ファッションの秋!パリコレ小説大賞
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江戸前啖呵(たんか)
投稿時刻 : 2017.12.05 02:25 最終更新 : 2017.12.06 09:17
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江戸前啖呵(たんか)
白取よしひと


 花のお江戸は日本橋 三越白木屋高島屋
 小紋や絞りも華やかに
 お江戸の娘は花盛り
 でんでけでけでけ でんどんどん
 音羽屋蛭子屋柏屋と 贔屓の役者はあたとて
 江戸の流行は お美代でさ
 でんでけでけでけ でんどんどん

 嘉永七年(一八五四)将軍家定さまの御代。先年、久里浜沖に突然現れた黒船は、幕府へ開国を要求してきた。そして、その回答期限を一方的に一年と定め彼方の海へ立ち去ていた。事実上の脅迫である。
(防戦か、それとも開国か?)
 幕閣での論議は迷走したといてよい。強硬な国論もあり、その答えを導けぬままに六つ月を数えた。天子さまがおわす京の都では、剣呑な噂が絶えず流れ治安が乱れていると聞く。
 一方、江戸の町人はのんきなもので、芝居に落語・富くじと花咲く江戸を謳歌していた。なかでも江戸子の流行は、白木屋お美代の美人画である。呉服の白木屋と紛らわしいと、もぱら御茶屋お美代で通ている。これには茶屋の亭主もおもしろくないとかどうだとか、町人の笑いを買たそうだ。この美人画。日本橋の版元・耕書堂に赴いても、滅多に手に入らぬほどの人気を集めていた。
 ただ、このお美代。ひとつ・ふたつと難点がある。絵ではとんと分からぬが、身の丈五尺六寸と男にも勝る大女だ。その上、旦那衆相手に引かぬほど滅法気が強いときている。
(これでは、お美代の人気も長くはないだろう)
 そう思た者も多いはずだ。ところが、そんなやりとりが愉快だと茶屋へ通う旦那も多く、着物や帯・簪に至るまで貢ぐ者が後を絶たない。お美代は大店の娘と並べても引けを取らぬほどに着飾ている。
(あわよくば……
 そう下心があて貢いでも、そこは強気のお美代だ。
『これはこれ』
 と、旦那衆を相手にしない。このいなした態度もまた、旦那衆からすればよいのだそうだ。

 初春なれど、梅がほころぶにはまだ早い冷え込んだ朝である。ぬくい布団がたまらなく愛おしくて離れがたい。春眠暁を覚えずとはよくいたものだ。
「徳之進! ほれ徳之進起きなされ! 全くだらしのない。急ぎ登城するのです」
「母上……今日は非番でございますよ もう少し寝かさて下され……
 ふたたび布団へもぐると、ひどいことに力ずくで布団をはぎ取られた。
「あなたも家督を継いだのですから、もとしんとなさい!」
「ですから母上、今日は非番と……
「黒船が、キ! タ! ノ! ヨ!」
「く! 黒船ですと!」
 旗本神津家は、父・実親の代から通事役を賜ている。父が亡くなり、兄・実考が家督を継いだが、その兄も流行病であけなく逝てしまた。旗本二男坊、お気楽な部屋住みと決め込んでいたところ、いきなり家督を継がされた上に通事役も任されてしまた。絵心と剣術はひとかどに心得ているが、出仕などと退屈な仕事は御免被りたい思ていたのだ。母ひとり子ひとりとなた今、母の期待が煩わしくて仕方がない。
 特使に正と副がいるように、通事にも階位が定められている。経験不足なこともあり、神津は副通事を任ぜられた。そもそも通事といても、祖父が和蘭語をかじた程度であり、受け継いだ我ら親子の技量はたかが知れている。長崎に長年詰めて、和蘭通事として活躍している森山家や堀家とは違うのだ。しかも彼らは、アメリカから密航してきたラナルド・マクドナルドから英語も学んでいると聞く。
「しかし……条約の期限にはまだ間があるはず……
「来たのだから仕方ないでし! さ、早く仕度なさい」
 いそぎ仕度を済ませ、〔やこ〕の松吉とともに城へむかた。松吉は一歩さがて荷を担ぐ。
「徳之進さまもご苦労でやんすね。一緒に美人画を追いかけたのが嘘のようだ」
「全くだ……それはそうとお美代の絵は手に入たのか?」
 すると、松吉は扇子で扇ぐように手のひらを揺らした。
「何せ、耕書堂の前に夜通し並ぶ輩もいるて話でさ。これじ敵いやしやせんや」
 そういて松吉はからからと笑た。
 松吉とは年のころも近いことから、友のように話すことが多い。気楽な二男坊として長きに付き合た仲だ。それが今や、表向きは主従がはきりとした間柄である。
 江戸の目抜きは既に往来が激しい。天秤棒の親爺らが賑やかにすれ違ていた。先を歩く徳之進は悲しいことに小兵である。それに対し、荷を担ぐ松吉はひろり長身であた。何とも珍妙な主従である。
 登城すると、既に城内は『おおわらわ』であた。黒船は、なんの前触れもなしに浦賀へ現れたそうだ。そして、なに食わぬ顔で掟破りの開国を迫た。
「神津殿。すでに正使は森山殿と浦賀へむかておる。そなたも早々にむかうように」
 命を受け、着の身着のまま騎乗にて浦賀へとむかた。大概の場合、神津は副使と行動し、接待や些細な聞き取りを行うことが多い。
 浦賀では駆けつけた旗本衆が陣を構え、黒煙が立ち昇る黒船を遠望していた。馬を渡していると、ちうど正使たちが戻てきた。苦渋の面持ちを浮かべた森山に様子をうかがう。森山は、幕府が頼りとする名門通事だ。
「いかがでございましたか?」
「要求は即時開国だ。先方は自信満々な態度だよ。間違いなく我々が呑むと考えている」
「まだ六月しか経ておりません。これでは約定違反ではございませぬか」
「誠にな……しかし、決断は幾年月を掛けても変わらぬものかもしれん」
 陰る森山の表情に、聞かずにはいられなかた。
「森山殿。お上は開国されるおつもりなのですか!」
「これ! 声が大きい」
 森山は眉を寄せた。滅多なことを口走ると首が飛ぶぞと窘めたのだ。まもなく、正使の井深がやてきた。
「ペリーは、わしらを船上でもてなしたいと話している。場所は旗艦〔サスクナハ〕と〔ホークレー〕だ。然るに、我々はサスクナハへ。副使はホークレーに乗船してもらう」
「ご老中は参られないのですか?」
 井深は首を振た。
「ご老中は返礼の宴に臨席されるだろう。その場で幕府の意向が告げられるに違いない」
 この対応は幕府の常套手段だ。重責の者は、条約締結の場でなければ顔を出さない。正使の井深でさえ目付にすぎないのだ。これを将軍家の威信と考えていた。

 井深の通り、ペリーが乗る〔サスクナハ〕へは正使組。〔ホークリー〕には副使組が乗船することとなた。副艦ホークリー。船内の饗応で使われた部屋は、広さこそ限られているものの華やかの一語に尽きた。壁面や柱には彫刻が施され、色鮮やかな絵が何枚もかけてある。出された食器は眩くばかりに輝き、それは銀であると後で聞かされた。中央には大きな一枚板の卓が置かれ、その短辺の両端に艦長とこちらの副使が向かい合て座た。
『コンニチハ 艦長ノ マキンリーデス ホークリーハ アナタガタヲカンゲイシマス』
 艦長と名のた男は、満面の笑みを湛えてこちらをみた。同席の和蘭語通事が言葉を仲介する。これは、日本人が英語の通事に長けていないことを知ているからだ。
「神津……なんと申しておるのだ?」
「はあ。拙者マキンリーと申す。よろしうお願い申し上げる。と、いたところでしうか」
「そうか……では、わしらの名前を申し伝えよ」
「コチラハ、フクシノ秋月。ワタシハ神津デス。ヨロシク」
 マキンリーが手を叩くと数人の女が現れて、銀の器に盛られた料理を運んできた。卓の上には、これでもかと皿が置かれていく。
「神津……こ、これは獣の肉かの?」
「おそらく……そうでございましうか」
 湯気を放ち、油に塗れた肉塊が目の前に置かれた。胸のやける獣の臭いが辺りに満ちた。透けたギヤマンに赤い酒が注がれ、乾杯が近いことを知た。
『ソレデハ、リウコクノ ミライニ』
 マキンリーがギヤマンを掲げると皆それに倣た。私たちも慌ててその真似をする。三人ほどの女たちは慌ただしく給仕を始めた。その袴にも似た裾の長い着物は、何やらふわふわとして床に擦るだけ長く垂れており、よくもつまずかずに歩けるものだと感心した。
『ことと次第によては戦も辞さじ』
 と、強ばる我々と違い、先方にはゆとりが見える。開国へ向けて絶対の自信があるのだ。和やかに食事はすすみ、その歓談の中、秋月の放た言葉が思わぬ展開を生んだ。
「貴国の御婦人はお美しい。その長いお召し物 誠に華やかでよきものですな」
「アナタノオンナハ ウツクシイ ナガイキモノガキレイダネ」
 艦長たちは顔を見合わせた。しばし、侍の言葉を解せなかたのだ。
『ドレスノコトヲ イテイルノカ?』
『アア キトソウダロウ』
 マキンリーたちは大げさに笑た。酔てきたようで頬や鼻が紅潮している。南蛮人は顔色が悪い故、酒を飲むと茹でたようになるらしい。
『ニポンノオンナヲ ミタコトガアル セガヒククテ〔ドレス〕ハ ニアワナイダロウ ドレスハ ワレワレノモノダ ニポンジンハ ミナオナジアタマデ オナジフクヲキテイレバヨイ』
 マキンリーは豪快に笑い、その顔には嘲りが見えた。和蘭通事が言葉を選んで伝えてくる。先方の通事も気をつかているのだ。
 流石の秋月もそれに気付いた。
「何を申しておる?」
 と、私を見た目には疑念の影が宿る。
「日本の女もなかなかに美しい。ただ背がもう少し高ければドレスも似合うのだがと惜しんでおります」
「そうか! そうであたか。もとものことじ。じが、その美しいドレスはきと我が国の女にも似合うだろうと申せ。よければ着せてみせましうとな」
 秋月はご機嫌な笑みを見せた。
「キコクノ ウツクシイドレスハ ニポンノオンナニモニアウ キセテミルカ?」
 すると、マキンリーは首を振た。
『ヤメテオケ アイニク キズサイズノ モチアワセハナイ』
「残念ながら……合う寸法のドレスは持ちあわせてないそうです……
「神津。先方は誠にそう申しておるのか? あれがとても神妙な顔には見えん。どうじ? 神津」
 言葉の違いで誤解が生まれることはよくあることだ。しかし、此度の艦長の態度は明らかに我らを愚弄している。通事は全てにおいてその通りに訳すのを是としないが、思わずそれを口走てしまた。私も憤ていたのだ。
「童に着せる服はないと申しております」
「なんと……
 一言だけを漏らした秋月は、艦長を見据えた。
「我が国にも美しい女は数多おります。その証しにここへ連れて参りましう」
 それを伝えるとマキンリーは不敵に口角をあげた。
「ヨロシイ デハ ヨコハマノマエニ ココヘツレテコイ」
 ともかく、そんな流れで女を連れてくることにあいなた。正式には次の宴席を幕府が設けることになており、それは横濱で行われる。それに先だて、〔ホークリー〕を再び訪れる約束をした。
 意地を張たとうの秋月は、途方に暮れていた。馬鹿にされて思わずあんなことをいたが、城内の奥の者を連れていくわけにも参らぬし、あのドレスとか申す着物の似合う女など、とんと見当がつかない。
 しばらく沈思すると、妙案が浮かんだのかぽんと膝を叩いた。
「ほれ、美人画の……お茶屋のお美代とか申したな。聞いたところによると上背があるらしい。その女を連れて参れ」
 秋月が役人へ声をかけようとしたところ、私は慌てて遮た。
「せ、拙者が連れて参ります!」
「なに! お主が連れて参ると?」
「白木屋なら店も存じておりますし、何かと手早いかと……
……ま、誰でもよいわ。それでは急ぎ頼むぞ」
 許可を得て、江戸へとて返した。お美代は憧れの人であた。しかし、私は背が低い。茶屋の近くへ赴むいても、とても声をかけるなどできなかた。せいぜい美人画を集めて満足するがよきところと諦めていたのだ。しかし、幕府の御用向きとあらば正々堂々と話ができる。
 白木屋は今日も賑わていた。しばらく遠目に様子を見ていると、お美代が現れた。客と並べばその上背が気になるが、すらりとした柳腰は悩ましく、何より色白の顔が美しい。
「お……お美代殿でござるな?」
 いきなり侍から声をかけられたからなのか、一瞬細い眉を寄せたかに見えた。しかしそこは茶屋の娘である。笑顔をつくり、
「はい。そうでございます」
 と、返してくれた。
「某、幕府通事役・神津徳之進と申す」
「その通事役さまがなんの御用でございましう?」
「それがの……
 見あげると、ひたとこちらを見つめるお美代の眼差しに射られ言葉に詰まてしまう。年甲斐もなく狼狽し、店の亭主とともに聞いてもらいたいと願いでた。お美代は白木屋の奉公人だ。いずれ亭主の許しが必要となる。
 亭主は奥座敷へと案内してくれた。用件を伝えると、まず言葉を発したのはお美代だた。
「毛唐の衣を着るのはよいけれど、そのまま人身御供なんてことになりしませんか?」
 人身御供と聞き、亭主は驚きの顔をお美代へむけた。ありえる事だと思た。あれだけ日本を侮辱したのだ。お美代が美形だと知た途端、奴隷のように連れ帰りたいなどと理不尽な要求をするかも知れない。きとした顔でこちらを見るお美代は、それでもやはり美しかた。ふと、安易ではあるけれど、その美しさにこの身を捧げてもよいと思た。
「ご安心を召され。万一の際は、この神津徳之進。一身をかけてお守り申す」
 暫しお香はこちらを見た。小柄なこの男の話を信じてくれるのだろうか。
「よござんす。わたしでお役に立てるなら一緒に参りましう」
 亭主は、ただ見守るばかりであた。お美代の気性を心得ているのだろう。是非を話しても、決めるのはお美代なのだ。
「感謝申し上げる」
 と、私は頭を下げられるだけ下げた。
「お上は黒船を恐れているのさ。毛唐から求められ断れる役人なんていやしないよ」
 脇目を振りながら、お美代が小声で放たその言葉は真実である。
 
「秋月さま。これはいたい……どうしたことです!」
 浦賀の番所。〔ホークリー〕乗船のその日に秋月は寝込んでしまた。
「これは……済まぬ。面目ない。昨夜より腹が下ての。どうにもならぬのだ」
 秋月は寝込んでいた。
 その顔色は銅藍でも塗たように青白く、とても狂言には見えない。此度の訪問は非公式である。しかし、それでも横濱の会談に向けて何かの粗相があれば、腹を切ることになるだろう。外には既にお美代を待たせていた。念のため髪結いも連れてきている。既に賽は振られているのだ。肚を括て番所をでた。
「拙者一人が随行することにあいなた。それでは渡船致そう」
 強ばる表情に何かしらを悟たのか、女二人は無言で舟にのる。
 ゆくりと呼吸を繰り返すような櫓の動きに合わせて、舟は微かに揺れている。海は凪いでいた。面前に聳える黒船を一同無言で見あげた。何度見ても厳めしい鉄の船である。
 〔ホークリー〕へ乗船すると、そのまま着替えの間に案内された。壁には淡い紫がかたドレスが掛けられている。それは確かに美しいもので、悪意によて準備されたものではなかた。着付けのために、南蛮の女がひとり付いてくれた。
「頼むの……
 と、その場を離れようとすると、髪結いの菊という女が申し出た。
「仮にも南蛮の方にお見せするとあれば、わたしも髪結いの意地があります。この方の他にも一度、南蛮女の髪を見せて頂けませんか?」
 この者。常からお美代の髪を結ていると聞く。その気概に感服した。
「わかり申した。では一緒にこれへ」
 マキンリーたちに挨拶し、菊を紹介した。そして希望を述べると、手を叩き女を呼び寄せてくれた。菊はまんじりともせずに、女たちの髪を眺めた。ドレスに似合う髪型を吟味しているのだろうか。暫くすると、
「よござんす」
 と、頭を垂れた。
『サテ ソノビジントヤラガ タノシミダ』
 マキンリーが笑うと、ほかの乗員たちもそれに倣た。着替えが終わるまで、酒が振る舞われる。赤い酒にも少し慣れてきた。じんわりと体は温まるが、これからを思うと冷や汗がでる。
 間もなく、お美代の着付けを手伝ていた南蛮女が姿を現し、
『キガエガ オワリマシタ』
 と、告げた。いよいよである。洋靴を履いているのか、その足音が近づいてくる。
 マキンリーたちがざわついた。その立ち姿は、お美代であてそうでないようにも見えた。洋靴を履いて更に背丈がのびたお美代は、元来南蛮の女よりすらりとしていたこともあり、きりりと閉められた腹は細く儚く、歩くたびにふわり揺れる薄紫のドレスはまるで天女を思わせた。菊が腕を振るたのであろう、ほぐした黒髪は美しく巻き上げられ、さぱりとうなじを出したその様は、きりりとした顔と相まて見るものを釘付けにした。
 お美代は臆することなくマキンリーたちの前へ進み出ると、両手を前に揃え静かに頭を下げた。誇り高き和式のお辞儀だ。
『オドロイタ コノヨウナ レデガ ニポンニハイルノカ』
 乗員らは一様に目を大きく見開き、お美代に見入ている。それは壁際に控えていた南蛮女たちも同じであた。お美代は日本女性として面目を果たしたのである。上機嫌のマキンリーたちは、それ以後失礼な言葉を吐かなかた。
 ところがだ。まさに杞憂していたことが起きたのである。
『オミヨサン アメリカニ キマセンカ? アナタホドニ ウツクシイカタナラ ワガコクデモ ダイジニサレル』
 私は思わず手を差しのべてそれを制した。
「オミヨハ トコウスル コト アリマセン」
『シプ! オマエハ クチダシ スルナ』
「この方はなんといているの?」
 と、お美代は小首を傾げこちらを見た。
「あなたを亜米利加へ連れて帰りたいといている。抗議をしたらお前は黙れと……
『アナタハ ドレスヲキテコソ ウツクシイ ヤバンナキモノナド キルベキデハナイ』
 マキンリーは、お美代に対しては猫なで声をだした。その訳も、お美代は求めた。それを聞くと、お美代は椅子を大きく鳴らして立ちあがた。一同は驚き静まりかえる。そして、マキンリーたちを見下ろすと、一人靴音も高らかに部屋から出て行たのだ。マキンリーは両の手を上げて、「何だあの女の態度は」などと文句をいている。室内は緊迫感で満ちた。この上執拗な態度を通すのであれば、お美代との約束を守らなければならない。
 ふたたび姿を現したお美代は着物を着ていた。髪も結い直され簪が煌めいている。草履を摺り、マキンリーの前に立つやいなや、ぐいと眉をあげた。
「やいやい! 江戸子を馬鹿にするんじないよ! 天下に聞こえたお江戸八百八町だ。その目開いてよく見てくんな。高島屋の江戸小紋たこのことだよ!」
 お美代は両の手を広げて袖を晒した。白く控えめに散らした菊の花に金糸銀糸の鶴が舞ている。深みがあり上品な柄であた。
「帯に細引きは三越の誂えもんさ。そして……
 髪に手をやると簪を無造作に引き抜き、その切先をマキンリーへ向けた。船員たちは思わずひるんで腰を浮かせた。
「そして、この簪。金竹堂の銘品だよ。これがあんたらに作れるかてんだ!」
 そういた頬に一筋の涙が流れた。いかに気が強いといても、お美代も無理をしているのだ。その涙に気づき、マキンリーは気をつかいながらも諦めず、お美代の側へ寄ろうとした。
「そこまでだ」
 私は二人の間に割て入た。立ち塞がる私に向けてマキンリーは睨みをきかせた。
『オマエラハ ジブンノ タチバヲ リカイシテイナイ』
 既にその声は聞こえなかた。腰を沈め、刀の柄へ手を掛けた。マキンリーは足を止め、何か話そうと口を動かすが言葉にならない。そこへ鯉口を切た音が響く。
「拙者は本気でござる。そこもとの首を刎ねたあと、この女と共に果てよう」
 和蘭通事が慌ててマキンリーへ通訳した。
『コノサムライハ ホンキダ イノチヲ ステル カクゴデス』
 マキンリーは後ずさり、呆れたように首を振て退室していた。

(帰路の渡し船にて)
「南蛮人は何で引き下がたのでしう?」
 肩越しに振りかえると、安堵したのかお美代の顔は穏やかになている。
「さすがに血が流れたとあれば会談に影響すると思たのかもしれん。奴らの大将はあくまでもペリーだからな」
 〔ホークリー〕は遠くなり、その黒煙と船影が等しく見えた。
「あら、それでは徳之進さまは、それを分かていて刀に手を掛けられたのでございますか?」
「いや、それは……
 と、思わず後ろ首を叩いてしまた。
「あの刹那、そのような分別の余裕はなかた。本気だたさ。奴があと一歩踏み出していたら抜き打ちで……
 そこまでいうとお美代は、
「ま!」
 と声をあげた。
「わたくしは嬉しうございました。お約束通り、徳之進さまは身を楯にして守てくだす……わたくし初めてでございますの」
「ん? 初めてとは?」
 すると、お美代の後ろに座た菊が咳払いをした。見ると何やら眉を寄せ、目で訴えている。
「絵に描かれるようになてから言い寄る殿方が多くな……けれど私は全くそれに興味がありませんでした」
 湊が近づいた。黒船帰りとあて役人たちが浜辺に群れている。それにしても大仰な出迎えだ。
「嬉しか……徳之進さまのお背中が愛おしく感じました」
 そう漏らすと、恥じらうようにお美代は身をかがめた。
「ん? どうしたのだお美代殿具合でも悪いのか?」
 ふたたび菊が咳払いをした。その顔はまるで母上のような般若顔になている。
「あ……それはもしや」
「神津さま。そこまで女にいわせるのは罪てもんですぜ」
 居たたまれなかたのか、船頭が白い歯を見せた。
(まさか……まさかに……あのお美代が……
 あの時、刀へ手をかけたとき、あれは付き添いの通事として手をかけたのではなかた。
「お美代殿。もしよければ拙者に添うてはもらえぬだろうか」
 浦賀の海は今もて穏やかに凪いでいる。すこしお天道様が傾いたのだろうか。水面がうろこのように琥珀に輝いた。わたしはお美代の肩を起こし、返答を願た。

 浜辺の役人たちは、亜米利加へ密航を企てた侍を引捕らえたところだた。その侍、名を吉田とか申したそうな。日本は横浜会談で開国に踏み切た。この一事は、永きに渡て栄えた徳川幕府の終わりを早めるものとなた。動乱の中、江戸も乱れた。
 しかし、夫婦となた徳之進たちは、潔く武家の身分を投げやて平穏な時を過ごしたらしい。(了)
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