第41回 てきすとぽい杯
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遠い夜行
大沢愛
投稿時刻 : 2017.10.14 23:43
字数 : 2571
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遠い夜行
大沢愛


 車輛の中はほぼ人で埋まていた。窓は湿気で曇り、しずくが流れた跡は窓外の闇を映している。四人掛けのボクスの窓側席は、冬の夜汽車に限れば上席とは言えない。一時間、二時間と経つうちに肩から底冷えがしてくる。尿意を催せば、新聞や雑誌を敷いて床に蹲た乗客を跨ぎ、掻き分けて連結部手前のトイレまで行かなければならない。もちろん、ドアの前に立ているのは順番待ちかもしれないし、トイレの主は便器に座たまま熟睡しているのかもしれない。満員の夜汽車では排泄関係のコントロールが何よりも肝要だた。

 この電車に乗るのが夢だた。東京発23:30、名古屋着6:22の東海道線夜行普通列車、通称「大垣夜行」。繁忙期には東京駅のホームに21時頃から列ができる。ぼくはそれに並びたかたけれど、付き合ていた恵利佳に止められた。
「アンタね、なんでそんな無意味なモンに乗りたいわけ? お金くらいあるでし。普通に新幹線に乗りさえすれば二時間で着くじん。それを七時間もかけて、しかも満員の車内に押し込められて。馬鹿じん」
 恵利佳は同郷の女の子で、大学に入てから知り合た。同じ地方都市出身ということで、それぞれ都会の女の子・男の子と付き合いたいという希望が果たせなかた折から、自然に付き合うことになた。「彼女持ち」になれたおかげで、東京出身の友人たちからはそれなりの目で見られるようになた。ただし、中には「余た田舎モン同士がくついた」と聞こえよがしに言て来るやつもいて、それはその通りだたけれど、だからといて恵利佳と別れて新しい彼女を見つける自信はなかた。
 恵利佳は恵利佳でぼくをなんとか都会風の男の子に仕立て上げようと、原宿から表参道を連れ回したり、古着屋で見立てた服を着せたり、さまざまな努力を重ねた。お互いに田舎の訛りを指摘し合たり、「いかにもなデート」を計画して実行したりと、傍目には仲のいいカプルに見えたに違いない。
 恵利佳に付き合ていると、ほくのやりたいことというのがどんどんなくなて行た。興味の湧くことはすべて「ダサい」のひとことで却下されて、そういわれるとぼく自身もなんだかつまらないものに思えてしまい、結局は恵利佳の「都会人カプルごこ」に精を出すことになた。
 帰省のたびにふたりでお土産を買い、新幹線に乗た。清潔な車内で、恵利佳はいつもお土産の配分や帰省先での同窓会、パーについてこまごまと確認した。ぼくは忘れないようにメモして、なんとか頭に入るころにはもう名古屋だた。在来線に乗り換えて、ひとの疎らな無人駅をいくつも過ぎるうちに、恵利佳はしだいに無口になた。
「なんで帰省なんかしなきならないんだろう」
 ぼくはなにも言わずに各駅停車の青いシートの毛羽を手のひらで逆立てていた。
 大学を卒業して、ぼくと恵利佳は故郷に戻り、地元の企業に就職した。高校や中学の同級生と顔を合わせる機会が増えた。「東京帰り」のぼくたちは別格的な見方をされたけれど、それだけだた。地元で過ごしたやつらも四年間の積み重ねがある。東京にいたぼくは、地元での四年間は空白だた。その空白が折に触れて生活上のさまざまな面を逆撫でする。落ち込まないためには狎れるしかない。いつのまにかぼくは地元の訛りを取り戻していた。恵利佳は、周囲から浮きながらも東京で身に着けた標準語を手放さなかた。それが唯一のよりどころみたいに。ぼくがうかり方言で喋るのを耳にすると、表情がこわばた。どうしようもなかた。就職して三年目に恵利佳は会社を辞めて、東京にもどた。以後、連絡を取ていない。
 上司のすすめでお見合いをした。相手は四歳年下の地元短大出の子だた。恵利佳とは対照的に、地元の人間関係の中で生きている子だた。断る理由もないまま、結婚した。子どもが三人できた。少しずつ上のポストに上がり、部下を使う身になて行た。ゴルフを始めた。カラオケも嗜むようになた。子どもたちはみな、地元の公立大学を出て、地元で就職した。
 そんなある日、社内の健康診断の結果が出た。総合病院での精密検査を指示され、検査入院をした。担当医から結果を聞かされた。妻は泣いた。初めて妻の顔を見た気がした。できるだけのことをするから、と妻は私の手を取た。妻は恵利佳とは違い、私の服を見立ててはくれなかたけれど、こうしてそばにいてくれる。それだけで良しとすべきだと思た。遺産の整理、税金対策、相続と、現実的な必要にかられて、病院のベドの上でもまるで気の休まらない日々が続いた。ある晩のことだた。天敵に繋がたまま、ぼんやりとしていた私の枕元に黒い人影が立ていた。モノクルをした、西洋人らしい長身の男だた。私は、やと来たな、と思た。最後のお迎えらしく、男はシルクハトに燕尾服の正装だた。男は無言で一冊のノートを手渡した。エンデングノート、と書かれている。死後の処理については指示は終わている。怪訝そうに男を見返すと、モノクルの向こうの目が何かを告げていた。
――最後に、好きなことを書きなさい。あなたの「好き」はなんですか。
 私は茫然として、そのうちに涙が出てきた。私にはなにもない。好きなものも、ひとも。恵利佳、期待通りにできなくてすまなかた。本当は東京でふたりで暮らそう、と言て欲しかたのは分かていたのに。妻よ、至らぬ夫で悪かた。子どもたちよ、元気で。
 空ぽの心にふと浮かんできた。もうとくになくなている「大垣夜行」。いまさら乗たところでなにも起こりはしない。それでも、ひとつだけかなうなら。
 
 そして私は「大垣夜行」の車内にいる。私は大学時代の姿で、ぐたりする他の乗客の中でひとり、冷えた目を泳がせていた。明朝、名古屋に着いたら、この旅は終わる。それまではこの時間を、一秒たりとも逃さない。そして午前二時に静岡駅に停車したら、駅のホームで駅弁を買うのだ。真夜中なのに売られている駅弁、ということで当時は知る人ぞ知る存在だた。車内に戻たら、駅弁をゆくりと味わて、すこし眠ろう。名古屋駅に着く前に、ほんのすこしだけ目が覚めればいい。遅い夜明けに白んだ空を、最後に見上げるために。
 「大垣夜行」は揺れながら、遠い彼方へと走り続けていた。
         (了)
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