どうしても戦乱の気風の残る御家人たちと折衝せねばならない。
泰時は彼らが苦手だったが、そんななかでも処世術は身につけていくものである。
姉が死んだ。
姉は、女ながらに武人的な人間だったのだと思う。
だからこそ、源の嫡流を手玉に取り、上皇の反乱を押しのけることができたのだ。
武士とは、かくあるべき。
そんな指針を残していったようにも思える。
だが、泰時は武人気質というものがどうにも苦手だった。これが正しいやり方かはわからない。平穏が訪れるとは限らず、いまだ軍事勢力を削ぐべきときではないかもしれない。
だが、自分には自分のやり方があると泰時は思う。
己のやり方で、姉を超える。
いや、超える必要などないのだ。己は己、姉は姉。比較は難しい。
超える超えないの問題ではない。ただ、己の道義を完遂するのみだ。
貞永元年8月、泰時は御成敗式目を定めた。
武家政権の日本における最初の武家法典である。
泰時は出家後、思い出すことがあった。
もはや親子ほども齢の離れた姉のことを。
頼朝を熱愛した女のことを。
武士さながらに厳しく弟たちを鍛錬をした姉のことを。
姉は物の怪の類であったのやもしれん、そういう泰時の顔は安らかであった。