時は２０１９年春。芸能人が煙草も酒もお忍びデートすらも、週刊誌のスクープを待たずして、あっという間に世間の目に引きずり出される時代。人々を分け隔てるプライバシーの壁が透明に近づき、インターネットにないものはないと揶揄されるこのご時世に、『彼』の名は実はほとんど知られていない。
『彼』というのも単なる概念にしか過ぎない。『彼』が人間ではないことは確かだが、そこに性別を見いだせない不安定さについつい、ラベルを貼っただけなので、どうかご容赦いただきたい。
　さて、どうして私がこんな文章を書いているのかと言えば––––いや、まずは『彼』について簡単に紹介したいと思う。私が『彼』を初めて目撃したのは、ちょうど１１歳の春のことだ。

「卒業しても友達でいてね！」
　小学一年生の頃からずっと仲の良かった留美が、感極まった表情で時々、鼻をすすりながら私の手を取る。いつもとは違うフォーマルなワンピースに身を包んだ彼女は、普段のガサツで乱暴な姿はどこへやら。お嬢様のような気品すら漂わせている。
　卒業式。お互い、公立中学校に進学して、家もさほど離れているというわけでもないから、数週間後には同じ通学路で肩を並べて歩くと思うと、実はそれほど涙も出ない。というよりも、ふたりともスマートフォンを持っているのだから、どうせ明日にはスタンプの投げ合いをしているわけで。
（素直に泣けるのって才能あるわ）
　もちろん、そんなことを本人の前で口にするほど、もう幼くはない。適当に慰めの言葉を投げかけて、彼女の手を握り返す。親友ぶりを満足のいくまでアピールしたあと、別の仲良しの友達のもとに走って行く留美の背中を見送って、小さなため息をひとつ。それから、キッと顔をあげて、雑踏で賑わう体育館をあとにする。
　そう。私には、心に決めたことがある。ずんずんと渡り廊下を歩いて、彼がいつもそうしていたあの場所を目指す。彼はひとと群れない。いつでもクールに非常階段の踊り場でこう言うのだ。
『ひとはひとりでは生きていけぬ』
　子どもらしからぬ哀愁をその背中に漂わせ、煙草に見立てた草木を咥える姿は、くだらないことで女子にちょっかいをかけては歓声をあげるクラスメイトの男子とは違って、とても魅力的に見えた。
　女子グループにいれば、誰が誰を好きだとか告白しただとか、恐ろしいほどのネットワークで拡散されることを知っている。だから、そこに一度も名前の上がらない彼は、同世代の女子たちからはノーマーク。もちろん、私もそれらしい言動をしたつもりはないし、気づかれていないはず。それもそう。この日のため――
「柊くんっ」
　柊くんは、卒業式の今日この日にも、相も変わらずそこにいた。私の声にちらりと視線を送るが、まるで興味のなさそうに肩をすくめるようにして、また空を見上げる。そんな彼と同じ空気を吸いたくて、柊くんの隣に立って空を見上げる。そこにはいつもと変わらない空が広がっていた。
　しばらく私たちは無言で空を眺めたあと、柊くんがまたぽつりと口を開く。
「卒業式って言うけれど。なにから卒業するんだろうな……」
　小学校から。
　咄嗟に言いかけて慌てて口をつぐむ。違う。彼は、そんな単純な『卒業』を言っているわけではないのだ。もっとミステリアスで意味の深い『卒業』を指している。　
　私は必死で、柊くんが興味を持ってくれそうな言葉を探す。私は決して馬鹿じゃない。塾にだって通っているし、模試の成績も結構良くて、塾の先生から私立受験を勧められるぐらいだ。だから、ここで気の利いた言葉が言えなくてどうする。私。
　柊くんは、決しておしゃべりなほうではない。だから、最悪さっきの言葉で会話は終了。私たちは先生たちに呼び戻されてしまう。なんのために二年間、我慢してきたのか。今だ、私。頑張れ、私。
「……私たち、も……卒業、しない？　その……クラスメイト、から……とか……あははは……」
　なんとか紡ぎ出した台詞はしかし。あれだけ決意していた私の心とは裏腹になんとも弱々しく、最後なんて照れくささで笑うほかなかった。だけど、ここでフォローの言葉を足してしまったら、それこそ柊くんに呆れられてしまう。だから、私はそれ以上なにも言わず、柊くんの言葉を待った。遠くの喧噪が嘘のように静かだ。というか、居たたまれない気分で意識がどうにかなりそう。
　そのとき、私は見た。不意に現れた黒い影。振り返ると、そこになんとも形容しがたい男が立っていた。出で立ちはジャージを着た、毛むくじゃらの体育教師だが、梅干しでも食べたのかってくらい、すごく酸っぱそうな顔をしていた。それから大きく口を開けて、なにかを食べるような仕草。そしたら、柊くんがやっと口を開いたんだ。
「あれ、なんの話してたんだっけ？」

　これが『彼』のファーストインパクトである。おわかりいただけたであろうか。なんとも甘酸っぱい、よくある恋バナのワンシーン。そこに現れた酸っぱい顔の男。いや、あれが男だったのかはわからない。きっと、人あらざる者を私の脳が勝手にそう認識しただけだ。とにかく、彼は食べたのだ。私の初恋を。ちなみに、柊くんはそのあと、他県の中学校に転入して、今も行方はわからない。
『彼』の話は、さらにある。それは、私が１６の夏。同級生の仲の良い男子とショッピングモールで『デート』をしていたときのことだ。

　良太くんは、クラスでも人気のある男子だ。女子ネットワークじゃ、かなりモテ男で有名だ。とは言っても、本人はそんな話を気にしているそぶりもなく、結構アプローチしている女子がいるのに、素通り。
　そんな彼とは同じ部活だ。小学生の頃の黒恋歴史を思い出しては、深夜に悶絶していた私は、それを引きずりに引きずって中学は恋とは無縁の生活を送っていた。が、これではいけないと、漫画雑誌についてきたコスメグッズで化粧を覚えて、高校では彼氏のひとりぐらいとはと、軟弱な精神を立て直すために、あえて剣道部に入ってみた。
　そしたら、超細身。超イケメン。男子女子、分け隔てなく優しくて、だけど、ちょっと陰があって、時々悲しそうな目つきに、私の心はズッキュン。みんなの中にいるのに、ひとりだけ別の世界にいるようなミステリアス。たぶん、私はこういう男がタイプなんだと思う。
　これはキマシタワって思っていたのに、やっぱり人気の男子だった。だから、この恋も卒業式行きかなって思っていたのに、すごく面倒見が良くて急接近。
　きっと本人は私の気持ちなんてちっともわかっちゃいないと思う。女子グループでは、愛されたいより『愛したい』男ランキング一位。その理由は、母性というのか、そういうのをくすぐる『私がしてあげなきゃ』タイプだったから、特に上級生がアプローチしていたみたいだけど、とにかく彼の気持ちに関係なく、『私が』ってやつ。この気持ち、伝わるだろうか。
　そんな彼とふたりで休日にショッピングモールに行くことになって、別に手を繋ぐわけでもないのに、隣を歩いているだけで胸が弾けそうになる。ほかの女子たちを出し抜いたという優越感もあるけれど、今は一緒にいて、『あ、次はこっちだよ』とか『これ、どうかな』って積極的に彼をリードをしたい気持ちのほうが強い。
　デートだなんて浮かれているのは私だけ。部活で必要な品物を当番だから買いに来たってオチだけれど、それでも休日にも関わらず制服を着崩した姿に、変な高揚感を覚えてしまう。
　歩いているだけで他校の女子がなんども彼を振り返るし、『えっ、ちょっと良くない？』とか『あれ、彼女？　全然似合わなーい』とかちらちら聞こえてくるしで、もう頭がパニック状態になっている。
　買い物も終わって、ちょっとフードコートでご飯でも食べようかって肩を並べてあちこち見て歩いていたら、そしたらまたアレが見えてしまった。
　そいつの隣には女がいて、なんだか微笑ましい視線をこちらに送ってくるのだが、肝心のそいつはやっぱり、酸っぱそうな顔をして、口をバクッ。
『青春だな』
　で、携帯電話を開いた良太くんが振り返るんだ。
「ごめん、急用ができてさ……解散しようか」

　柊くんに続いて良太くんまで『彼』の食事の餌にされた。ほかにも大学で知り合った、やっぱりミステリアス先輩も同じように食べられたし、職場で知り合った闇オーラが溢れ出ている同僚もバグッ。食べて食べられて、私の甘い恋はどんどん『彼』の肥やしにされてしまう。
　もっと最悪なことに、なんとか一年続いたカレにようやくプロポーズされて、涙が出るぐらい嬉しかったのにやっぱり『彼』が食べちゃうんだから、２８歳。女のモテ期も過ぎてしまって、若い新入社員たちがチヤホヤされているのを遠くから眺める年齢になってしまった。
　でも、最近、私は『彼』のことがよくわかるようになった。そう。この文章を書こうとした理由。それは––––

　今日も私は満員列車に揺られている。おっさんどもは躊躇なく鞄はまだしも、肩とか当ててきてこちらを睨んでくる始末。車内の真ん中でキャッキャ、キャッキャ騒いでいる女子高生ぐらいの若さなら、こんな雑な扱い。なかっただろう。うんざりするぐらいの人間の体臭であふれかえった車内で、彼女たちはどこか涼しげに感じてしまうのは、年齢のせいだろうか。
　そうは言っても、ほとんど終点に近い駅に降りるせいか、一時間もすれば、そういう不快感は薄れて、運が良ければ座席にありつける。毎日の喜びと言えば、その程度のものだ。
　急速な摩擦力で車内の人間が進行方向とは反対に傾いて、私は足に力を込めてやり過ごす。聞き取りにくいアナウンスとともにドアが開いて、大量の人間たちが降りていく。素早くあたりを見回すと、ありがたいことに座席に空きを見つけて、そそくさとほかの客が座る前に腰を下ろしてひと息。隣には、先ほどまで騒いでいた女子高生たちの鞄が乱雑に置かれ、彼女たちにはわからないようにずりずりと腰を動かして荷物を動かす。これで降車駅まで快適に過ごせる。ラッキー。
　そんなふうに思っていたら、電車の走行音や雑踏であまり聞こえなかった彼女たちの会話がダイレクトに耳に届いて、私ははっとする。
「レミってば。そんなふうに思ってたらダメだって」
「だって……恥ずかしいし……」
　ちらりと最後に発言した女の子に目をやる。ぱっと見、地味な容姿だが、はち切れんばかりの胸がセーラー服を押しやり、もじもじと顔を赤らめる姿は、かつての私。
「だから、絶対いけるって。ほら、次の駅！　立って立って！」
　それでももじもじと太ももをすりあわせて俯く級友に、ポニーテールのザ運動部って感じの女子が無理矢理、座席から剥がしてドアの前に立たせる。見てるこっちが恥ずかしいぐらい、顔が真っ赤だ。しなやかな腕が手すりに伸ばされ、照れ隠しか、なんども前髪を指で弄っては身体を震わせる。
『まもなくカニエ～カニエ～。足元にご注意ください～』
　囁くような車掌の声がアナウンスされ、ややあって慣性の法則が車内の人間を襲う。金属と金属が擦れ合う不快な音が鳴り響いて、ドアが開く。
「あっ……」
　ドアの前に立っていた女の子が小さな声を発して、顔をあげる。何人かの男子高校生が乗り込んできて、彼女の近くでたむろする。そして、ドアが不自然な動きで閉まり、ガタンッと大きな揺れがひとつ。
　そのとき、ひとりの男子高校生がその動きに負けて、女の子に覆い被さるようにして倒れ込む。
「あ、悪い！　大丈夫？　当たってない？」
　見るからに健康的な短髪の男子が、自然に女の子の肩に手を伸ばし、彼女の機嫌を様子見る。肝心の彼女は、顔を真っ赤にしてもじもじと目を俯かせながら、さりげなく男子の腕に手を添えて、
「あ、あの……だ、大丈夫、です！」
　と、激しく髪を振り乱す。そんな彼女に、男子は優しく顔を近づけて言うんだ。
「そっか。急に揺れてたからさ」
　女の子がうっとりと男子の顔を見つめ、男子も引き寄せられるようにその目を見つめている。ふたりはもう、別世界にいるのだろう。車内の喧噪など、くそ食らえだ。ただただ、ふたりの後ろで流れていく景色が遠ざかっていく。
　そこまで見ていた私は、もうどんな顔をしたらいいのか、わからなくて、でもなんだろう。この気持ち。すごく。すごく。
（スッパァ！！！！）
　思わず口を開いて、まさに食べるような仕草で歯と歯を噛み合わせてしまう。まるで、『彼』のように。
「あれ、清水じゃん。なんで立ってるの？　空いてるんだから座ったら？　というか、鞄どうしたんだよ」
　その言葉にはっとした女の子は、目を泳がせ、私を捉える。私は慌てて目を逸らすのだが、彼女の目には映ったかもしれない。『彼』の姿が––––

1 2 3 4 5 投票しない	感想：6
ログインして投票