第38回 てきすとぽい杯
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四谷下町四畳半エレジー
投稿時刻 : 2017.04.16 23:54 最終更新 : 2017.04.17 02:20
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- 2017/04/17 02:20:42
- 2017/04/17 00:06:28
- 2017/04/16 23:54:52
四谷下町エレジー
白取よしひと


 枕元。煙草で針の山となた灰皿に、沈黙の狭間を埋めようと試みた新たなフルターが擦りつけられる。役目を果たせず終焉の時を迎えたその煙草は、それに相応しくよわよわしい煙を4畳半に舞い上がらせた。
 達彦は沈黙を破る努力すら放棄したのか。奥に置かれた蛍光灯スタンドの息の根を止め、仰向けに体を転じて暗い天井を見上げた。

―― はじめから分かていたのよ。あなたは離れて行く人だて。

 わたしはうつ伏せで肩を晒し、灯されていた名残で蒼白く光る蛍光管を、意味もなく見詰めた。盛期を過ぎた蛍にも似た淡いその光は、わたしの白い肩を朧に浮かび上がらせる。起きているのか、寝ているのか。達彦の横顔は動かない。その冷たい横顔を心底恐ろしいと思た。

―― ろくでなし!

 達彦は新しい女をここに連れ込んだ。女は図太いのか、何事も気にならない体で寝息を立てている。

―― 地獄だわ。

 わたしにとて、煙草で煙る四畳半は紅蓮の地獄そのものだ。     

 あくる朝。達彦は『外へ出かけよう』とわたしを誘う。微笑む顔は石の仮面。その仮面に殺意すら感じた。わたしは、達彦の言われるがまま、抱かれる様にして外を歩く。

 四谷三丁目。ラジオ局のある通りから外れ細道に入ると、そこは古くから家が立ち並ぶ小路となる。古くからの町並みで区画整理がされておらず、あちらこちらに袋小路があて見通しが利かない。
 道は左右を高いブロク塀で挟まれ、達彦のサンダルが『ピタリ、ピタリ』と虚ろに響いた。彼は何を考えているのだろうか。時折、首を伸ばしては辺りの様子を窺ている。

―― いよいよだわ。

 わたしはそう確信した。彼はわたしを抱いたその腕で、首を絞めるつもりなのか。わたしをおさえるその手のぬくもりは、死を予感させる凶器の感触だ。

「みや」

 彼はぽつりとわたしの名を呟いた。そして身を屈めると、わたしを一人その場に立たせ、自分は何を思たのか、空を仰いでいる。

―― 眩しい。

 彼に導かれ、空を見上げたわたしの瞳は痛みを覚えた。
 
 彼は突然立ち上がると踵を返し、一人この場を去て行く。わたしは次第に小さくなるその背中を見詰め続けた。くたびれた作業ズボンに半袖の白い肌着。見慣れた後ろ姿だ。
 達彦は振り返るだろうか。しかし、彼は一度も振り返らなかた。

―― あんたに未練なんかないわ。

 わたしは横に屹立したブロク塀を見上げた。立ち塞がり聳えるその塀は、あの四畳半の地獄を思わせる。

「!」
 全身の筋肉を収縮させ、気合と共に解放した。この身は地べたから離れ、矢の様に塀の頂点に向けて跳躍する。僅かに届かぬと見て爪を立てた。爪が軋む。ブロクがぼろぼろと崩れ落ちる。爪元と上腕、そして背筋に至るまでを収縮させ一気に全身を跳ね上げた。

―― わたしも『捨てたもんじないわ』。

 塀の頂点をそのまま駆け抜け、瓦屋根に飛び移る。瓦をしかりと四足で掴み空を見上げた。東京四谷の空は蒼い。けれども、どこか四畳半に煙ぶる煙草を思わせる。

 白猫(はくびう)は、空を眺め半眼となた目を路地に向けた。達彦の姿は既になかた。
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