子供の頃、僕には異性の幼馴染がいた。
幼稚園の年中組までの付き合いだったから、四、五歳の頃だったろうか。
彼女の名前は仮にたいちゃんとしておこう。

たいちゃんとは社宅の隣同士で、同い年だった。物心がつく前から一緒にいたのでよくわからないが、親が言うには僕が二歳の頃に、引っ越してきて以来の付き合いだったらしい。だからよく一緒に遊んだし、互いの家同士を行き来もした。

うちの母親が「うちの子と仲良くしてやってね」というと、

元気よく「わかりました。仲良くします」と答えていた。

それをどう勘違いしたのか、僕はたいちゃんが僕の世話係になったとぼんやり錯覚していた。なぜなら生まれてこのかた、僕にとって仲がいい人というのは母親しかなく、父親も兄もあまりに身勝手な生き物で、仲が良い人種とは考えていなかった。だから『仲がよい＝母親みたい＝僕の世話を焼いてくれる』という詭弁を幼い頭の中で成立させてしまっていたのだろう。

母親の話では、とにかく僕はどこへ行くにもたいちゃんの後ろをついてまわったらしい。木登りもたいちゃんに教わったし、近所の柿の木に登って、今時珍しいと、そこの家主に買い物袋いっぱいの柿をお土産にもらってきたというエピソードもあるらしい。無論自分の記憶にはない。

そして、服装の乱れ、例えばボタンや襟なおしをしてもらい、鼻水が出ると「たいちゃん。鼻、鼻」といって自分でかまずにたいちゃんに鼻を突き出してかんでもらっていたらしい。

だが、そんな僕にたいちゃんは辟易するでもなく。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたらしい。母性本能でも働いたのだろうか？　多分向こうは向こうで出来の悪い子分でも持った気でいたのだろう。


そしてある春の日。
それはよく晴れていたが、風が強く肌寒い日だったことを覚えている。

たいちゃんが遊びに来てしばらくすると、母親がたいちゃんにお財布を預け、僕とたいちゃんの二人で近所におつかいに行って欲しいと頼まれた。

僕らは嬉々として飛び跳ねた。
おつかいを頼まれたことが大人になったみたいで嬉しかったし、しかも、そのおつかいの内容が近所のたい焼き屋さんでたい焼きを買ってくることだったからだ。
僕らは喜び勇んで家を駆け出し、土手下街路沿いのたい焼き屋さん『大黒庵』に向かった。

前述したように、外は肌寒い風が吹き、僕は多分何度もたいちゃんに鼻をかんでもらったことだろう。土手の上に植えられた桜並木は葉が落ちて蕾のまま暖かくなる日を待っていた。

『大黒庵』は良く言えば味のある風情の建物で、老舗のたい焼き屋さんだ。悪く言えば、焼け焦げたりサビの目立つ汚らしい掘っ立て小屋だ。が、味は無類と評判である。
そして『大黒庵』という名なのに何故か看板代わりに布袋さんの木彫りの人形が鎮座している。幼稚園児の僕らよりでかい。僕らはよく、そのつやつやしたお腹に触ったものだ。

「どうして布袋様なの？」と聞いたことがある。

店のおじさんは苦笑いして、「七福神は、本当は５人しかいなくて、代わり番こに七役をこなしてるのさ。だから布袋様も大黒様も一緒でいいんだよ」と言っていた。確かに今思えば福禄寿や寿老人の違いなんかよくわからない。ていうかたい焼き屋なんだから恵比寿様だろうと遅らばせながらツッコませてもらおう。

お店のおじさんは、みんながおじさんと呼んでいるから便宜的に僕もおじさんと呼んでいたが、実際はおじいさんで、顔の皺は笑うとさらにしわくちゃになり、どこが目でどこが口だかわからなくなるくらいだ。そして年季の入った職人の証と自称する手の平は、火傷をくりかえした固く厚い皮になっていて、頭をなでられるとザラザラした。

大黒庵につくと、僕らは店の外から窓ガラス越しに焼き場の風景を覗き込む。店はオープンキッチンみたいな作りになっていて、今は、まだ何も焼いてないみたいだ。でも営業中の札がかかっている。読めないけど緑色は営業中だ。

たいちゃんが扉をあけて

「こんにちは。くださいな」と声をかける。

ストーブの前に座って新聞を読んでいたおじさんが、

「やあ、いらっしゃい。嬢ちゃんたち」と笑いかける。

「今日は『おつかい』でたくさん買いにきたのよ、五つずつふた箱。でもそのまえに、二人分一枚ずつ焼いてね」

僕はたいちゃんの言葉に驚いて「勝手に買い食いなんてしていいの？」とたいちゃんに小声で聞いた。

「何いってんの？　出かけるときにおばちゃんがそうしなさいって言ってたじゃない。忘れたの？」

と問い返してくる。忘れるも何も、よく考えたら、すべてたいちゃんにまかせっぱなしなので、わかるわけがない。僕は作り笑いでその場をごまかす。

と、おじさんが訊いてくる。
「おお、今日は上客だねお嬢ちゃん。中身は何にする？」

「あのね。片方はつぶあん５つ。もう片方はカスタード２つとつぶあん３つ。そして今の私のぶんはつぶあん。あんたは何にする？」

「ええ、たいちゃん。つぶあんなんか食べるの。カスタードじゃないの？」

「じゃあ、あんたはそうしなさいよ。私は断然つぶあんの気分なの」

それを聞いたおじさんは「おお！　お嬢ちゃんはわかってるねえ。やっぱたい焼きはあんこがぎっしり入った焼き立てを頭からがぶりと食べるのが通ってもんだよ」と褒め称える。

そうまで言われて、僕はカスタードと主張する度胸はない。

「じゃ、僕も」としぶしぶつぶあんを注文した。


しばらくして、焼き上がったふたつのたい焼きをそれぞれ貰い受けるとたいちゃんは、「ねえ、お外で食べるわよ」と切り出す。

店のおじさんが、「今日は外は寒いよ。風邪引いちまうからストーブの側にいな」

というのを丁寧に断って店を出、土手に上って桜並木のベンチに座る。
ときおり寒風がピューッと吹き過ぎ、僕は身を縮める。

「いただきまあす」と言ってたいちゃんがたい焼きにかぶりつき、おいしそうにもぐもぐする。

僕はあんこのお菓子は年寄りの食べ物だと思っているので、恐る恐る匂いを嗅ぐように口を近づける。

「寒いから一段と美味しいよ。ほら食べなさいよ」

僕はたいちゃんがするように頭からかぶりつく。すると表面が香ばしい焼いた卵の香りがするふんわりとした生地から、温かいあんこが口の中に押し出され、食道をとおりお腹の中に落ちていく。そしてお腹の中から陽だまりのようなぬくもりがじんわりと身体に広がっていく。

僕は目を見開いて、「おいしいよ。たいちゃん」と叫ぶ。

そしてがぶがぶ食べ始める。

「ほらほら、慌てると口の中がやけどして皮がめくれちゃうわよ」

そうたいちゃんが忠告してくるが、その通りなのだけどやめられない。大人の味がわかった気がした。


「あのね。あんこは何で甘いかわかる？」

「そんなの知ってるよ。お砂糖が入ってるからだよ」

「そうだけど、実はお砂糖だけじゃなく塩も少しだけ混ぜるんだよ」

「ウソだい。塩は辛いんだよ。あんこは辛くないじゃん」

「ほんとよ。塩味が甘さをより引き立てるのよ。隠し味っていって大人の味なのよ」

「……ウソだよ」とその日の僕はたいちゃんの言葉を本気にしなかった。


そして次の日。たいちゃんは遠くの街に引っ越していった。
僕は、それを前もって聞いていたが、その言葉が発する意味と事実をよくわかってなかった。誰かと別れるというのは生まれて初めてだったから。

トラックに乗って運ばれていくたいちゃんちの家財道具と車をお見送りした時も、

「ねえ、たいちゃん。春休みが終わったら帰ってくる？」と聞いて周囲を困惑させた。

もう二度と会えなくなるという事実を飲み込んだとき、僕はぽろぽろと涙を流した。自分では泣いてるつもりはなかったので喚きはしなかった。でも、涙だけがぽろぽろこぼれた。

たいちゃんが車から降りてきて、笑顔でそれを拭き取って、鼻をかんでくれたが、僕はしゃくりあげることをやめられなかった。

そして時間が来て、たいちゃんちの銀色のセダンは街を去っていった。

それからしばらく、僕はあん入りのたい焼きもあんこのお菓子も頑として食べなかったと母親が時折回顧する。

多分、幼かった僕にとってあんこは隠し味が強すぎたのだろう。
たいちゃんの本当の名前は忘れてしまったけど、そのことはよく覚えている。

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