肉小説
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生きるために食べなさい
投稿時刻 : 2017.02.07 22:55
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生きるために食べなさい
三和すい


 シズリが狩りをするのはいつも朝か夕方だ。この砂漠で多くの生き物たちが姿を現す時間だからだ。
 もう少しすれば空は紫色に変わり、夜が来る。シズリの褐色の肌を突き刺すような昼間の陽射しは消え、骨にまで染み込むような寒さがやてくる。
(その前に、何か仕留めなければ……
 シズリはもう三日も食べていなかた。まだ耐えられるが、これ以上空腹が続けば体の動きが鈍る。そうすれば狩りが失敗する可能性が大きくなる。今は独り。お腹が空いて動けなくなれば、そのまま死ぬしかない。
 岩陰に身を隠したシズリは周囲を注意深く見回す。見落とさないよう目を凝らし、気づかれないよう息を潜め、どれぐらいの時間が過ぎただろうか。
 赤く染まり始めた砂の上に、動く黒い点を見つけた。
 虫の影だ。
 たいていの虫は体が白く、白い砂で覆われた地面の上では見つけにくい。だが、今は夕方。沈みゆく陽の光に照らされて白い砂の上に黒い影が伸びる。
 すぐに動かなかたのは、虫までの距離がややあたのと、虫が細長い三本足だたからだ。あれはツエツキだ。食べられる虫の中では大きい方で、シズリの頭ぐらいある。動きがそれほど素早くないので母さんがよく狩てきたが、苦みがあるその肉の味をシズリは好きになれなかた。母さんはいつも自分の分よりも多い肉を食べさせてくれたが、獲物がツエツキの時だけは「もうお腹いぱい」と嘘をついて残そうとし、何度も母に怒られた。
『次にいつ獲物が捕れるかわからないのだから、食べられる時にしかりと食べなさい』
 母は優しかた。
 毎日シズリの黒い髪を指で丁寧に梳かしてくれたし、眠る時はいろいろな話を聞かせてくれた。夜の闇と風の音が怖くて眠れない時は、シズリをしかりと抱きしめてくれた。ねぐらにしている洞窟の壁に一日一個だけ小さな傷をつけ、それが三十個になるとうれしそうにシズリを抱きしめ、三十個の傷が十二回分たまり季節が一巡りすると『大きくなたわね』と涙を流して喜んでいた。
 けれど、獲物を捕ることと食べることに関しては厳しかた。
 食べられる生き物の見分け方、獲物の取り方、捕た獲物の食べ方、獲物の肉を長く保存しておく方法……その他にもいろいろなことをシズリは母から教わた。
 おかげで、狩りに出かけた母が戻らなくなてから壁の傷がたくさんたくさん増えても、三十個の傷が三回分たまり季節が移ても、シズリは何とか独りで生き続けることができた。
 けれど、そろそろ限界だた。
 ここのところ獲物が捕れず、保存していた肉もなくなた。
 あの虫を、ツエツキを食べなければ、生きていくことは難しい。
 狙いを定めてシズリが岩陰から飛び出そうとした時だた。
 ツエツキの近くの砂地が、弾けた。
 白い砂が飛び散り、砂の中から赤い殻に覆われた生き物が姿を現した。大きな口を開け、ツエツキを丸呑みにしようと長い体をくねらせながら襲いかかる。ツエツキは驚いたように三本の脚を素早く動かし、食らいつこうとする生き物の口から逃れる。
 そのまま逃げていくツエツキを、赤い殻の生き物は追いかけようとしなかた。シズリの倍ぐらいありそうな長い体を起こし、両脇から十本ほど生えた小さな脚を震わす。指の形によく似た細い脚の一本が触手か鞭のようにシと伸び、ツエツキの白い体に巻き付いた。ツエツキは三本の脚を激しく動かしてもがくが、ズルズルと引き寄せられていき、赤い殻の生き物の口に放り込まれた。
 その場でツエツキを咀嚼する生き物を、シズリは茫然と見つめた。
 初めて見る生き物だた。赤い殻で体を覆われた生き物はこの辺りには多く棲んでいる。けれど、シズリより大きな生き物は初めて見た。シズリの母が獲てきた獲物でもここまで大きい生き物はいなかた。
(もしかして、あれがヌシなのか?)
 同じ場所に長く棲み続けている生き物――それがヌシだ。
 長く生きているのは、他の生き物を獲て食べ続けたから。
 体が大きいのは、他の生き物に食べられることなく今まで生き続けたから。
 そして、同じ場所に棲み続けられるのは、獲物が捕れる自分の縄張りを他の生き物から守れるほど強かたから。
 つまり、この辺りで一番強い生き物だということ。
 母が聞かせてくれた物語にたまに出てくるヌシがこの辺りにもいるのではないかとシズリが気づいたのは独りになてからだ。獲物を求めて歩き回ていた時に、何度か食いかけの死骸を見つけたことがあた。まだ食べられる部分があるにもかかわらず放置されていることを不思議に思いながらも、シズリは残された肉や内蔵を食べた。それを食べていなければ、シズリは今生きていなかただろう。
 いたいどんな生き物が食べ残していたのかと思ていたが、あの赤い殻に覆われたヌシがそうなのか?
 初めて目にした生き物に、シズリの心は不安で覆われていく。
(アレを倒せるのか?)
 ツエツキはもういない。ヌシが食べてしまたから。
 このままここに潜んでいても、他の獲物を見つけられるとは思えない。
 そして、もうすぐ夜が来る。空腹を抱えたまま一晩を過ごした後に、狩りができるほど体が動くとは限らない。
 あのヌシを食べなければシズリは死ぬかもしれない。
 けれど、シズリは自分よりも大きな生き物と戦たことがなかた。戦て倒せると思えるほど自分の腕に自信が持てなかた。

『相手をよく観察しなさい』

 シズリの頭に、母の言葉がふいによみがえた。狩りについて教わていた時に、母に何度も言われていたことだ。
 ゆくりと大きく息を吐いて呼吸を整え、シズリはヌシを見つめる。
 シズリの二倍ぐらいありそうな大きな体に、分厚そうな赤い殻。殻にいくつもの継ぎ目があるのは、胴をくねらせて移動するからなのだろう。殻の表面にはいくつも傷がある。細かい物がほとんどだが、背中に大きな傷跡が一本。すでにふさがているが、まわりよりも色が薄く、そこだけ模様か何かのように赤い殻の表面に浮き上がて見えた。
 伸縮するように動いていたヌシの頭部が止また。赤い殻で覆われた体を大きくうねらせ、ヌシが動き出す。
 口の中で噛み砕いていたツエツキを食べ終わたのだ。ヌシがふたたび砂の中にもぐれば、シズリには手が出せなくなる。
……やるしかない)
 シズリは岩陰から飛び出した。素足の裏で砂をしかりと踏みしめ、白い砂の上を駆け抜け、背を向けているヌシとの距離をあという間に縮める。
 走りながらシズリが右手の鞭を振るおうとする前に、ヌシが動いた。
 シズリの方に体を向け、触手をシと伸ばしてくる。
 慌てて横に飛んだシズリは、砂の上を転がりながら何とか触手を避けた。
 ヌシの動きは予想していたが思たよりも速かた。大きな体なのでもと動きが遅いのかと思ていたが、鞭で一撃を与える前に気づかれたのは予想外だ。
 そう言えば、前にシズリの母が言ていた。たいていの生き物は襲たり襲われたりした時は動きが速くなるものだと。だから気をつけなさいと言われていたのに……
 唇をかみしめながら起き上がろうとするシズリに、ヌシの長い触手が次々と襲いかかる。砂の上を這うようによけ、いくつかは左手の装甲で受け流す。最後に伸びてきた触手は右手の鞭ではじき返したが、やわらかそうに見えたヌシの触手に傷跡がついた様子はなかた。ツエツキぐらいの生き物ならシズリの鞭で切り裂くこともできるが、ヌシには通用しないようだ。
(どうする?)
 素速く起き上がりながらもシズリは迷た。下手をすればこちらが食われてしまうかもしれない相手だが、体が動く内に次の獲物を見つけられるとは限らない。ここで戦うべきか、それとも逃げるべきか……
 迷いにシズリの動きが一瞬止まる。
 そのわずかな隙に、ヌシが身をひるがえした。シズリに背を向けて砂の上を走り出す。
 ヌシはすでにツエツキを食べている。耐えきれぬほどの空腹でなければ、無理をして手強そうな相手と戦う必要はないのだろう。
「逃すか!」
 シズリは後を追て走りながら鞭をふるた。だが、これは攻撃するためではない。五又に分かれた鞭先の爪をヌシの体に引かける。引きずられる力を利用して、シズリはヌシの背中にまたがた。
 左手の装甲で相手からの攻撃を弾き、右手の鞭で切り裂くか、捕らえて短刀でとどめを刺すのがシズリの狩りのやり方だ。
 しかし、それが効かない相手にはこうするしかない。
 シズリは赤い装甲で覆われた左手を握りしめると、ヌシの背中を殴りつけた。ヌシの体を覆う赤い殻は硬い。殴ただけでは傷つけることさえ難しいだろう。だから、シズリはヌシの背中に大きく走る傷跡を狙た。周りの殻の色とは明らかに違う、治りきていない傷口ならば――
 二度三度殴り、四度目に拳を叩きつけた時に手応えが変わた。六度目で拳がズブリと傷跡に突き刺さり、シズリはそのまま装甲で覆われた左手をねじ込んだ。
 ヌシが身をそらし、咆吼をあげる。
 激しく体を揺らすヌシの背中に必死にしがみつきながら、シズリは左手をさらに深く突き刺した。ヌシの傷口から赤い体液が吹き出す。ヌシの体の長さはシズリの二倍ほどあるが、細長い胴体はそれほど太くない。内臓は、命に関わる臓器は、すぐそこにあるはず。
 何かをつかんで引きちぎり、また何かをつかんで引きちぎる。そして三度目につかもうとした時、シズリは背中から振り落とされた。
 ヌシの体液を浴びてぬれたせいで、砂地に放り出されたシズリは砂まみれだ。立ち上がて顔についた砂を乱暴にぬぐい、シズリはヌシを見つめた。
 ヌシの動きはすでに緩慢だた。傷口から赤い体液が流れ出す勢いも落ちている。砂の中に逃げ込むつもりなのか、弱々しく頭を持ち上げ、砂に顔を突込み、そこで動きを止めた。
 シズリは大きく息を吐くとその場に座り込んだ。体は痛みと疲労感を訴えていたが、心は妙に高揚していた。
(できた……私にもできた……
 独りでも自分より大きな獲物を仕留めることができた。それは、シズリが頑張たからだ。そして、母が狩りを教えてくれたから。
 にじむ涙をぬぐい、シズリは立ち上がた。
 母が教えてくれたことは狩りの仕方だけではない。獲物の肉を長く保存しておく方法もだ。仕留めた獲物は早く処理しないとダメなりやすい。少なくとも、処理が遅いと不味くなる。
 シズリが動かなくなたヌシの赤い殻に手をかけた時だだ。

「そいつは食べない方がいい」

 背後から聞こえた声に、シズリはハとしてふり返た。さほど離れていない場所に何者かがいた。頭からすぽりとフードを被り、口元しか見えない。ただ、体を覆う水色のマントには深い青色で複雑な紋様が描かれている。こういう服を着ているのはたいてい町に住んでいる者だ。そして、聞こえてきたのは男の声――だと思た。母以外の誰かと会うのは本当に久しぶりだたので、シズリには自信がなかた。
 町のヤツら、特に男には気をつけなさいとシズリの母は何度も言ていた。
 目の前にいるのは、町に住んでいる者で男だ。
 シズリは慌てて後ろに下がり男との距離を取る。逃げ出すこともできたが、倒したばかりの獲物を置いていかなければならない。それはできなかた。これを食べなければシズリは生きるのが難しくなる。
 どうするべきかと考えていると、男が口を開いた。
「そいつを食べれば混沌の浸食がさらに進む。そのままの姿でいたければ食べない方がいい」
(コントン? シンシク?)
 知らない言葉だた。少なくとも母が口にしていた覚えはない。けれど、食べない方がいいということは、
「これは毒なのか? 
 母から食べられない生き物を教わていたが、母は自分が知ていることがすべてではないと言ていた。そして、町のヤツらには気をつけないといけないが、ヤツらは物知りだとも言ていた。母が知らないことを町の男が知ていてもおかしくはない。
「これには毒があるのか? だから、食べられないのか?」
 男の様子を伺いながら、シズリはもう一度問いかける。もしかすると、嘘をついて獲物を奪う気なのかもしれない。
 男はすぐには答えなかた。考えるように少し間をおいてから口を開く。
「お前は、この世界の理が歪んでいることを知ているか?」
「大昔に魔女が世界に呪いをかけたと聞いたことがある」
 母が何度も聞かせてくれた物語にそういう話があた。魔女の呪いのせいで世界は歪み、多くの土地では生き物が住めなくなたらしい。大地が白い砂に覆われているのも、岩を砕くほどの雨柱が時々地面から吹き出すのも、変わた形の生き物が増えたのも魔女のせいだと母は言ていた。もとも、シズリが小さい頃から世界はこうだたので、歪んでいると言われてもピンと来ないのだが。
「そのとおりだ。魔女が世界の理を歪めてしまたため、この世界に住むすべての生き物は歪み――混沌を持つようになてしまた。混沌は食べても消えない。食べた者の中に残り溜まり続けていく。混沌を持た生き物をたくさん食べれば、その分だけ自分の中に混沌が溜まていく……
「コントンを食べた者はどうなるんだ? 死ぬのか?」
 いや、と男は首を横に振た。
「混沌に浸食された生き物を食べても死ぬことはない。だが、混沌は理を歪める。混沌を体に取り込んだ者は大きく歪んでしまう……お前の手足がそうなているのも、混沌により歪んだせいだ」
「これが?」
 伸び縮みするので鞭のように使ている右手。
 指先から肩まで赤い装甲に覆われた左腕。
 指が大きく三又に分かれた両足は、陽射しに照りつけられて熱くなた砂の上も平気で歩くことができる。
 シズリが覚えている限り、小さい頃から手も足もずとこの形だた。大きくなるにつれ左腕の装甲は広がていたし、右手の鞭も長く伸ばせるようになたが、それはシズリが大きくなたからだと思ていた。
 けれど、それはコントンを持た生き物を食べていたせいだたのか? 確かに、以前見かけた町の者は手に鞭も装甲もなかたが。
「お前が今倒したのは、混沌に深く浸食された生き物だ。それを食べれば混沌の浸食がさらに進み、お前はお前でいることができなくなるだろう」
「姿が変わるということか?」
「姿もだが、意識もそのままでいられるかどうかあやしい。混沌に深く浸食された者は、それまでの記憶を失たり、別人のように暴れて他の者を傷つけることもある」
 自分が自分でいられなくなる。
 それがどういうことなのか、シズリにはよくわからなかた。
 だが、コントンにシンシクされた生き物を食べても死なないことはわかた。右手の鞭も左手の装甲もシズリが生きるために大切なものだ。鞭がさらに遠くまで伸ばせるようになり、装甲が硬くなれば、もと狩りがやりやすくなるだろう。
 何より今のシズリには食べることが必要だた。
 そして、今食べられる物は、目の前に横たわる倒したばかりのヌシだけ。
 シズリはヌシの体の下に手を入れた。力を込めて持ち上げると、長細い体がごろりとひくり返り、ヌシの腹があらわになる。ヌシの腹も赤い殻に覆われているが、背中ほど厚くはなさそうだた。殻と殻の隙間に手を入れて、腹を覆う殻を剥いでいく。
 赤い殻の下には、引き締また褐色の肉があた。この辺りに住む生き物の中には体のほとんどが水分でできているものもいるが、これなら上手く処理をすれば長く保存できる。しばらくは食いつなげそうだと思いながらシズリが胸の辺りの殻を剥いだ時だた。
 突然、見知た印がシズリの目に飛び込んできた。
 黒い菱形の印。
 よく知たその印に、シズリの手が止また。
 何故この印がヌシの体についているのかわからず、シズリは茫然とする。
「そいつは奴隷の印だな」
 いつの間にかシズリの背後に男が立ていた。殻を剥いだヌシを覗き込んでいた男に、シズリはつかみかかるように言た。
「お前はこれが何か知ているのか?」
「これは奴隷の印だ。奴隷は皆この印を体のどこかに付けられる。逃げ出しても、後で見つけられるようにな」
「ドレイ? それは何だ?」
「自由を奪われ、誰かの持ち物として働かせられる者のことだ。大きな町の権力者のところには大抵いる」
「ドレイは、幸せではない?」
「だろうな。自由を奪われ、嫌でも所有者の言うことを従わなければならない。食べ物もろくに与えられず、時に気まぐれに命を奪われることさえある」
……人以外にも、ドレイはいるのか?」
「奴隷とは自由を奪われた人のことだ。同じ印を家畜などに付けることもあるが少ないな」
 シズリは目の前に横たわるヌシを見つめた。
 どう見ても自分たちとは違う姿をしている。だが、さき男が言ていた。混沌で歪んだ生き物を食べ続ければ、それまでの姿でいられなくなる、と。
「ここに住む生き物は、みんな人だたのか?」
「すべてではないが、そうだたものもいるだろうな」
…………これも、人だたのか?」
 シズリが何を指して言ているのか、男にはわかたはずだ。けれど、男は口を閉ざしたまま佇んでいる。
「町では死んだ者をどうしているんだ?」
「燃やしている。灰になるまで燃やし、砂の中に埋めている」
 死んだら灰になるまで燃やす。目の前に横たわるこれにそんなことをすれば食べることはできないだろう。
 シズリの体は空腹を訴えている。これを食べなければシズ生きていくことがで難しくなる。
(どうすればいい?)
 頼るべき母はもうどこにもいない。町の男はシズリを眺めるだけで口を開く気配はない。
 立ち尽くすシズリの頭に、

 ――生きなさい。

 母の声が響いた。

 ――生きるために食べなさい。

 小さい頃から母が何度も言ていた。生きるためには食べなければならない。食べなければ生きていけない。だから、どんなものでもしかり食べなさい、と。
 シズリは倒したヌシの前に屈み込んだ。あらわになた褐色の肉にかぶりつく。
 肉を食いちぎり咀嚼し飲み込むシズリの頭には、母の声がくり返し響いていた。

 ――生きなさい。
 ――生きるために食べなさい。

 それは小さい頃から何度も言われた言葉。
 久しぶりに独りで狩りに行くと言て出かける前にも言ていた。

 ――生きなさい。
 ――生きるために食べなさい。



 ――あなたは生きて、幸せになりなさい。



 そして、母は戻らなかた。










「これは何の模様?」
 小さい頃、シズリは一度だけ母に聞いたことがあた。
 母の胸元にある黒い菱形の印。それが、ケガの痣などではないことがわかる歳だた。
「ワタシもこの模様がほしい」
 大好きな母と同じ模様がほしい。
 シズリは単純に思たことを口にしたのだが、
「ダメよ!」
 悲鳴にも近い叫び声に、幼いシズリは顔をこわばらせた。さきまで母の顔に浮かんでいた優しい笑みが消え、シズリは戸惑た。ケガをするような危ないことをすれば母は怒る。つまり、今シズリが口にした言葉は危ないことなのか?
 わけがわからず立ち尽くすシズリを、母はハとして抱きしめた。
「ああ、ごめんなさい。あなたを怒たわけじないのよ」
 抱きしめたシズリの頭を何度もなでながら母は言た。
「あのね、母さんは昔ね、この印のせいで辛い思いをしたの。この印があると幸せになることができないの。だから、この印を欲しがてはダメ。こんな印なんて、ない方がいいのよ」
「印があると幸せになれないの?」
「そうよ。少なくとも私が生まれた町ではね」
「母さんは幸せではないの?」
「昔はね。今はあなたがいるから幸せよ」
「子供がいたら幸せになれるの?」
「どうかしら。何を幸せだと思うかは人によて違うから、子供がいて幸せな人もいるし、そうでない場合もあるでしうね」
「じあ、どうしたら幸せになれるの?」
 シズリは母が好きだた。だから、母のようになりたかた。母のように幸せになりたかた。
 大好きな母は優しく微笑んで言た。
「それは、あなたが見つけなさい。生きて、あなたが自身で見つけなさい」



 独りになてからシズリは何年も何年も生きた。
 けれど、シズリはまだ幸せを見つけられずにいる。
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