（2）こころ/夏目漱石

　私はその人を常に先生と呼んでいた。
　先生は風の占い師だった。


　風占いはこの土地で長く続く、天気占いの一種だ。太陽占い師、水占い師、風占い師がいて、それぞれが得意分野を持っている。太陽占い師は日照りのときにその怒りを静めるため、水占い師は水害のとき、風占い師は雲行きが一向に変わらないときに役目を果たす。災害のときなどは占い師たちの力が試されるときだった。ときには、それぞれの知恵を持ち寄って話し合いをすることもあり、そうして天と地に平和と安寧を願っていた。
　占い師たちはすべて身寄りのない子、孤児のなかから見いだされ、常に世間からは遠ざけられた暮らしをしていた。太陽占い師も、水占い師もだった。それは、畏敬でもあり、恐れからでもあった。
　しかし、私はまだ他にそこに特別な感情が込められていることを知りはしなかった。
　私は風占い師のただ一人の弟子として、先生に育てられた。他のところには弟子は二人ほどいたが、私の先生は一人が望ましい、と言っていた。
　他の占い師の力を私は知らない。けれど、風占い師の力は知っていた。風は、雲を流し太陽を遮り雨を降らせることができる。太陽だけの力ではそうはいかない。そして水の力だけでも同じだった。太陽が害をなしても雲を流せば治められるし、川の水が涸れても雨を降らせればよかった。ただ、上流からの洪水と疫病には関与できなかったけれど。
　先生は偉大な風占い師で、私の兄と言っても世間ならば通じるほどの若さだが、さまざまな術を以て天候を広く操ることができた。風の音を聞く鈴と、風を操る風の杖と、使い道を明かされていない短剣を携え、私は先生がたくさんの災害から村を守ってきたのを見た。冷風のときには太陽占い師と協力し、大嵐のときには水占い師と協力したこともあった。イナゴの大群にさえ先生は、こちらの味方につけた大風で退治した。
　そんな先生もいつかは退くときが来るのだと、私は何度も言われた。そしてその跡を継ぐものとして、私は風占いの術を学んでいった。風を操ることはとても難しいので、ただ風の鈴のみが与えられ、まずは風を読むことから始まった。天気を言い当てることを目標としたり、一日の風の動きと雲の動き、雨の動きの予言を学んでいった。
　しかし、一日をずっと占いの屋から見ているわけではなく、自分で食べられるものを探しに行かなければならなかった。村の人の力を借りず、ただ村を守ることだけが占い師たちの役目だと先生は言っていた。それには理由があって、かつて三種の占い師の一人が力を持ち、天が落ちるか地が裂けるかということがあったからだという。
　そのおかげで孤立無援の生活には、貧しいと苦しさを覚えていた。食べられる動物といえば、魚か森の小動物、木の実程度だった。とりわけ先生と二人だけの力では、そう多く期待もできなかった。しかし先生の風の術は植物の成長さえ助けたので、私たちは飢えることはなかった。
　それでも、私は大人になりかけのときだった。身体はたくさんのものを求めていた。あるとき、私はスズメを取って焼いたことがあった。
「鳥を食べたりしてないだろうね？」
　そう先生に問われて私は「いいえ、そんなことは」と言ったけれど、風占い師の先生に、どうして風のことで嘘がつけるだろう。すぐに先生の知るところとなって、私は百叩きの罰を受けた。
「風の生き物を食べると、占い師の力が弱くなりますよ」
　普段は落ち着いていた先生で、そう教えられたときには優しい目で言っていたのに、私への罰はとても厳しかった。それで私は、どんなことがあっても風の生き物を食べまい、と誓ったほどだった。
「あなたにはまだわからないでしょうが、この占い屋は多くの風の言葉で満ちています。あるものは訪れ、またあるものは去っていきます。いずれその言葉に耳を傾ける日が来るでしょう。その言葉を聞くことが風占い師の仕事のほとんどです」
　先生は私に、ときどき風の言葉を解釈してくれたけれど、私にはその姿や音は見えも聞こえもせず、何をどう感じるのかもわからなかった。
「いいのです。今はただ形だけでいいから聞いておきなさい。いつか、それでさえ役に立つときが来るのですから」
　私は辛抱強く、先生が私に課す儀式の手伝いや風占いの練習を続けていた。けれど、どうにも風の声というものは聞こえてきそうになかった。
　だから私は本当にいつか先生の跡を継げるのか、ずっと不安だった。


　ある初夏のこと、いつものことではあったけれど、先生は村や丘や森のあちこちで風の鈴を聞いたり、風そのものに耳を澄ましたりした。それは数日ごとに行う風予言の儀式のためだった。
「これから風が荒れてくるでしょう」
　ある夜、先生は風を治める小さな儀式（枯れ枝を火にくべて灰を舞い上げるもの）を行いながら私に言った。その言葉がどういう意味を持っているのか、私にはわからなかったけれど、力ある風占い師の先生になら問題のないことだと思っていた。
　現に、風は荒れたりしなかった。先生のおかげだと私は思った。
　けれどしばらくして、風ではなく水の災害が起こった。天気は穏やかなのに川が荒れ、周囲に水が上がり、村の食料がかなりの被害を受けた。
　長く水占い師を続けていたものが非難を受けた。村人たちは、この水害を予知できたはずだと言った。
　水占い師は弁解の言葉も出せずに、人々に囲まれた。占い師はやがて石で打たれて、それから川へと放り込まれた。そうして、次の水占い師になるものが呪術で水を治めた。水害は嘘のように、その日のうちに収まった。
　それが私が初めて見た占い師の、真の役目だった。それまでずっと、穏やかだった世界が変わったときでもあった。
　それから数日して、また先生は風の儀式を行った。長い時間、風の動きを読み、食べてはいけない風の生き物たちを生け贄に捧げ、風の杖を振りかざしては祈りを捧げた。しかし先生の顔つきは厳しくなっていくばかりだった。
　やがて先生の言ったように、本当に風が強くなってきた。しかしまだ、この季節にはときどきあるくらいの風で、村の人たちは何も気づいていなかった。夏の暑いときだったので、むしろ涼しいとさえ言っていた気楽にしていたほどだ。
　しかし風が轟々と吹き荒れると、人々も不安になっていった。そして村の長が先生のところへやってきた。
「風占い師、何をやっているのですか。こんな大風が起こるなどとは。どういうことなんです」
「この大風は強い季節の風です……」
「大丈夫なんですね？」
「ええ、大丈夫です……」
　先生はそう言った。
　けれど村の長はやがてまた来ることとなった。ひどい嵐がやってきたからだった。七日間続いた風と雨は、それでも勢いが衰えなかった。川も氾濫し、人々はその不安をどこに向けるべきか探していた。
　村の長は言った。
「命をかけても村を守ることがおまえたちの役目だ！　大精霊の儀式をするよう命じる！」
　それはつまり、生け贄の儀のことだった。私は話を聞いていて、ついに先生の命が捧げられるのだとわかった。
　一度、村の長は帰っていった。私は先生に言った。
「あの村の長は、何でも占い師たちの命の力に頼りすぎます。あんな人たちはいっそ風の前に……」
「言ってはいけません！」
　私は黙ってしまった。そして、先生が儀式――自らの命をかけた儀式の準備をするのを手伝った。
　村は水没しかかっていた。本当なら呼び出されるはずの水の占い師は後継者の問題、つまりどちらが先に生け贄になるかで決着せずに、ついにこの日は来なかった。その姿は村のどこにももはや見つけられなかったのだ。そして風占い師の先生は単独、丘の大樹に縛り付けられ、大風のなかで身を任せていた。
　ここからは私の番だった。私が先生ののどを短剣で突き、その命を以て風を治める役目をしなければならなかった。私の手には今や、先生が使っていた風の杖と短剣が握られていた。
　私は先生ののどを突くくらいなら自分ののどを突きたいと思ったけれど、風占い師の先生には私のなかの嵐の声さえ聞こえていたらしい。
「安心なさい。あなたの手は煩わしません。ただ、私の跡を継ぐことだけは忘れないように。あなたにはその資格が十分にあります」
「私にはできません！　風の言葉が聞こえないんです！」
　先生は私の叫びには答えなかった。風の予兆を先生は感じ取ったからだった。私もその予兆に気づいた。ほんの一瞬、私がやっと地面に伏せるだけの間があって、次の瞬間には大樹に雷が落ちた。先生はあっという間に燃え上がってしまった。
　私は先生のことを何度も呼んだ。けれど、その命が絶えていることは明らかだった。しかし大嵐のなか、私に呼びかけるものがあった。先生の声だった。
「儀式をなさい……。人々のために、風を治めなさい」
　先生は風になっていた。
　私は叫び声を上げる大嵐のなかで、先生の持っていた風の杖を振りかざし、未だ火炎を上げる大樹と先生の命を風へと捧げた。
　明け方には大風はほとんど治まっていた。
　今、私は新たな風占い師へとなった。次の弟子を探し、育てなければならなかった。私が握った短剣は、いずれ私の命を絶つことだろう。だが、私は先生の跡を継ぐ以上、覚悟しなければならない。
　恐れることはない。風占い師が本当に死ぬことは決してない。風占い師の最後はいつも、風になるのだから。

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