てきすとぽい
X
(Twitter)
で
ログイン
X
で
シェア
「覆面作家」小説バトルロイヤル!
〔
1
〕
…
〔
9
〕
〔
10
〕
«
〔 作品11 〕
»
〔
12
〕
〔
13
〕
…
〔
17
〕
澱を掬う
(
ポキール尻ピッタン
)
投稿時刻 : 2017.07.06 13:45
字数 : 6032
1
2
3
4
5
投票しない
感想:1
ログインして投票
澱を掬う
ポキール尻ピッタン
(お題:不倫/
懊悩)
第一話
洗濯機の廻る音が、かすかに聞こえる。
鈍いモー
ター
音に重な
っ
て、ときおり金属を擦るような響きが混じり、それはかつて手術台で聞いた医療器具の音を連想させた。
まるで頭の中を施術されているみたい。
不意に浮かんだ、見送
っ
たばかりの夫の背中と、これから会うカレの無精髭。
ぐるぐると二人の顔がコー
ヒー
へ注いだミルクのように渦巻いて混じり合う。やがてそれは結晶となり、心の澱のようなモノにな
っ
て深くゆ
っ
くりと奥底へ沈殿していくのだ。
夫の嫌な部分、カレの嫌な部分。未来への不安と現在の不安。ついそんなことを考えてしまう自分の醜い心。
レントゲンを撮
っ
たら、き
っ
とわたしの心には薄
っ
すらとした黒い影が写
っ
ているはずだ。どんな手術をすれば、それは消え去
っ
てくれるのだろうか。
午前九時三〇分。家事の合間に居間のソフ
ァ
ー
で、こうしてもの思いに耽りながらコー
ヒー
を飲む。それがわたしのいつもの日課。
第二話
一〇代のころから卵巣の腫れに悩まされていた。良性腫瘍が両方にあると早くに判明していたのだが、まだ腫瘍が小さか
っ
たこともあり経過観察のまま何年も放置していた。
ところが二七歳を迎えて間もないある日、突然の激しい腹痛と腰痛がわたしを襲
っ
た。
腫瘍は八センチまで大きくなり、医者は卵巣の摘出を勧めた。
自分の身体を守るためとはいえ、子どもを産めなくなる事実はわたしの心に大きな傷を残した。
女としての自分の価値、そして未来。なにもかもを失
っ
た気がして、毎日が絶望と不安に圧し潰されそうだ
っ
た。
「結婚したらさ、週一回は美味しいもの食べに行こうな」
夢見がちなカレがうそぶく言葉は、永遠に来ない未来を隠すための戯言に思えた。ギ
ャ
ンブルが好きで上手い話に後先考えず飛びつくカレが、先のことなど考えているはずがない。
以前の自分だ
っ
たら、き
っ
と雰囲気に流されて一緒に笑
っ
ていただろう。
もう無理かもしれない。どす黒い塊が胸の奥でかたちになりそう。
「じ
ゃ
あ、いつにな
っ
たら結婚してくれるのよ。もう五年も待
っ
ているのよ」
「俺だ
っ
てち
ゃ
んと考えているんだよ。いいから、もう少し待
っ
ていろよ」
具体的な話を詰めようとすると、そう、いつも機嫌が悪くなる。
第三話
夫とは一昨年、知り会い、ほどなくして結婚した。
術後、精神が不安定にな
っ
たわたしを心配した会社の同僚が、無理に婚活パー
テ
ィ
ー
へ連れ出してくれたおかげだ。
ホテルの会場で、乗り気でない上にほとんど喋らなか
っ
たわたしに声を掛けてきてくれたのが、いまの夫だ
っ
た。
「昔から模型とか、ひとりで工作したり研究したりするのが大好きで、実はいまでも人とお話するのが苦手なんですよ。今日は同期の悪戯で勝手に申し込まれち
ゃ
っ
て」
製紙業会社の技術職だという彼は、所在なげな自分にシンパシー
を感じたらしく、ときどき思い出したかのように会話を挟みながら、ただぼんやりと最後までそばにいてくれた。
自暴自棄となりカレ以外の男性に抱かれたこともある。身体が目的でも誰かに必要とされるなら、自分の心は危ういながらも壊れずに済んだ。そんな他人にアイデンテ
ィ
テ
ィ
ー
を依存している自分だ
っ
たからこそかもしれない。
なにもせず一緒にいることで、不思議と存在のすべてが許されたような安心感が生まれた。
連絡先を交換し、わたしは後日、積極的に彼を誘
っ
た。そして何度も会話を重ね、自分の身体と心の問題も全部告白した。
「正直に言いますと、僕は女性経験が少ないので感情の機微とかに鈍感なんです。だからあなたが抱えている苦しみとかを、おそらく上手く理解してあげられないでし
ょ
う。ただ、あなたが澱と表現した正体の分からない不安、それについては、もしかしたら解決出来る手掛かりが掴めるかもしれません」
難しい顔で腕を組んだ彼は、まるで治療法を告げるお医者さんみたいだ
っ
た。
「澱は何度も沈殿を繰り返すことで純度が高まるんですよ。だから、辛いかもしれませんが、その不安を作り出す状況を繰り返すことで、正体が見えてくるのではないかと思います」
自分ではなくカレと一緒にいるべきだと勧められた気がして、わたしは少し涙ぐんだ。勇気を出して告白したのに、ようやく見つけた出口の扉が幻だ
っ
たような虚しさだけが残
っ
た。
「すみません。辛い思いに独りで耐えろと言
っ
ているわけじ
ゃ
ないのです。あなたの心が何度も壊れてきたと知り、僕は自分の気持ちに気づきました。あなたを支えたい。ひ
ょ
っ
としたらこの気持ちは、自分の技術屋としてのただの好奇心なのかもしれない。でも、そばにいたいと思
っ
ているのは、本当の気持ちです」
「本当ですか? 本当に、わたしのそばにいてくれるんですか?」
自分でも呆れるほど取り乱していた。心の底の黒い澱が急に広が
っ
てわたしの足を掴もうとしている。そんな恐怖が救いを求める気持ちを急き立て、テー
ブルの向かいの彼へ思わず手を指し伸ばした。
わたしの手のひらを両手で優しく包んだ彼は、微笑みを浮かべたままカウンター
の店員へ顔を向け軽く会釈した。
注目を浴びている状況に気づいたわたしは、慌てて彼から手を放し腿の間に挟んで下を向いた。
「ごめんなさい。気持ちが溢れてくると、自分ではもうどうしようもなくて」
「大丈夫ですよ。そのために僕がいるのですから」
適当に慰められたと感じたのは、まだこの人を信じていない証拠だと思
っ
た。信じていないのに、自分のために利用しようとしている。わたしは自分が思うよりも、き
っ
と傲慢なのだろう。
「澱を感じるには、カレとも会い続ける
っ
てことになりますけど」
意地悪なわたしは彼を試した。
「正直、嬉しくはないです」
一生懸命に作
っ
たであろう彼の笑顔は目尻が力なく下が
っ
ていた。
「でも、いまは仕方がないとも思
っ
ています。僕にと
っ
て、あなたはとても魅力的な女性だから、ず
っ
と一緒にいたい。子どもだ
っ
て自分は次男ですし、まあいいかな
っ
て感じです。男の自分が言うのは変ですが、あなたの港になりたいんです。そしていつか、その彼氏からあなたを奪
っ
て僕だけのものにしたい」
話しながらプロポー
ズをしていると気づいたのか、彼はバツが悪そうに頭を掻いた。
「あなたにと
っ
て、いまは都合がいい男でもいいのです」
屈託なく笑
っ
た彼は小さくお礼を返したわたしをしばらく見つめると、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「ひとりで暮らすには、いまのマンシ
ョ
ンはなんだか広過ぎます。僕のそばで、いつか本当の妻にな
っ
ていただけますか?」
この半年後、わたしは形式上、彼の妻とな
っ
た。
友人から見れば、わたしは放任されているらしい。月二回、夫と違う男に会
っ
て夜を過ごしているのだから、確かにその通りなのだろう。しかしカレと会
っ
たあと、わたしは夫から毎回サイコセラピー
のような尋問を受けるので、実際は束縛されているようなものだ
っ
た。
まずカレと会
っ
てから別れるまでのすべての行動を口述する。夫はそれを、駅、レストラン、ラブホテルなどと場所ごとに分けてメモをする。さらに誰が料理を注文したとか支払いはど
っ
ちとか、さらには行為の流れはどうだ
っ
たとか、偏執的なぐらい細かく区分し書き留めた。
「大事なことだから、正確にね」
手術を勧めた医者みたいに冷静で、なにかを研究する人はこれほどまでに対象へ情を込めないのかと、冷めた心に妙な感心が浮かぶ。
わたしはただの研究対象なのだなと思い至
っ
たある日、カレとは別の黒い澱が生まれつつあることに気がついた。
細かい出来事に対し、わたしがカレに感じた思いを夫は未来への不安と分析した。先が見えない恐怖が黒い澱にな
っ
てわたしを縛
っ
ているのだろうと解釈し、カレと完全に別れて自分だけを選べば、その不安は消えるはずだと楽観的に考えていた。
わたしは密かに夫と同じやり方で、新たに生まれた澱について考えた。夫との会話、家事に夜の行為。思いつくすべてを箇条書きにし、そこに自分の思いを書き足した。
わたしは夫にと
っ
て女ではなか
っ
た。わたしは女でいたか
っ
た。
自分でも傲慢に思えるほど、現在が不安だ
っ
た。
第四話
二週間ぶりに会
っ
たカレは上等そうなスー
ツを着込み、似合わない分厚い金のブレスレ
ッ
トを身に着けていた。短髪を綺麗に整え髭の剃り残しもなく、一見すると成功した若い経営者のように映る。しかしそんな身なりの割に店員に横柄な言葉遣いをする悪い癖は相変わらずなので、わたしは恥ずかしくてつい俯いてしま
っ
た。
「最近さ、地元の先輩がいい仕事を紹介してくれて儲か
っ
ているんだ。この調子なら、お前のことも余裕で面倒みられるからさ、安心して離婚しても大丈夫だから」
わたしの心がいまだ自分に向いているような口振りでカレは話し始めた。わたしがどんな思いで夫を求め、結婚した理由など、この人はいままで一度も考えたことがないのだろう。
「そうなんだ、頑張
っ
ているんだね。どんな仕事なの?」
離婚については無視を決め込み話の先を促した。いい加減なカレが仕事を続けられるなんて、それはそれで素晴らしいことだから。
「たぶん聞いたことがあると思うよ。結構有名な会社だからさ」
得意げに披露された会社をわたしは確かに知
っ
ていた。それは悪い意味での知名度が充分過ぎるほどにある、マルチ商法の会社だ
っ
た。
「え、ごめん。知らない。どんなことをや
っ
ているの?」
「例えば化粧品とかで、誰もが欲しがるけど流通量が少ない商品があるとするじ
ゃ
ん。普通はなかなか手に入らないんだけど、うちの会員になれば優先して買うことが出来るんだよ。俺はいろんな人にそういう商品を紹介する仕事をしているんだ。まあ、簡単に言えば営業だね」
大袈裟な手振りで語るカレは自分に酔
っ
ていて、わたしの強張
っ
た表情に気づく素振りも見せずに話を続けている。
「いま会員になれば
っ
て言
っ
たけどさ、ここだけの話、家族や身内の人にも提供できるんだぜ。さらに安い価格でね。当然、お前にもね」
わざとらしいウインクに苦笑しただけなのに、カレはわたしが喜んだと勘違いしていた。
「前に言
っ
ていた、黒い澱のようなものだ
っ
け? 実はそういう心の不安にも効果がある商品があるんだ」
一瞬、夫に感じている不安に勘付かれた気がして思わず息を飲んだ。そんなわたしの様子を眺めていたカレは興味を示したポー
ズだと解釈したらしく、不敵な笑みを浮かべて後ろ手にバ
ッ
グへ手を伸ばした。
かつて訴えた不安の原因を、いまだに自分のことだと捉えていないカレに呆れ、なんだか泣きそうにな
っ
てくる。
「わたしがず
っ
と、ず
っ
と抱え続けた黒い澱を拭い去るなんて、そんなの、できるわけないじ
ゃ
ない」
「それができるんだよ」
軽い音を立ててテー
ブルに置かれた小箱は、夫の会社から発売されたばかりの新製品だ
っ
た。
「このドライワイパー
一〇〇Mなら、どんな汚れでも拭き取ることができる」
「本当に? わたしが使
っ
ているキ○ワイプS二〇〇と比べてなにが違うの?」
「もちろんキ○ワイプは優れた製品です。加工精度も然ることながら、紙製であるのにもかかわらず毛羽立ちがない。わずかな埃も避けたい場所には最適だと言えます」
「じ
ゃ
あキ○ワイプで充分じ
ゃ
ないの?」
「まずはこれをご覧ください」
(キ○ワイプとドライワイパー
の立毛層繊維密度表を画面に合成する)
「不織布ながらもドライワイパー
はキ○ワイプと遜色ない立毛密度を実現しました。これは毛羽立ちのなさを意味します」
「キ○ワイプと同じなら、お値段次第では迷いますね」
「まあ、待
っ
てください。実はこのドライワイパー
、優れた特徴はこれだけではないのですよ」
(ドライワイパー
の断面図を分かりやすくイラストで表示)
「当社の技術が、ウエスの常識を打ち破ることに成功しました。いままでと同じ薄さで、この三層構造。見てください。不織布に挟まれた高分子吸収体が従来製品と比べて二倍の汚れを吸い取
っ
てくれるんです」
(歓声と拍手をオー
バー
ダビング)
「それはキ○ワイプよりも汚れが取れるということですか?」
「もちろんです」
(先程よりも大きい歓声)
「お値段も据え置きで、いまなら二〇枚増量でサー
ビス中」
(ここからBGMを挿入。商品とロゴを画面下部に表示)
「あなたの心の汚れから、身の回りの汚れまで、」
「どんな汚れも綺麗にパパパ」
「(二人、声を合わせて)ドライワイパー
一〇〇M、満を持してお届けします」
※ ※ ※
シ
ュ
レ
ッ
ダー
の紙を刻む音が、オフ
ィ
スに響いた。
ドラムの鈍い回転音にホ
ッ
チキスの針が弾ける響きが混じり、それはまるで出世した未来の自分が悲鳴を上げて砕け散
っ
ているようだ
っ
た。
二の句が継げない課長は腕を組んでなにやら唸
っ
ている。ときおり向けられる視線は俺を憐れんでいるのか妙に弱々しか
っ
た。
「あの、課長。どこか間違
っ
ているところがありましたか?」
いつまでも立たされているのも嫌なので、殊勝な新人の態度で返事を急く。文句があるならは
っ
きり言
っ
てくれればいいのに。俺なりに頑張
っ
て書いたのだから。
「
……
なにから言えばいいのか
……
確かに、インパクトがある企画書を出せ
っ
て言
っ