ヒマラヤのイルカ(長編しんみり系)
(ボクちんは主催者なので、この作品は投票対象外でよろー
)
映画を観終わって通りに出ると、ぼくの息が詰まった。
強烈な暑さと湿気が待っていた。エントランスから一歩外に踏み出すときに覚悟はしたが、やはり冷房のきいた館内に後ずさりしたくなる。梅雨明けの酷暑に加えて、新宿の街は買い物や遊びに来た人たちでいっぱいだ。歩道は混雑をきわめ、それを前にするぼくは鈍い頭痛に襲われた。休日の繁華街には、どうしても馴染めないものがある。
「やっぱり土曜なんかに来るもんじゃないな。街中がサウナになっているよ。最悪だ」
聞き流してほしかったのだが、沙希は路上を歩きながらつい漏らしたぼくの呟きに、すねた顔を向けた。
「夏、はじまったばかりなんだよ。これくらいでバテてどうするの」
「おれ、東京の端っこで生まれ育ったけど、新宿とか渋谷の雑踏って苦手なんだよ。騒音とか人ごみに圧倒されて、立っているだけで疲れる」
そして、オーブンにでも放り込まれみたいな激しい暑さ。ビルの谷間からのぞく空はぞっとするほど青く、終末的なものさえ感じさせた。
「だって映画が観たかったんだもん。車で出掛けるのも楽しいけど、たまには新鮮でしょう。こういうのも」
新鮮などころか気が滅入るばかりだったが、ぼくはなにも言わず曖昧に肯いた。これだけ人が集まっているのなら、たいていの人にとってはこの混雑も許容範囲内ということだ。ぼくが偏屈なだけなのかもしれない。
「どこかで冷たいものでも飲もう」
このまま街を歩き回る気にはなれなかった。背中の汗が鬱陶しい。Tシャツが貼り付いて、不快指数がじりじりとあがった。
ぼくとは対照的に、沙希の足取りは軽かった。まるで春先の高原にでもいるかのように、一歩先をリズミカルに歩いている。沙希の耳には、品のない街の騒音も届いていないようだった。
彼女は、通りすがりの女性のパンツが可愛いとか、いま着ている服にあのショーウインドウのサンダルは似合うと思うか、などと言っていた。ぼくはだるい体を引きずりながら、なんとか形のある言葉を寄せ集めようと努力した。
「そんなことを考えているうちに、いずれ夏は終わっちゃうんじゃないか。そして秋になれば、また同じことを考える。結局のところ、ファッションは想像して楽しむものなんだよ」
「だからさ、一緒に想像してって言っているんだけど、私」
それもそうかと反省はしたものの、通りすがりの女性がはいていたパンツはどこかに消え、ショーウインドウのサンダルも通り過ぎてしまっていた。ぼくにはそれらの色や形に対する記憶がないから、想像するにもすでに手遅れだった。
「じゃあ、次からそうするよ」
沙希は、次からそうしろよと言って笑った。
やがて靖国通りから何本か路地を入ったところに、こぢんまりとしたカフェを見つけた。店内にいる人たちは、クルーズ船に乗っているみたいに涼しげにお喋りをしている。その姿に誘われてなかに入ると、ほどよく冷房がきいていた。ぼくたちは、いちばん奥のテーブルに座った。
「文也はなにを頼む?」
「とにかく氷の入った飲み物なら、なんでもいい」
メニューも見ないで、ぼくは答えた。
「たとえば、どんなもの?」
「アイスコーヒー」
沙希は水を持ってきたウエイターに、アイスコーヒーをふたつ頼んだ。いつもはぼくのほうが注文を沙希に確認しているのだが、その店に入ったときは熱中症の数歩手前にいて、飲み物を決める意思さえ猛暑に溶かされていたのだ。
アイスコーヒーを飲んで、なんとか気力と体力を回復すると、ぼくたちはさっき観た映画について話し合った。といっても、ぼくはたまにハリウッド作を観るくらいで、評論ができるほど映画に詳しくもないから、感想を述べるとしてもふたつしかない。つまらないか、面白いかのどちらかだ。
「なかなか面白い映画だった」ぼくは言った。「ヒューマニズムものはあまり観ないけど、たまにはいいな。ちょっと感動した」
大ヒットしたわけではないが、映画はまずまずの出来といえた。家族の交流を描いたもので、ラスト近くになると館内ではすすり泣く声が漏れていた。つくり方も丁寧だったし、何年かすると、あれはいいストーリーだったなと思い返すこともあるだろう。
「また行こうね。こうして二人で外を歩くのも楽しいと思うし。それにさ、街歩きってわりと運動になるんだよ。車に頼ってばかりいると、足腰が衰えちゃうんだから」
「運動になるのは悪くないけど、今度はもう少し涼しい日がいいな」
沙希はテーブルの反対側から手を伸ばし、ぼくの鼻をつまんだ。たぶん少しは話を合わせろという意思表示なのだろう。
ふだんのぼくたちは、車に乗って休日を過ごしている。通勤以外で電車に乗ることは、滅多にない。なぜなら、ぼくが人ごみを苦手にしているからだ。でもこの日は、沙希が上映終了間際の映画をどうしても観たいというので、電車に乗って新宿に出てきた。運転席と助手席以外のシートで、お互い隣に座るのは久しぶりのことだった。沙希はいつも運転させているからと、ぼくの分の映画代も払ってくれた。
「ところでさ、おれ明日伊豆に行く用事があるんだ。じいちゃんの頼みで、向こうにいる叔父さんに会わないといけない」
業務報告のようなつもりで、ぼくは沙希に明日の日曜の予定を告げた。
「おじいさんの? 伊豆に叔父さんがいるなんてはじめて聞いた」
ストローをグラスのなかでかき回しながら、沙希が言った。氷がカラカラと澄んだ音を立てていた。
「親父の弟なんだよ。子供の頃は一緒に住んでいたから、叔父さんというより兄貴みたいなものなんだ。年齢も十歳ちがいだし、タラちゃんとカツオくんみたいな関係かな。コウちゃんって、おれは呼んでいたんだ。でもちょっとした事情があって、ずっと音信不通でさ。会うのは七年ぶり」
「へえ。じゃあ、十七歳のときから会ってないんだ。ねえ、おじいさんは元気になったの?」
沙希に訊かれてはじめて、自分が余計なことを話しているのだと気がついた。ぼくが明日コウちゃんに会いに行くことは、沙希が知らなくてもいいこと、というよりは積極的に教える類のものではない。きっと映画の家族ドラマに触発されたのだろう。本音をさらすと、ぼくは明日コウちゃんに会うのが憂鬱でたまらなかったのだ。
「うん、まあ。じいちゃんは、自分でも悟っているよ。だから家に戻ってきたんだ」
ぼくがじいちゃんの余命が短いことをほのめかすと、沙希ははっとした顔をして口に手をあてた。