彦二郎の猿尾
尾張国海西郡笹塚村の彦二郎は、近隣の村までその名が通るほどの変わり者であ
った。畑仕事の最中でも目の前を蜻蛉が通り過ぎようものなら追いかけていなくなる。三日三晩姿が見えないと村人が心配して集まっていれば兎を抱えて森から現れる。どんなに叱られようともへらへら笑っているばかりで、半刻後には鍬を放り出して川の魚を眺めている。まさに兎の糞みたいな性格で家族はもちろん村人全員が扱いあぐねていた。
「堤屋のところの倅には困ったものだ。いっそのこと地頭様から頼まれていた城の普請に行かせたらどうだろう」
「いいや、輪中を作らせるのが先だろう」
2ヶ月前の大きな地震で蟹江の城は倒壊し清洲の城は損壊した。余震は3週間近く続き、山が崩れてなくなった村もある。笹塚村でも木曽川に繋がる鵜戸川の水が溢れ田圃2枚が駄目になった。もともと標高が低く水害に合いやすい土地であったため、集落を囲むように輪中と呼ばれる堤防を作る案がかねてから村人の間に持ち上がっていた。
「大変なのはどこも同じ。ならば村を守るのが先決だ。堤屋には輪中を作らせよう」
乙名たちの寄合で彦二郎の処遇が決まり、翌日から堤屋には輪中の普請が命じられた。さすがの彦二郎も惣掟の厳しさは十分に承知しているはず。家族が追放される憂き目を怖れて真面目に働くだろうと誰しもが考えていた。
堤屋の親父と兄弟が丘の土を崩している間、彦二郎は櫓に登り一日中川面を眺め続けた。不安になった乙名が親父に尋ねると、彦二郎は水の流れを見極めていると言う。堤を築く場所を決めるために必要なことだと説得され、納得出来ないまま乙名は引き下がった。
5日ほど経ち川辺に降りた彦二郎は家族を集めて何やら相談をしていた。ようやく作業が始まると安心していた村人を横目に、堤屋一家は川に沿って堤を作り始めた。川と仲良くするためと彦二郎は言うものの、にわかには信じられない。自分の田圃に水を引くつもりではと乙名たちが疑心暗鬼になる間も工事は着々と進められた。
百間を超える細長い堤は下一色村との境を抜け、西一色村との十字路で盛土を作った。痺れを切らした乙名たちは彦二郎を呼びつけ意図を説明するよう求めた。
「猿の尾に似ているだろう。これが水から村を守るのだ」
要領を得ない話に怒った村人は、掟に従い堤屋一家を村から追い出した。河口の新田で彼らを見掛けた者もいれば、若狭へ向かって北上したと言う者もいる。彦二郎たちの行方は杳として消息が知れない。笹塚村の村人もだんだんと彼らのことを話題にすら出さなくなっていった。
彦二郎たちがいなくなった翌月、連日の雨で木曽川が氾濫した。後に天正の大洪水と呼ばれる水害である。川の流れが変わるほど、海西郡一帯は水に浸かり、流域の家屋は次々と流された。大地震から1年も経っていないことから、この世の終わりが来たと誰もが嘆いた。せっかくの新田は沼地となり、収穫を迎える作物は泥に塗れて腐っていった。どのくらい死んだのか誰にも分からない。そんな中、笹塚村だけは被害が少なかった。鵜戸川へ流れ込んだ水は彦二郎が作った堤に沿って流れた。わずかに溢れた水が地震で駄目になった田圃を浸す程度で、輪中がないのにも関わらず集落への被害は不思議と軽微なものだった。
鹿子島に住む忠平親子が視察し、後にそこら中で作られることになる長い堤は猿尾と呼ばれる。集落を守る輪中ではなく水の勢いを弱める堤は木曽川流域の住民を守った。20年後に御囲堤が完成し美濃国が水害に悩まされても、彦二郎が作り始めた猿尾は口伝で人々を救い続けた。
鹿子島町を始め、宮田町、草井町など猿尾の史跡はいまでも残っている。ただ彦二郎の名を伝える者は誰もいない。