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群青
ぷーち
投稿時刻 : 2017.08.17 10:48 最終更新 : 2017.08.20 16:10
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- 2017/08/20 16:10:48
- 2017/08/17 10:48:43
群青
ぷーち


ドグラ・マグラ/夢野久作


…………ブウウーンンンーンンンン………………

いやな汗を額にべたりとかいていた。寝るときにタイマーを設定したエアコンはすでに冷たい風を吐くのをやめ、自動掃除モードに入ている。身体にまとわりついてくる空気は悪夢の名残で重たく、生暖かい。オレンジ色の常夜灯が夜の温度をさらにあげているようだた。
午前三時。睡眠薬と精神安定剤が薄まている。薬を飲みだしてから寝つきは問題ないが、効き目が弱いのか、こうやて朝になる前に目覚める。じりじりと温度が上がり、私から薬が流れ出す。幸せも一緒に流れ出し、私だけ憂鬱の中に置いてけぼりだ。
鳴り響く痛みを締め出すように目を閉じると、さきまで見ていた夢が蘇る。電話越しに伝わてくる相手の迷惑そうな顔。
あのね、この電話、お互いに時間の無駄だと思います。契約する気はありませんから。もうニ度とかけてこないでください。お前何あさり電話切らせてんだ。やる気あんのか。やめちまえ、お前なんかやめちまえ。金稼いでないくせにここにいるんじねえよ。死ね、死んじまえ。
会社に行けなくなてから一月。精神科に行たらあさりと診断書が出た。
「うつ病につき、三月の休養を求める」
うつ病だと、転職するときとか大変になうかもしれないけど、本当にうつ病て書いていいの? と医者は言た。別にどうでもいいです、と答えた。
うつ病の日々は憂鬱だた。薬を飲むと世界が遠ざかた。悲しくなくなたが、楽しくもなくなた。あんまり薬は飲まない方がいいんじない、とお母さんに言われたが、不安だたから飲んだ。
毎日同じ場所で目覚め、ほとんど動かずに、同じ場所で眠る。一日が終わるたびに自分が嫌いになた。みんなは働いているのに何してんだろう、怠け者、と罵た。
朝も最悪だが、夜はもと最悪だ。いやな感情が私から抜け出し、部屋中に漂う。早口でお前は何してるんだ、と責め立てられた。
エアコンはまだ唸り声をあげている。ふと身体の力が抜け、もういいや、と目を開けた。黒いあれが常夜灯の周りを飛んでいた。夜と同じ色をしているからよく見えないけど、多分あれだた。あれは動きを止めると、すうと枕元に立た。
また寝なくてもいいの? 寝ないと、明日一日中ぼんやりして、寝たままになうよ。明日こそ早く起きるんでし。いくら休職中とはいえ、一日中眠たままでいいと思てるの? あなた、赤ちんじないんだよ。規則正しい生活、これが一番。わかた? あなたね、病人だからてなんでも許されるわけじないからね。うつ病とか言てるけど、甘えてるだけでし。心配してくれて、せせとお世話してくれてるお母さんに甘えてるんだよ。自分からちんと治そうとしてない。こうやて休ませてくれてる会社に申し訳ないと思わないの? 努力しなさいよ。頑張りなさいよ。
うん、わかてる、わかてる。頑張る、頑張るよ私。
あれに支えてもらいながら、起き上がた。汗で濡れた背中が冷たい。サイドテーブルの上の読書灯をつける。ひんやりとした光が顔に当たた。医者からは一日一錠と言われていたが、最近はこうやてもう一錠飲んでしまている。生ぬるい水と睡眠薬。また少し私の中が濃くなた気がした。大丈夫、これで眠れるよ、とあれが背中をさすてくれた。読書灯を消し、汗で冷えたベドにまた横になる。あれはまた常夜灯の周りを飛び出した。夜の波にベドが揺れる。いやな夢がぽかりと口を大きく開けていた。


幸せに満ちた白人の女の人の笑顔と、淡いピンク色の文字。紙から飛び出しそうなほど咲き誇る花たち。女の子が憧れるウング雑誌は分厚く、重い。一生懸命ページをめくる私の横で、彼氏はゲームに夢中だた。
「ねえ、そろそろ式場決めないと、今年中に挙げられないよ」
「好きなところ選んでいいよ」
彼氏はベドに寝転がたまま、ゲーム機から顔を上げようとしない。私だけが盛り上がているみたい。クーラーの風が冷たかた。裸の胸が急に恥ずかしくなて、床にぐたりと寝そべていたTシツをすくい上げ、身につけた。
豪華なホテル。ウング専門のレストラン。邸宅風の式場。ガラス張りのチペル。外国人の牧師。ヴルに誓いのキス。青空に咲いた鳩たちの花。祝福のバルーン。
「このプールのあるところとかいいなあ」
彼氏は青白い光を放つ画面から意識を上げようとしない。
「二人の結婚式なんだからさあ、参加してよ」
「参加してるよ」
「してないよ」
面倒くささのため息とともにベドが軋む。ぼさぼさの頭を掻きながら、雑誌のページをやと覗き込んできた。
「へえ、いいじん」
「雑」
「ちんと考えた上での感想だから」
「嘘だね」
「てかさあ、今年中に病気治るの」
ワントーン低くなた声。黒いインクが落ちて滲んでいくようにあれがページの上に現れた。
「頑張るよ」
「頑張る、頑張るていつも言てるけどさ、全然頑張ているように見えないんだよな」
「ごめん」
「昨日は何した。いつも寝ているだけじん。正直俺には怠けているようにしか見えない」
「ごめん。でも体調が悪いから動けなくて」
「体調を良くする努力も全然してないよね。いつも具合悪い具合悪いて言てさ、寝てばかじん。朝早く起きるとかさ、運動するとかさ、全然してないじん」
ページの上のあれはどんどん大きくなていく。
「いいよなあ、俺だてそういう生活したいよ」
「ごめん」
「結婚もさ、俺はすごい待てたんだよ。お前が大学卒業して、仕事が落ち着くまで、と思て待てたのに、また待たなきいけなくなた」
「ごめん。今年中に治すから」
「治てすぐ結婚できるわけでもないんでし? この前言てたじん。復職して落ち着くまでとかさ。俺どんだけ待てばいいわけ。早く治して早く復職する努力もしてないみたいだしさ。ほんとは結婚したくないんでし
あれは彼氏ぐらいの大きさまで膨れ上がていた。
「ごめん、頑張るから」
「ほんとかなあ」
ギシ、と大きくベドを軋ませて、彼氏は寝転がりゲームの世界に没頭し始めた。膝に乗せた雑誌の重みが増したような気がした。


「別れよう」
スマートフンの青白い画面に点滅する文字の意味がよくわからなかた。わかりたくなかた。スマートフンの横にあるボタンを押す。画面が暗くなり、ぼんやりとした私と目があた。
隣に座ているお姉さんはストキングに包まれた脚を大きく開いて眠ている。次は稲城長沼、稲城長沼と車内アナウンスが空白に響く。私の肩の上に座ているあれは押し黙たままだ。五年間という時の蓄積に目眩がした。
あの時、私たちは講師の先生と生徒だたなあ。禁断の関係てやつだたなあ。大学生になて、みんなが色んな人とお付き合いをしていたけれど、私は彼としかお付き合いしなかたなあ。ふたりでどんな未来を思い描いていたけ。
画面がふと明るくなる。鈍い音をたててスマートフンが震えた。
「今日、家に来てくれた時に言えばよかたのに、ごめん」
「元気になるまで待てる気がしない。ごめん」
反論する気も起きなかた。そり、そうだよなと納得してしまう。
あなたがね、努力しなかたからだよ。
あれはいつの間にかスマートフンの画面に座ていた。仕方ないでし。だて、あなた、彼を説得できるような生活していないじない。泣いても終わたもんは仕方ないでし
そうか、終わたんだ。
「わかた。ごめんなさい」
押し黙たスマートフンを見て、ああ、もう鳴らないのかと思た。もう何も送らなくていいんだ。メセージが来ないからて、今までみたいに不安にならなくてもいいんだ。もう何も感じなくていいんだ。
もうなんにもない。


死ねそうな場所は五所あた。線路。踏切。交差点。外廊下。ベランダ。線路と踏切と交差点は通り過ぎてしまたから、残るはマンシンの外廊下とベランダだけ。
七階の外廊下から立体駐車場を見下ろす。真下にはスズキのハスラーが停まていた。ここからあのハスラーに向かて飛び降りたら、天井凹んじうかな、なんて考える。確実に死にたい。けど迷惑はなるべくかけたくない。どう死んだて両親には迷惑かけることになてしまうけど。
ぽのままなくなてしまえば、綺麗に消えられそう。
柵に手をのせた。滑らかな金属製の表面には、ちりが薄く積もている。ゆくりと払い落とすと、黒い塗装が顔を出した。あれと同じ黒色。夜の色。心に巣食う感情。
すでに空は一面真黒だた。湿た夜の空気。夜とひとつになれたら、私も黒くなれたら、もう眠ることを恐れなくても良くなるかもしれない。
あれの粘ついた手が私の手に重なた。
早く死んでしまおうよ。あなた、生きていても、人に迷惑をかけるばかりじない。もう楽になりたいでし。もう苦しまなくてもいいのよ。私と一緒になりましう。ほら、だから、最後にもうちとだけ頑張て。
柵に体重をかけると、パキ、と柵が鳴いた。鉄棒みたいに身体を持ち上げればいいんだ。前転をする要領でやれば大丈夫、上手くいく。
「あれ、帰てきてたの」
冷え切た背中にあたたかい光が当たる。
「どうしたの?」
私の上のあれの手に違う手が重ねられる。あれはすと手を引込めた。洗剤のにおいがした。
「駐車場を見てた」
「ここ、吸い込まれそうで怖いよね」
「うん」
「はやく帰ておいで」


午前三時。
今日は寝付ける気がしないとお母さんに言たら、一日寝なくても死ぬわけじないんだから無理して寝なくてもいいんじない、と言われた。すとんと腑に落ちたので、眠らないことにした。睡眠薬も精神安定剤も飲まなかた。
お母さんが、お父さんが、おやすみなさいと言て寝室に消えてから、ずとリビングのソフに座ている。あれも隣に座ている。珍しく静かだた。おしべりな口を閉ざし、黙てテレビを観ている。知らない日本人テニスプレイヤーとアメリカ人テニスプレイヤーの試合。
日本人テニスプレイヤーはサーブに失敗し、失点した。三回目の同じ失敗。眉に力を入れた顔でじと地面を見つめている。背中に太陽が照りつける。アメリカ人テニスプレイヤーはいやに真剣な顔をしてラケトを構えていた。嬉しいなら素直に嬉しがればいいのに、と思た。
専業主婦ていう道はなくなたね。あなた密かに狙てたでし。働かなくても済むしね。そういう甘えた考えが良くないのよ。あれはテレビを睨みつけたまま喋り出した。もうあなたは働くしかないのよ。復職するか転職するかしかないの。ニートとかそういう迷惑なことは考えるのやめなさい。どれだけお母さんに迷惑かけるつもりなの。肩の凝りをほぐすように首をねじる。
あなたはね、もう働くか死ぬかしかないの。
働くこと。怒鳴り声。ため息。涙。鳴り止まない電話。あなたじ心細いわね、と言たときのお客さんの顔。すいませんしか言えない私。もと自信持た方がいいよ、と先輩。はい、頑張ります。頑張ります。もと頑張ります。
世界がぐるぐると回り出す。私はもう頑張れない。
そうね、あなたは死んだ方がいいかもしれないわね。
瞬きを三回して焦点を合わせる。試合はいつの間にか終わており、紺色のスーツを着たアナウンサーが原稿を読み上げていた。ほら、とあれの手が肩に置かれる。フローリングには膝から滑り落ちた肌掛けがかたまりになていた。フローリングの線を辿りながら窓に向かう。窓の前まで来たとき、目を閉じた。
直ぐに腕を伸ばすと、バーチカルカーテンが当たた。そのまま突き進む。お母さんが磨いたガラス。指紋のない、冷たい表面をなぞる。両手の指をくつけて右へと動かすと、ガラスが滑た。冷気が瞼に当たる。風に揺れるカーテンが顔にぶつかる。
さようなら。裸足のまま私はベランダに出た。
、とあれが小さく声をあげた。
声に促されるように、目を開けた。
、と私は言た。
何もかもが青に染まている。ベランダに干された傘も、下に広がる家々も、鉄塔も、山も、全てが青い。青い絵の具を被たみたいに、私も頭の先から足の先まで真青だた。心まで群青に染まていくようだた。
ブウウン、とバイクの音が響いた。
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