瞬きのしじまに
野辺地の駅舎を出た一両の汽車は白煙をあげながら青森湾を沿い北へ向かう。パラパラと落ちる雨粒が必死に車窓へしがみつこうとするが力尽きて流されて行く。この雨もじきに雪へと変わるだろう。雪は辺りの村を覆い、容赦なく吹き付ける浜風がそれを巻き上げ地吹雪とな
って辛抱強く春を待つ村人をあらゆるものから隔絶する。痩せた北辺の土は実りが少なく如何に励み耕せど冬を越すには心細い。男は出稼ぎし、女は内職を熟しながら細腕で雪を凌いで家を守るのだ。僕はそんな村に育った。そしてそれから逃げ出したのだ。
汽車に設えた薪ストーブが大きく爆ぜて、それにつられて目を向けると四十を越えると思われる女二人がストーブにのせたにぎり飯を返しながら楽しそうに話している。それを聞くにつけて、あぁこれが国の言葉だとしみじみ思う。
社内を見回すと後方に軍人がひとり座っていた。恐らく大湊の軍港に向かうのだろう。目が合うと畏れ多くも彼は礼をするではないか。僕の身成にどこぞの紳士とでも思ったのだろう。僕は猪口帽に銀筋の眼鏡。綾の背広にフェルトの外套を着こんでいた。騙されてはいけない。僕はこの先の駅員もいない無人駅で降りる貧しい寒村の出だ。この服だって一張羅さ。見てくればかり恰好つけるつまらない男なのだ。
雲は依然として鉛の様に厚く、まるで僕の心を現している様だ。悲しみだろうか。いや、そんなもの当に枯れ尽くしてしまった。僕は根を失った。芯が抜け空洞になったその身をこの汽車に乗せたのだ。母の訃報は僕が生きがいとすべき根を全て断ち切ってしまった。
駅に降り立ち歩を進めると、ぽつりぽつりと寄り添っている茅葺の向こうに白波を立てて荒れる海が見える。いよいよ風が強くなりその冷たさに目を細めていると長年の風雪で屋根が歪んだ我が家に着いた。軋みを上げた引き戸を開くと土間特有の饐えた臭いが漂う。中央に四畳半程の板の間を立てておりその上に畳を敷いている。そして母は既に骨箱に納まって卓に置かれていた。僕はそれを包む白布を摩る。
「かあさん」
散々の親不孝を重ねた上、末期の時、手を握り髪さえ摩ってあげる事もできなかった。
声も無く込み上げる涙が頬を伝う。見回すと幼い頃の思い出が甦ってきた。片栗粉にお湯を注ぎ砂糖をまぶしたお菓子。浜にあがった海藻も当たり前の様に食べた。今思えばどれ程貧しかったものか。母は雑貨屋の仕事が終わると、晩には幼い僕を連れて村役場の掃除をした。哀れんだ職員が机の上にパンを置いてくれたものだ。僕はそれに被りつきながら掃除する母を眺めていた。
親類が粗方片付けたのか生活感がない。僕は思い立ち、板の間の板を一枚外した。母は貴重品をそこに入れていたのを思い出したのだ。大事に包まれた幼い僕の写真。そして細々と僕が仕送りしていた通帳。記帳は毎回振り込みした直後にされていた。僕は滅多に手紙など書かなかった。きっと母は記帳する事によって僕の安否を確認し安堵していたのだろう。それなのに一銭も引き落とされていないのだ。馬鹿だなぁ。いや馬鹿なのは僕だ。
母さんを抱いて表に出ると浜風が乱暴に帽子を吹き上げた。海は無言のまま広がり、時折鋭い白波を見せる。
「僕なりにがんばったんだよ」
絞り出した弁解の言葉は波音に紛れて消えた。
砂を踏締めると、眼前の海はゆっくりとそして大きく隆起を繰り返す。盛り上がったその黒い塊を見上げ思わず向かい風を呑み込んだ。ふと確かめる様に振り返る。砂浜に見える小さな家。砂と戯れる僕を見て笑う母。僕はその瞬く程のしじまに救われたのだ。そしてそれは轟音と共に僕の視界から消えた。