【BNSK】2016年9月品評会 
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ルチアーノ・カヴァルカンディ
茶屋
投稿時刻 : 2016.09.25 23:43
字数 : 3738
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ルチアーノ・カヴァルカンディ
茶屋


2015.3.14

 知人であるフデリーゴ・ボルジアが殺人鬼に関するモキメンタリーを撮影するという話を聞いた瞬間、ある着想に魅了され気が付けばそのことばかり考えるようになていた。ふと湧いてきたものではあるがそれは私の好みに合ていたし、そのモキメンタリーに登場する殺人鬼の設定はその着想を補強するかのような性質を持ち合わせてもいた。最初はその着想を弄ぶだけで興奮していたものの、生来の己の執着性に対する不信感からすぐ飽きるだろうという予測をたて衝動的な行動には制限を掛けていたのだがその着想の支配度が一週間を超えて私の思索行為の大半を占める事態が続いたために私は決心したのだ。本来これは私の職分としては明らかな専門家に対しての不遜であり、また個人的な趣味の行為としても異例な事態であた。しかしながら私はその衝動を抑えることもできずにフデリーゴに電話した。
「モキメンタリ―の撮影ドキメンタリーを撮影させてくれないか?」と。

2015.3.27

 フデリーゴが「俺はOKだが一応権利関係を確認しとくよ」と返事をくれてから一週間以上過ぎて正式な許可が下りた。素人ドキメンタリーには何が必要だろうかと相談してみると最低限ビデオカメラがあればいいと言う。ビデオカメラは持ていないがそれだけで済むならと安心していたのだが話が進むうちに周辺機材やらソフトが次々と追加されていき当初見込んでいたよりもかなり大きな予算になた。それでも衝動に揺らぎは見えなかたので決心をする。貯金の修復には時間がかかりそうだが仕方があるまい。

2015.4.2

 私がモキメンタリーのドキメンタリーという着想に支配された理由はもともと多層的な構造の物語が好きだたからだろう。もともとメタ小説や実験小説、ヌーロマンといたジンルに大きな興味を抱いてきたし、視点を幻惑するようなトリクアートのような魅了される性分なのである。だから今回はフイクである記録映像の撮影風景を記録映像という奇妙な構造に大きな魅力を感じたわけである。わけである、と言たが果たして理解してもらえるだろうか。恥ずべきことに未だうまく言葉で説明することはできないでいるが、兎に角私にとては魅力的なのだ。
 さらに魅力的なのがモキメンタリーの主人公である殺人鬼は己を作家であると思い込んでおり、殺人鬼という性質はその作中に登場する登場人物を緻密に描写するために実際に殺人鬼を演じるという設定なのである。
 なんという多重構造。
 なんという眩暈。

2015.5.5
 
 ついにクランクイン。記録映像の撮影を開始する。

2015.5.7

 殺人鬼の名前はルチアーノ・カヴルカンデ。それを演じるのもルチアーノ・カヴルカンデ。もともと脚本において殺人鬼の名は異なるものであたが、主演のルチアーノが役柄に入り込むために頼み込んで己の名前と同名に変更してもらたのだ。恐るべき執念である。売れてはいないが劇団では役柄を演じ切ることで定評がある役者らしい。確かに先日初めて出会たとき、彼の目を見て鳥肌が立た。

2015.5.25

 ルチアーノの自宅でインタビ。夕食にルチアーノの手料理をご馳走になる。
 型通りのあいさつと料理についてお世辞交じりの素人寸評をお披露目したのち、いささかほろ酔いの気分で私は基本的な質問をする。
 なぜこの役を引き受けたのか?
「もともとフデリーゴがシル系のコメデをやていた時からの付き合いだけどこれといた特別な意味はないよ。なんでもやてみるのが信条でね」
 今回の役についてどう思う?
「殺人鬼については別の世界の人間だと思てたんだけどね。脚本を最初呼んだ時も異質な人間だと思たんだ。でも、段々と共感する面も出てきたんだ。意外と普通の人間じないかてね。だて、何かにこだわりを持つことは世間的にそんなに悪いこととは思われてないんじないかな。何か、が世間的にどう評価されているかによて変わてくるだけで、役者にこだわて探求をする僕とはあまり変わりがないんじないかな?」
 役作りは何か?
「いろんな殺人鬼に関する本を読んだよ。死体を加工して工芸品を作たエド・ゲインやら、道化師に扮して子供たちに人気のあたジン・ゲイシーとかね。ま、面白かたし参考にはなたんだけど、何か足りないて感じたね。自分でも試してみたけど今回の役とはちと違うんだ」
 試してみた?
「そう。ちうど今日。人は殺していないけど、ペトで飼ていた猫をね。さきのソテーだよ」
 私が真青になたのを見てルチアーノが噴き出す。
「冗談だよ。冗談」

2015.6.19

 最初の殺人シーン(ルチアーノ自身の最初の殺人ではない。あくまで構成上の)。ルチアーノは被害者を追い、カメラがルチアーノを追う。そしてそのカメラを私が追ている。ルチアーノが振り下ろした鈍器が鈍い音を奏でた気がしたが実際にそんな音はしない。そういう音は後から追加される。ルチアーノは慣れた様子で被害者に意識がないことを確認すると車をまわしてきてトランクに乗せた。モキメンタリーという構造なので、カメラは助手席に乗り自宅に向かて運転するルチアーノにインタビをしている。
 何歳から殺人を?
「16かな? いや、まだ15だたかも。でもあれはノーカウントかな。ただ殺しただけだし」
 ただ殺しただけというと?
「あの殺しには思想がなかた。殺したというよりぶつかたらたまたま壊れてしまたようなものだよ」
 しばらく脚本通りのインタビが続いたり、アドリブが混ざたりしているうちにドライブは終わり自宅の地下室に被害者を運ぶ。
 そして殺人は始まる。この時点で被害者は死んでいない。

2015.7.5

「殺人を異常欲求や幼少時のトラウマのせいにするのはうんざりなんだ。フロイトが嫌いなんでね」
 コーヒーをいれてくれたフデリーゴがそんな風に語りだす。
「殺人はもと単純でシンプル。犯人や司法、野次馬は理由づけしたがるけど。もと深い理由があるはずだ。もと深くだ。もと深く、ああもてな具合にね」
「だけどルチアーノはそうじないんだね。もちろん欲望といえば欲望だけど」
「もと浅い欲望なんだ。浅くて、崇高じない。テペーパーを丸めてすごいフアを作うような。マチ棒で高層建築の模型を作うような。楽しいからやてるていう以外に理由がない」
「でも彼はそれを思想て言ている」
「そこは我々の理解を拒むための要素さ。決して殺人に対して崇高な理由づけをするためのものじないんだ。殺人によて思想を表現してるわけじないし、ましてや何かのメタフない。あれは思想そのものなんだよ」
「殺人は私たちにとて身近でありながら理解不能なものであり続けなければならない」
「そう思ていた時期もあるけど、違うかな。これは一種のコミニケーンの試行錯誤だから」

2015.9.20

「これは思想そのものだね」
 そういいながらグローブをはめるルチアーノはいささか気恥ずかしそうだ。
「思想は内面で構築されるものじなくて、外面で組み立てるものなんだ」
 ルチアーノが拳を繰り出すと蠢くサンドバクの中からはいそう強い悲鳴が聞こえてくる。そんなことはお構いなしに、調子が乗てきた彼はジブやブロー、ストレートにローミドルハイのキクを繰り出していく。
 悲鳴と打撃音の音楽は淡々と地下室に響く。
 彼は興奮しているが、性的な興奮を覚えているわけではない。
 彼は思想を繰り広げている。
「殺人手法自体が思想てわけじない。むしろ過程のほうが大事だ。でも、思想のためにはそのツールも肝心なんだ。思索のためのツール、それが殺人手法てところだね」

2015.10.9

 猫が見つからない。

2016.1
 
 ルチアーノがある提案をする。ルチアーノがカメラを持ち撮影班を撮影するというものだ。撮影現場のスタフに気さくに挨拶をしながら、撮影をしている。エンデングに使用する予定らしい。

2016

 ルチアーノは三人いるが多重人格ではない。役者のルチアーノ、作家のルチアーノ、殺人鬼のルチアーノ。
 だが、ルチアーノの思想は他の二人を殺してしまた。
「結末が見えないんだ。なにかしらのオチはつけなければいけないような気もするけど。殺人だからね。例えばルチアーノの人格が撮影者にも侵食していくとか、作家ルチアーノの作品との円環性だとかね。だけどモキメンタリーにふさわしくないし、そんな陳腐なオチはルチアーノには似合わない。またく彼はこの作品まで殺そうとしているようだよ」
 フデリーゴはルチアーノにとりつかれてしまている。時折冗談めかして「ルチアーノを殺すしかないかな」なんて言てしまうほどだ。
 まだ、オチは見つけられないでいる。
 凡人の理解に及ばないものを凡人が描写しようとするにはやはり限界がある。ある意味ではルチアーノを殺すしかないのだ。彼が一人立つ高みから、凡人の理解の領域へ無理やり引きずりおろして、トラウマと異常な欲求に苦しむ殺人鬼と看板を張り付けるしかないのだ。

 我々は我々の手でルチアーノを殺すことにした。
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