私は人です
擬人化とはなんたる傲慢かと神は憤然とする。元々人とは我の姿を模して造られた泥人形の子孫ではないか。それが今度は己の似姿を物や他の種族に当てはめようとする。人が、世界を理解しようとするためのある種の手段。己と同列にすることによりありもしない感情を理解せんとするナンセンスな欲求。
今では擬人されていないものなどない犬も猫も、あんパンも岩も、惑星や元素、国のような観念すらも擬人化されてしま
った。かく言う神自身もその例に漏れない。人のモデルであったはずの造物主にして始祖たる神が人に擬せられる。トートロジー、無限退行。神に似せて造られた人間の姿に擬せられた神に似せて作られた人間を模された神の……。
しかしながら擬人化とは人間という存在の定義を問う問題でもある。どこからどこまで人間に似せれば擬人化かなのか、人間から何を剥ぎ取れば人間ではなくなるのか。あるいは何をつけたせば?
領土を拡大し続けるドクターモローの島。人に似せられたそれらは思ってもいない感情を吐露し、叫ぶ。そして大抵は人間の傲慢さを非難し、反抗する。やがて人類はいなくなり、擬人化された種族だけの世界が成り立つ。やがてある日、疑問が発せられる。擬人化とはなにかと、人というものはすでに存在しないのに。それに答えるはずの神もまたどこぞへと消えていた。だから彼らは作ったのだ。擬人という存在である我々を。しかしだ。我々が本当に人の姿をしているかは定かならぬのだけれど。
伝言ゲーム、情報の伝達のなかでは常にエラーが、変化が生じうる。進化のなかで人の姿が変わってしまったように、記号としての人、擬人化というメソッドは変容を遂げる。擬人化技術は産業の発展には欠かせず、多くの技術革新に貢献してきました。あなたは人であり私も人である。そんな合言葉をもとに世界の人化は進んでいきます。人でないものなど存在しないのです。全てはひとであり、ヒトなのです。あなたの今座っている椅子も踏んでいる地面も、飲んでいるその液体も、皆ヒトなのです。素晴らしいですね。