買い物ごっこ
「借金を返します」
茶封筒の中から出てきたのは、その一言だけが印字された白い便せんと、大量のおもち
ゃの硬貨だった。赤くて、五百円玉ぐらいの大きさの軽いプラスティック製のコインは、百枚ほどあるだろうか。
何のいたずらだろう。気味の悪さに、私は顔をしかめた。ずっしりと重く膨らんだ茶封筒を、つまむようにして郵便受けの中に戻す。かさばった茶封筒は、ボックスの蓋の角に一度引っかかって、くしゃりと皺になった。
オートロックの玄関を鍵で開け、エレベータに乗り込む。私はヨシくんにメールを打った。
「今日のライブ、どうだった? 残業になっちゃって、行けなくて、ごめんね」
ひとり暮らしをしているマンションの部屋に戻り、散らかった部屋の中で、コンビニで買ったパスタサラダをすする。シャワーを浴びて着替えて、顔に薬を塗りこみマッサージをして、もう十二時を回ったのに、ヨシくんからは返事が来ない。
翌日に会社から帰ってきてから、郵便受けを開けて、すっかり忘れていたあの気味の悪い茶封筒のことを思い出した。そのまま元の場所に戻したのだから、無くなっているはずはないのだった。ボックスの中を占領していて、邪魔だ。捨てよう、と思ってつまみ出した時、昨日、一部が皺になったはずの茶封筒が、まるで新品みたいに綺麗になっていることに気付いた。
不審に思って中を開く。おもちゃの硬貨が入っているのは同じだった。便せんに印字されている文章が違っていた。
「受け取ってください。長い間お借りしていたものを、返したいのです」
私は恐怖を感じて、それを地面に取り落とした。部屋に帰るのも怖くて、私は道路に出て、タクシーを止める。ヨシくんの家に向かった。
「なに、どうしたの、急に」
けだるげに私を出迎えたヨシくんに、私はしがみついた。
「家の郵便受けに、変なものが入ってるの」
「近所のこどものいたずらじゃないの」
「でも、怖いの、郵便受けにロックかけてたはずなのに、次の日に、中身が入れ替わってたの」
「ふーん。よくわかんないけど、怖いんなら、しばらくうちにいればいんじゃない」
それから三日の間、私はヨシくんの家で寝泊まりした。
ヨシくんはロック・バンドをやっている。一年前にライブハウスで知り合った。三歳年下の、いつもクールに振る舞っている彼は、ステージに上がると少しデスボイスがかった特徴的な歌声で観客を魅了する。彼を狙っている女の子は沢山いる。
それでも、彼はこんな顔の私を選んでくれた。
「おかえり、ヨシくん。ご飯作っておいたよ」
「あー、ごめん、食べてきた」
「そっか。今日、遅かったね。バンドの練習だったの?」
「ん、まあ」
そう言いながら私の後ろで冷蔵庫を開ける彼から、私の使ったことのない香水の匂いが漂うのに、気付かないふりをする。
「……次のステージ、いつだっけ? 今度は絶対聞きに行くね!」
「ありがと、来週の金曜だよ。あー、ライブ前にそろそろ髪染めなきゃな」
「あ……」
私は鞄から慌てて財布を取り出す。
「これ、使って」
彼は極めて自然にそれに手を伸ばし、微笑む。
「サンキュー」
四日目になって、私は家に戻ってみた。
恐る恐る郵便受けを開けると、かさばって郵便受けの中を占領していた茶封筒は、平たい形に変化していた。
私はそれを開けて、おもわず息をのんだ。
「あなたが、あの硬貨を見て、僕のことを思い出してくれることを期待していましたが、昔のことですから、しかたありませんね。1レッド=1000円ですから、10万円、日本円で、お返しします」
「ヨシくん、お買い物、行こ」
「買い物?」
「うん、新しいシューズ、ほしいって言ってたでしょ。それから、お洋服とか、欲しいものあったら、買ってあげる」
私はヨシくんの腕に絡みついて、歩き出した。こんな顔の私でも、背の高い、かっこいい彼氏を連れて、人の多いところを歩けるのだと思うと、とても気持ちが良い。私が何か買ってあげるたびに喜ぶ彼を見ると、とても満たされる。
茶封筒はそれから数日置きに届いた。
「受け取ってもらえて嬉しいです。借金を返します」
「あなたが嬉しいなら、僕も嬉しいです」
「これは昔に借りたお金の返済です。貴女の好きに使ってください」
「僕は治らない病にかかりました」
4通目で、突然、手紙の主は自分について語り始めた。
「余命3ヶ月と、医者から宣告をされました。それで、やりのこしたことを、すべて済まそうと考えたのです。そのときに、思い出したのが、あなたからの借金でした」
現金を見て、ヨシくんのことをつなぎ止めたくて、衝動的に使ってしまったお金だったが、その手紙を見たとき、初めにおもちゃの硬貨を見たときの薄気味悪さがよみがえってきた。
3日後に続きの手紙は来た。
「僕たちが隣町の小学校に通っていた10年前のことを覚えていますか。貴女は男子たちの憧れの的でしたね。僕も貴女に恋い焦がれている1人でした。あなたはその頃クラスメイトたちの中心にいて、遊びを考え出すのが好きでした。赤いおもちゃの硬貨を使った、仮想通貨の遊びを、まだ思い出しませんか? それを使って、みんなでままごとのお買い物ごっこをしましたね」
私はそこまで読んで、悲鳴を上げ、封筒を取り落とした。
確かにそんな遊びをした。
そして、架空の買い物ごっこはエスカレートして行き、架空通貨で買い物をするための等価品を用意するのに、現金が必要になったのだ。
私はクラスのおとなしい、お金持ちの息子の男子に、赤い通貨を一枚100円で買い取るように、持ちかけた。彼はそのとき、なんと答えただろうか。拒絶はしなかったはずだ。
そんなことが何度か繰り返された後、彼は突然、クラスで暴れ出し、私の顔に、理科室の薬品を――
そのとき、私の背後で、重い足音がした。