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「覆面作家」小説バトルロイヤル!
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星辰奇譚
(
大沢愛
)
投稿時刻 : 2017.07.09 13:09
最終更新 : 2017.07.09 13:18
字数 : 8000
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2017/07/09 13:18:26
-
2017/07/09 13:09:52
星辰奇譚
大沢愛
お題:懊悩/
純愛
〇
香がたなびく先に星辰がうつろう。宵闇にはまだ時間がある。
今宵は蘇芳の小袖を選んだ。傍仕えの娘は手に取るだけで顔を火照らせていた。遠い国からや
っ
てきて、もうどのくらいになるだろう。婉という名で呼ばれるたびに頬を赤らめていた娘の姿を、暗がりの向こうにいまも思い浮かべることができる。
袖を通す。指先が布を滑
っ
てゆく。ほんのりとした肌の色合いに蘇芳の紅が映る。
〇
畏ま
っ
て控えている婉と齢の変わらぬ私を思い出す。なにをしても咎められ、折檻を受けていた遠い遠い彼方より、ここに貰われてきた。あの頃はただ、命じられるままに生きていた。私のなしうることは一つしかなく、誠心誠意努めることでかろうじて存在を許される、そう信じて疑わなか
っ
た。
私は誰にも負けない機を織ることができた。機屋の中が私のすべてだ
っ
た。そこでひたすら織り機に向か
っ
た。どのように織ればよいか。すべてを教わり、そしてすべてを捨てた。教わ
っ
たものはどれもこれも、見事と言われる織物を作り出すために大切なことばかりだ
っ
た。師は私を厳しい目で見つめ、できあが
っ
たものを献上しては名を上げた。師の織り機はいつのまにか音を立てなくな
っ
た。私の手元にあれこれと注文を加えては窓辺で星を眺めていた。懸命に織りながら、師の指先を視野の隅に捉えていた。かすかに震える、痩せた指。
○
私がなにもできない小娘だ
っ
たころ、師の指は絶対だ
っ
た。糸を撚れさせるばかりの私の手を退けて、見事な機を織
っ
た。この世で最も素晴らしいもの、それは師の織物だ
っ
た。これができなければ、私の生きる意味はなくなる。寝ても覚めても、師の指が目の前にあ
っ
た。それはときに私を魅了し、ときに責めた。師の指になりたい、と希
っ
た。生きるために。
願いはかな
っ
た。私の作る機はしだいに名を上げ、やがて師のものとしてほめそやされるに至
っ
た。私はただ織り続けた。師が不在のあいだも。疲れで指が言うことをきかなくなり、目がかすんで来ても。あるとき、織り機に向かいながら、窓の外の星々を感じていた。一つ一つは凍える光を宿し、誇るように、隠れるように、かがよいは機屋の外を満たしていた。ふと、疲れ切
っ
た指先に光の尾が宿
っ
た。幾粒も、幾粒も。師の指を模した動きは奪われた。私の中に星辰が広がり、胸元から喉を伝い、肩から腕、そして指先へと至る。私は恐れた。師の教え通り、いささかの狂いもなしに織り上げなければ許されなか
っ
たから。だが、星辰のゆ
っ
たりとした流れに抗うことはかなわなか
っ
た。穏やかで温かなものに身体が満たされ、導かれる。どれくらいのときが経
っ
たのだろう。窓外の星々は遠ざかり、そして私の目の前には、師の教えとはまるで違う、嫋々たる蠱惑が織物のかたちを取
っ
て広が
っ
ていた。やがて戻
っ
てきた師は、私の手によるそれを仔細に見つめ、しばし瞑目した。私はただ譴責に怯えていた。師の教えとはまるで違うものだ
っ
たから。やがて師は私に向き直
っ
た。
――
ようやく儂の言う通りにできたな。
言葉は冷たか
っ
た。いつもの、目を凝らして瑕瑾を見つけ出しては詰るときとは異なる、どこか弱弱しげな風情だ
っ
た。明らかに、師の作るものとは異な
っ
ていた。師の織物は、昏い機屋の中にかすかな星を見出す無数のたくらみに満ちていた。長い年月、織り機に向かいながら、師は星に焦がれ続けた。思いはかすかに届いた。星を模した輝きが織物のそこかしこにちりばめられ、それは師の名を上げた。しとやかな夜陰の物思いに擬されることで、機織りとしての師は一家を成した。ところが私の織物は、星辰そのものだ
っ
た。たくらみはなく、ただ星がそこに在
っ
た。予感や前兆・追憶を借りるまでもなく、機屋の中は星で満たされた。織物が持ち去られた後も、私は織り機の前で茫然としていた。
師の名は漸く上が
っ
た。新たな工夫によ
っ
て新境地に至
っ
た、と評された。それは私の手によるものだ
っ
た。目の前に並べてみれば、似ても似つかぬものと分かるはずだ
っ
た。それでも、別人の手によるものだとは誰も言わなか
っ
た。暗がりで衣を探るものの目には輝きは映らない。機屋で織られるものは、そうしたものたちの手に渡り、あるいは褒められ、あるいは退けられた。その世界の中で師は生きてきた。目の見えぬものたちにそれと認めさせ、居場所を拓いた。それは途方もない苦しみだ
っ
たはずだ。もし師が、自らの織物を受け容れる者たちと同じ目しか持たなか
っ
たなら、築いたものになんら疑いを差し挟むことなく、悠然と笑
っ
ていられたに違いない。だが、師はあのとき明らかに悟
っ
ていた。未熟と決めつけて棄てればよか
っ
たのだ。無言で背を向ければよか
っ
たのだ。それで師の名は傷つくことなく終わる。できなか
っ
たのは、師は目を持
っ
ていたからだ。途方もない年月の精進の果てに、高みを見渡す目を得た。その手は及ばぬままに。機織りとして知られるうちに、師の目は手の高さにとどま
っ
た。そして時が流れた。辺境の地より貰われてきた、機を織ることしかできない、師の教えを愚直になぞるしかない娘を傍らに置くまでは。
〇
婉は私と目を合わせることなく端坐していた。この娘は私が選んだ。気立てのよい、素直なだけの、かつての私よりも愛されるはずの娘。私に名指しされたことを知ると、身を震わせつつ拝跪した。ほとんどの娘は親元を離れることを懼れる。恐れないのは、親がいないか、蔑ろにされているか、だ
っ
た。ところが、婉はいずれとも違
っ
た。心底喜んでいた。私の名を慕い、父母の情愛を振り捨ててまでそばに傅くことを選んだ。私は危ぶんだ。機織りで得られるものなど、父母に愛されることに比べれば何ほどのものがあろう。私のそばで、無垢な微笑みが日に日に萎れてゆくさまを思
っ
た。そうなれば親元に帰そう、と決めて引き取
っ
た。
婉は機織りについては凡庸の一言だ
っ
た。私の教えたことをそのまま繰り返すことすら覚束ない。子どものまま、糸の一つ一つに驚嘆し、杼の音に酔う。かつての私とはまるで違
っ
ていた。あるいは、婉は私の心を読んでいたのかもしれない。いよいよとなれば故郷へ帰してもらえる。それなら機織りを命がけで身につけるまでもない。機屋の暮らしが苦にならないのは、いずれは外に出られると思えるからだ。ここより他に行くべきところはない、と思えば針の筵だ。刺さる痛みが織り機へ向かわせ、教えと寸分違わぬ織りへと駆り立てる。連れて来るべきではなか
っ
た。さらに、甘えの起こらぬよう、峻烈に接するべきだ
っ
た。かつての師を思う。傍にいるだけで身の竦む冷たさは、私を機織りへと向かわせた。あの狷介さも陰湿さも、いまではただただ懐かしい。
いつの間にか、婉は私の身の回りの世話をするようにな
っ
た。師は私に裾一つ触れさせなか
っ
た。身体が利かなくな
っ
てもなお、なにものも寄せ付けなか
っ
たという。それを矜持と見るものも多か
っ
た。師は、懸命に抗
っ
ていたのだ。崩れてゆくものに対して。自らを恃めなくなれば、なにもなくなる。その一心で織り機に向かう心持を思う。師は、やはり師だ
っ
た。そして婉にと
っ
ての私は、もはや師ではなか
っ
た。
婉を見ていると、愛されることに慣れたものの耀きを思う。父母に慈しまれ、おそらくは誰からも愛されてここにいる。私からは愛されてはいないはずだが、婉は嬉々として私に従
っ
た。火を熾した炉と真夏に過ごすようで、さなきだに冷たい我が身を思
っ
た。婉はときおり、愛されることを渇仰した。それならば私の許へなど来るべきではなか
っ
ただろう。だが、婉は切なげに言う。
――
あのお方がいら
っ
し
ゃ
るではありませんか。
私は言葉を切
っ
た。その夜も、星辰は窓外に満ちていたはずだ。
〇
あるとき、私は師に乞うた。機屋を出て、ささやかなりとも一家を構えたい、と。師は色を成した。私の不実を責めた。師の指先は変わらず震えていた。機織りに指の震えは致命的ではない。ゆ
っ
くりと杼を使えばよい。ただ、師は矢継ぎ早に新たな織物を世に問うていた。それは私の織
っ
たものだ
っ
た。私がいなくなれば、それはかなわなくなる。なによりも、星そのものを織ることなど、師にはなし得なか
っ
た。
罵詈雑言と折檻に耐え、やがて師の力の尽きたとき、私は一礼して機屋を出た。足元の、板敷とは異なる感触に、遠い故郷を思
っ
た。誰からも愛されず、苦しみをやり過ごすだけだ
っ
たあのころ。そこから救い出してくれたのは、師だ
っ
た。板敷の上で過ごした私は、機織りの技を覚え、ほかのすべてを失
っ
た。こうして星々の下、歩き出してみると、なにも変わ
っ
ていないように思える。鏡を見ることもなか
っ
た私は、さぞ窶れてみすぼらしいことだろう。星を込めた織物にすべてを捧げ、身なりを構うことはなか
っ
た。織り機の前を離れた私は、結び合うよすがを絶たれて宙を舞うしかなか
っ
た。
懐かしい香りがした。幼いころ、責め苛まれて逃げ出して身を隠した場所のにおいだ
っ
た。身体は大きくなり、身を屈めても隠れることはできない。でも、あのころもすぐに見つけ出されていた。そして連れ戻された。いまでは、連れ戻すものは誰もいない。うつむいてただ歩く。足元は闇に包まれていた。このまま横たわ
っ
てしまえば、闇に呑まれて消えてなくなるだろう。あとわずかで、そこに。
声がした。誰かがいる。足を速める力もない。不意に、肩に手を置かれた。なにかが終わ
っ
た気がした。おそるおそる振り向く。目の前にはだけられた着物の胸元、見上げると、えらの張
っ
た顔があ
っ
た。私を呼んでいたのだ。長い間、師のほかに呼ぶものはいなか
っ
た。茫然と立ち尽くす。好きにすればいい、と思う。名を問われた。郷を問われた。なぜここにいるかを問われた。一つ一つ、答える。私の声は小さすぎるのだろう。巨躯を屈めて、手のひらほどもある耳朶を寄せてきた。言葉が尽きる。かつて見た「男」というものに違いないそれは、私の手を取
っ
た。どうせなら一思いにとどめを刺してほしい。私は目を瞑
っ
た。ふと、瞼の裏に織り機が浮かんだ。ここに至
っ
てもなお、それしかないのか。私のすべてを奪い、師を傷つけ、ここに至らしめたもの。目尻をかすかに涙が伝う。
喉元にも胸元にも、予想していた激痛は走らなか
っ
た。手を引かれ、私は引きずられるように歩き出した。男は大股で、飛ぶように追いかけてもかなわない。すると男は、私の身体を抱え上げた。丸ま
っ
た私を胸元に抱いて、進んでゆく。星辰の光を受けて、男の顔立ちが浮かぶ。無骨で、美しさのかけらもない、と思
っ
た。身体のにおいは噎せ返るようで、それを嗅ぐと私の身体に力が兆した。逃げ出したい、という思いと、すべてを諦める思いと。
身体を捉えた腕が固くなり、私は降ろされた。目の前にみすぼらしい小屋があ
っ
た。男が戸を開ける。中は真
っ
暗で、埃が強く臭
っ
た。中に入
っ
た男はあちこちに身体をぶつけた。男には小さすぎるのだ。ふだんは入ろうともしないだろう。ひときわ大きな音とともに茅葺屋根が揺れた。梁に頭をぶつけたらしい。胸の奥に何かが芽吹いて、口からこぼれ出る。「笑い」だ
っ
た。
男が身を屈めて戸口から姿を現した。この小屋にはだれも住んでいない、お前が住めばいい、と言う。なにもないが、裏手の井戸は明日、井戸浚いをして使えるようにする。食べ物は運んでやる。それだけ言うと、私の答えを待つ。
なぜ、私にそのようなことをして下さるのか、と問うた。私には何もない。みすぼらしく醜い女にすぎない、と。
――
気に入
っ
た。
男は答えた。私が茫然としていると、肯いと受け取
っ
たのか、地響きともに遠ざか
っ
てゆく。抱かれている間は気づかなか
っ
たが、男の足取りは重く、力に満ちていた。
遠い郷を離れてより、私の周りには「良い」「悪い」しかなか
っ
た。織物として「良い」。師の作に比べて「悪い」。その他のものさしは機屋にはなか
っ
た。「気に入る」とは、どう受け止めればよいのだろう。たとえば美味なる肴を口に入れたときの思い。それは「身に入る」ことだが、それを許す心のありようを「気に入る」という。私はあの男の、頑強な身の中に期せずして滑り込んでしま
っ
たのだろうか。
小屋に入る。男が窓を開けてくれていた。星明りに透かして見ると、四隅に埃がうずたかく積も
っ
ていたが、中ほどは板敷の木目が見えた。もしや、男は仰向けにな
っ
てあちこち這い回り、背中を用いて掃き清めてくれたのか。窓から差し込む光は、木目の上に四角く落ちていた。その真ん中に横たわる。木目はざらついていたが、埃とは違
っ
た香りがする。懐に抱かれて嗅いだ、男のにおいだ
っ
た。
〇
翌日より、私はその小屋で暮らし始めた。男の浚
っ
てくれた井戸から汲んだ水を沸かし、小屋を清めた。毎日、男は食べ物を運んでくれた。戸口から顔を覗かせ、言葉を交わす。その後、すぐに出かけて行
っ
た。男の生業は、耕し、育てることだ
っ
た。力がいくらあ
っ
ても足りない、という。それだけ力があれば、誰よりも高い地位にまで昇れると私が言うと、笑
っ
て首を振
っ
た。身体を清め、立ち働くうちに、男は遠慮がちに、お前は美しい、と言い始めた。思
っ
たほど心は動かなか
っ
た。美しいと言
っ
ても他を知りません、と答えると、無言で抱き締める。それだけ力があれば、私をいかようにでもなさいませ。でも男はひとしきり力を込めると、腕を放し、戸口から出て行
っ
た。
あるとき、私は男に言
っ
た。
――
織り機が欲しい。
必要なものをこまごまと頼むと、旬日を経ずして男は一切を荷車に積んで現われた。すべてを小屋へと運び込んで、生業へと向か
っ
た。
男の用意してくれた織り機は、師の機屋のものに比べ、粗末で旧式だ
っ
た。それでも、この無骨な木組みが男そのものに思え、私は丹念に汚れを拭い取
っ