彼女は愛している
ある街に仕立て屋を営む若い夫婦が暮らしていました。
さほど大きな街ではなか
ったため、お店も大きくはありませんでしたが、夫であるランカータは大層腕の良い職人で、仕立てられた服は人気があり、お店も二人が暮らしていくには充分なほどに繁盛していました。
妻であるエシィは美しい人間でした。
光沢の抑えれた赤い髪は長く、ほどよく人の目を惹きつけては、彼女の着ていた服を際立たせていました。
ランカータの仕立てた服を来て、街を歩けば、彼女は生きたコマーシャルとして機能し、人々の目に止まっては、憧れを抱いた年頃の娘達がお店に溢れてしまうようなこともあるほどです。
エシィは夫ランカータの仕立てる服をとても愛していました。
元はランカータが一人でお店を営んでいたのですが、お客としてやってきたエシィが彼の仕立てる服に惚れ込み、そう長い時間をかけずに、二人は夫婦となったのです。
やさしく腕の良い職人であるランカータとモデルとして美しいエシィが仲睦まじく働くお店は、街の人々の評判もよく、商品だけではなく、夫婦自体も皆に気に入られていました。
職人である夫を献身的に支える美しいエシィは、素晴らしい妻であると老若男女を問わずに評判でした。
ある日、エシィが昼食を支度をしていると工房よりランカータのうめき声のようなものが聞こえてきました。エシィはすぐに工房へ向かいます。
どうしたのあなた?
慌てて駆けつけたエシィの目に映ったものは、仕立て途中の生地でした。あるはずのない赤色が鮮明で、その赤がランカータの血であると気付くまで、エシィはただ色を見つめていました。
ランカータはミシンをかけているときに操作を誤り、自らの右手の指を巻き込んでしまったのです。
右手を押さえつける左手も赤く染まり、ランカータの両手は真っ赤な血に塗れていました。
エシィはすぐに包帯を用意して応急処置を施しました。それからふたりはお店を閉めて、病院へと向かったのです。
お医者さんに見てもらったところ、右手の指に後遺症が残るだろうとのことでした。
数日後、痛みも引き、ランカータは恐る恐る作業を再開します。今までのように、いつものように、そう思いつつ作業を進めようとしましたが、どうにも上手くできません。怪我の後遺症としての右手の震えもそうですが、なによりも大きかったのはランカータの心に機械への恐れが生まれてしまったことでした。
なんとか時間をかけて服を仕立てますが、その仕立てられた服に、以前のような輝きはもうありませんでした。
恐れを抱きながら、怪我をかばいながら仕立てた服は、陽気でやさしい万全の人間が幸せに包まれながら仕立てていた服に到底、及ばなかったのです。
エシィもどうにか元の服が仕立てられるようにと夫ランカータを支えようとしましたが、どうしても以前の輝きは取り戻せません。幸せで溢れていたお店は代わり、暗い空気を持つようになりました。そんなお店にお客があふれるようなこともなく、それがさらにランカータを焦らせました。
繁盛していたころの蓄えがあり、またやさしい街の人々が少しばかりでも服を買っていってくれるため、当分の生活には困りませんでしたが、腕利きの職人であったランカータにとって、自らの描く理想とはほど遠い服しか仕立てられない状況は、よけいに彼を追い詰めました。
事故から一年が経ちました。
ランカータの仕立てる服は相変わらず昔の輝きを取り戻せないままでした。もうその昔のことが夢であったのではないかと思えるぐらいです。
エシィは昔のランカータが仕立てた服を着ていました。以前に作られた服は、作成者の没落とは切り離されて、昔のままの輝きを放っていました。
服もエシィも一年よりも前のときのまま美しく存在していました。
ただ、新しく美しい服は作られませんでした。
エシィは夫ランカータが仕立てた美しい服を愛していました。
エシィは夫ランカータを愛してはいませんでした。
「私と離婚して頂けますか」
エシィは一年間支え続けて、それでも副長の兆しを見せないランカータに見切りをつけました。もうこの人は美しい服を生み出すことはできないのだ、と諦めたのです。
ランカータは当初はショックを受け、どうにか考え直してほしいと懇願しました。エシィへの愛を幾度も伝えました。しかし、それでもエシィの気持ちは固く、ふたりはほどなくして別々の道を進むことになりました。
エシィは独り身となり街を出ました。
荷物はお気に入りの美しい服たちです。
次はどんな街が良いかしらん。賑やかな街を歩けば、エシィと服の美しさに多くの人が目を奪われます。静かな街の片隅で座っていれば、エシィと服は一輪の花のように野に咲いて、通りがかった人の心へ暖かなやすらぎを与えました。
そうやって、エシィはお気に入りの街を見つけるまで各所へ移り住み、そして落ち着くと、昔のランカータが仕立てたほどではないけれど気に入った服を来て、一人、暮らしていきました。
あれから三十年が経ちました。
エシィは年老いていました。
しかし、エシィはまだ美しさを持っていました。年相応に老いた姿ではありましたが、それは無駄を削ぎ落とすように枯れていて、彼女が持つ美しさは衰えがない様子でした。
エシィが街を散歩しているとある少女が目につきました。幸せそうな表情であるく少女は、在りし日のエシィのように、彼女が着ていた服を輝かせていました。
エシィは少女に声をかけました。
その服はどこで買ったの?
少女は答えました。
遠い街で働いている父親から誕生日プレゼントとして送られてきたのだと。だから幸せなんだと。
その街の名前はエシィに取って聞き覚えのあるものでした。
ずっと忘れていましたが、エシィにとって一番幸せだった時代を過ごした街の名前でした。
そう、ランカータと夫婦として仕立て屋を営んでいた街です。
エシィはあの街に向かいました。
駅から出て、迷わずにお店のあった場所へ歩きました。
そうしてたどり着くと、お店はまだ、あのときの場所に古ぼけた様子で、しかし面影を残して存在していました。エシィはおそるおそるお店の扉を開き、中へはります。扉に付けられていた来店を告げる鐘がささやかな音量で鳴り響きました。
お店の中にはあの少女が着ていたような服が並んでいました。
飾られている服たちは新しく、それでいて、美しく輝いて見えました。エシィが上気する心を抑えながら服を眺めていると鐘の音を聞いたらしい店主が奥から顔を覗かせました。
ランカータです。
歳をとっていましたが、それでもすぐにわかりました。ランカータもやってきたお客がエシィだとすぐに気付いたようです。一瞬、伺うような顔を見せたあとで、表情をこわばらせました。
エシィはランカータに話します。
素晴らしい服ですねと。
ランカータはエシィに話します。
時間をかけて、やり方を見直し、そうしてやっと恐怖も克服したと。
エシィは試着させてほしいと頼みます。ひとつ気に入った新しい服を持ち、小さな試着室へ入りました。そうして袖を通すと、鏡にさぞ幸せそうな表情を浮かべる女性が映っていました。
エシィは試着室からでて尋ねました。
どうですか?
たいそうお似合いです。
ランカータは答えました。お世辞ではありません。
ランカータの仕立てた服とエシィは、
モデルのようにお店の中をゆっくりとした調子でエシィは、ランカータの前まで歩きました。
オーダーメイドで服を仕立ててください、とエシィはランカータに言いました。
それから、エシィは最上級の微笑みを浮かべます。
「私と結婚して頂けませんか」
<了>