遊び場
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幸福の知恵の輪、さよならは言わないで…
投稿時刻 : 2019.06.09 03:08
字数 : 9437
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幸福の知恵の輪、さよならは言わないで…
婆雨まう@KDP作家~カクヨム~エブリスタ~なろう!?


ほんの小さな手がまだ眠っている蕾のようにゆっくり花開いた。

 ピーッ。

 狭い室内に電子音が響き、心電図モニターの波形が直線になった。

 心拍数のメモリがゼロを記録し、手術室が騒がしくなった。

 看護婦が持ち場を右往左往している。

 「心肺蘇生」

 「はい」

 「人工呼吸、開始」

 AEDの準備が進められ、わずかな時間を縫って人工呼吸が繰り返された。

 AEDを人体にあてる。

 体が電気ショックでわずかに反応するものの、心臓は停止したままだった。

 何度も繰り返された心臓マッサージは医療の甲斐なく徒労に終わった。

 「4月23日、午前2時20分、死亡を確認しました。ご臨終です」

 医者が廊下で待機する光代の前に現れ死亡を宣告した。

 達也は満4才だった。

 光代は下を向いて言葉をかみしめた。

 そのときは茫然自失していたためか、まだ悲しみは襲ってこなかった。

 不幸というものは突然訪れる。

 前置きなく。

 前触れなく。

 この日、光代は達也を失った。

 光代が幸せだったのかどうか、それは誰にもわからない。

 3日前まで達也は普通の暮らしをしていた。

 3日前まで元気だったのだ。

 時刻を3ヶ月前まで巻き戻してみよう。

 達也は元気に公園で遊んでいた。

 小さな手でハンドボールを抱えようとする達也。

手が小さすぎて、ボールをなかなか持ち上げることができない。

 右足を使って達也はボールを蹴り上げた。

 公園には達也と啓介の他に人はいなかった。

 ボールは3メートルほど転がり、啓介の前で静止した。

 啓介がボールを軽々と右手でつかんだ。

 父親である啓介……というより、達也の母、笹川光代が再婚を考えている荻野啓介は、トラックの運転手をしていて、週末だけ家族のまねごとをしに光代のもとを訪れていた。

 啓介はいつもイライラしていて、得意先から怒鳴られるたびに、将来の息子、達也に向けて怒りをぶちまけた。

 達也に小言を言い、啓介が手を上げる。

 母親の光代は見て見ぬふりをして、何も言わない。

 達也はどうして叱られるのか意味が飲み込めず、ただ黙って下を向く。

 頬を叩かれる達也。

 口の中が切れ、甘い血の味が口いっぱいに広がった。

 いつものことだ。

 達也は下を向き、悲しい表情を浮かべた。

 母親の光代は、達也が叩かれても顔色ひとつ変えない。

 ほっぺたが真っ赤になって、腫れ上がるくらい叩かれても、光代は気にも留めなかった。

 世の中には理解できないことが山ほどある。

 親を憎悪するルサンチマンな息子もいれば、親を愛しているのに報われない子供、自分の腹から産まれた我が子を憎む親もいるということだ。

 達也の両親は達也の誕生後わずか数ヶ月で離婚を決意し、生まれたばかりの達也は光代が引き取っていた。

 もちろん達也にその頃の記憶はない。

 ただなんとなく感じるほのかなノスタルジーと、父親と一緒に写る数枚の写真が、自分は愛されていたんだなという実感を達也にもたらしていた。

 別れた父親に顔が似ていた達也は母親である光代から毛嫌いされ、光代の再婚相手となる啓介にも邪険に扱われた。 

 両親が離婚するまで可愛がられて育った達也の状況は、両親の離婚を機に一変してしまった。

 ふとした仕草や笑い方が離婚した夫によく似ていた達也は、まさに運命に弄ばれ、茨の道をさまようことになった。

 うっかり母親に甘えようものなら頬をぴしゃり。

 母親が再婚を決めた啓介には蹴られ殴られたりして、食事も満足に与えてもらえなかった。

 いや満足に、なんていうものではなかった。

 食事は昼に一度。

 粗末なおかずが添えられているだけのわずかな食事は、ごはんに梅干しだけとか、ごはんに卵焼きだけのときもあり、達也は砂糖菓子のように甘い1個の卵焼きを噛みしめながら味わって食べることも多かった。

 幼い達也には、なぜ自分が母親から虐げられるのか、その理由が全く理解できなかった。

 母親に嫌われているなというのは、なんとなくわかった。

 「ママ、肩もんであげようか?」

 「やめて、さわらないでちょうだい。気持ち悪い」

 「ママ、おなかがすいたよ」

 「あっちに行きなさい。砂場で遊んできなさいって何度言ったらわかるの」

 達也は近所に住む晴道くんと遊ぶことにした。

 晴道くんの母親は息子を溺愛していて、達也の母親とは対照的に、息子に欲しいものをなんでも買い与えていた。

 晴道くんは手作りのハンバーグやポトフなど、手の込んだ料理ばかり食べていた。

 どれもこれも達也が初めて聞く名前ばかりだった。

 ハンバーグってどんな味がするんだろう?

 ポトフって何?

 ウィンナーソーセージって、どんな形なんだろう?

 ふだん粗末なものばかり食べている達也は、身を乗り出して晴道くんに色々なことを尋ねた。

 「すっごく、おいしいんだろうね」

 「うん。ほっぺたが落っこちそうな味してるんだ」

 晴道くんは身振り手振りで、ハンバーグのおいしさを達也に伝え始めた。

 達也はとても寂しい気持ちになった。

 けれども、そういう晴道くんも出会って2ヶ月で東京に引っ越してしまった。

 達也は一人ぼっちになってしまった。

 またその頃、達也の視力はどんどん悪くなっていた。

 そして目に異常を訴えるようになっていた。

 あとからわかったことだが、目薬だと偽り、啓介が車のバッテリー溶液を点眼していたというのだ。

 達也の視力は左右どちらも0・1以下にまで低下していて、常に視界がぼやけるありさまだった。

 目薬をさすたびに目から火がでるような痛みに襲われ、でもそれは目の薬だからという理由で点眼が中断されることはなかった。

 尋常じゃない痛みを訴える息子に対し、母親である光代はなんの対応も取らなかった。

 そればかりか達也に対する執拗なネグレクトが続いた。

 十分な食事を与えられず、達也はいつも空腹だった。

 あまりの空腹に耐えきれずに、飼っていた猫の餌ばかりか、光代の目を盗んでサランラップやアルミ箔まで口に入れていた。

 達也は間もなく4才になるというのに、1つ歳が下の子と比べてみても小さく、がりがりにやせ細っていた。

 友達はいなかった。

 歳の近い子供達は気味悪がって、病的にやせ細った達也に近寄ろうとはしなかった。

 達也は今日も一人、マンションの敷地内にある公園の砂場で遊んでいた。 

 砂場セットで砂場に山を作り、来る日も来る日も砂場の山をくりぬいては、トンネルを作っていた。

 来月、誕生日が来れば達也は4才になる。

 母親は、誕生日になれば三輪車をプレゼントしてくれると言った。

 達也は待ち遠しくて仕方がなかった。

 1週間が過ぎ。

 2週間が過ぎ。

 そして1ヶ月が経ち、達也は誕生日を迎えた。

 ふてくされたように光代は古ぼけた中古の三輪車を達也の前に放り投げ、これに乗ってどこへでもお行き、と言った。

 廃棄物処理業者から安く譲ってもらった三輪車には、知らない人の名前がマジックで書かれていた。

 でも達也にはそんなの関係なかった。

 うれしかった。

 初めてのプレゼントだった。

 達也はこの錆び付いた真っ赤な三輪車が一発で気に入った。

 うれしくてうれしくて仕方なかった。

 達也は今日もダッシュで公園に向かった。

 砂場で遊ぶことは、ほとんどなくなり、一人でこぐ三輪車がマイブームになろうとしていた。

 達也は三輪車で坂道を勢いよく下る遊びをおぼえ、坂下りが毎日の日課となった。

 加速する三輪車は達也の好奇心を刺激した。

 路面のすぐ上、かなり低いところを走る三輪車はスピード感にあふれ、どんな乗り物よりも速く走っている気がした。

 坂を下り、坂をのぼり、ノンストップでまた下る。

 そんなことを繰り返しているうちに、友達が1人できた。

 山内まもるくんといって、達也より歳が1つ上の子だった。

 まだ引っ越してきたばかりで、まもるくんにも友達がいなかった。

 順調にいけば達也は、まもるくんと同じ幼稚園に通うことになる。

 まもるくんは達也と同じ、一人っ子だった。

 達也は、まもるくんの家に呼ばれたとき、初めてケーキをごちそうになった。

 それは真っ白い色をしたショートケーキで、白い生クリームがいっぱい塗ってあって、真ん中には真っ赤なイチゴの粒が2つあった。

 達也は夢見心地で、夢中になってそれを食べた。

 まもるくんは、いつもこんなにおいしいものを食べているのか?

 信じられなくて。

 どうしようもなく、うらやましくて。

 その日から達也は、何かと理由をつけて、まもるくんの家に遊びに行くようになった。

 まもるくんの家の冷蔵庫を勝手に開けては、まもるくんのお母さんに叱られた。

 まもるくんのお母さんが達也のことを奇妙な目で見ていることは、よくわかっていた。

 まもるくんのお母さんは達也に光代のことを何度も尋ねた。

 「家では何を食べてるの?」

 「ごはんは1日に何回?」

 「お母さんは何をしているの?」

 色んなことを根掘り葉掘り尋ねられた達也は、お母さんが明け方近く帰ってくることや、押し入れに入ってメソメソ泣いていることや、急に怒り出してお皿を投げることなどを尋ねられるままに話して聞かせた。

 育児をする母親達の間では、噂というものは瞬く間に広まるもので、光代がスナックで働いていること、育児ノイローゼであることなどが、近所に知れ渡ってしまった。

 光代は達也を殴った。

 「今日から3日間、あんたは、ごはん抜きだからね。返事は?」

 恐れていたことが達也の身に降りかかろうとしていた。

 3日間、達也は一歩も外に出ることを許されず、ただ家の中で息を殺してじっとしていた。

 猫の餌を食べ、水を飲むしか腹を満たす方法はなかった。

 来る日も来る日も水を飲み、猫の餌を食べた。

 空腹で頭がおかしくなりそうだった。

 なるべく達也は動かないようにした。

 そして3日が過ぎた。

 達也は三輪車に乗って、まもるくんに会いに行った。

 空腹でフラフラになりながら達也は三輪車をこいだ。

 公園まで普段なら5分で着くところを15分かけた。

 けれども、いつも遊んでくれるはずの、まもるくんは、なぜかよそよそしくなっていて、代わりに2つ年上の田中くんが達也に遊ぼうと言ってきた。

 「おまえんち貧乏なんだってな。うまか棒、もってきてやったぞ。これうめ~んだぞ、食えよ」

 達也は、うまか棒なんて見たことがなかった。

 達也は生まれて初めて口にした、うまか棒に、ほっぺたが落ちそうなくらい感激した。

 田中くんは農家の長男だった。

 田中くんは三輪車の代わりにリヤカーで遊んでいた。

 このリヤカーは鉄でできていて、二輪ではなく四輪だった。

 自分のリヤカーをタクシーと呼ぶ田中くんは、乗ってくれる乗客をいつも探していた。

 達也は田中くんのリヤカーに乗りたいとは思わなかったけれど、うまか棒をもらった手前、乗りたくて仕方ないといった仕草をした。

 「よし。オレが後ろから押してやる。乗れよ」

 そう言って田中くんは達也をリヤカーに乗せた。

 そして2本のハンドルを持ち、後ろからリヤカーを押す。

 リヤカーにはブレーキがついていたけれど、ブレーキについて田中くんは、何も言わなかった。

 言う必要がないと思っていた。

 田中くんは達也を乗せ、神社へ通じる道を通り、木々であふれる住宅街を押して歩いた。

 爽快だった。

 空気がハッカのように感じられ、風の中を走っているようだった。

 そこには確かに風の中を走っているような爽快感があった。

 「これで勢いよく坂道を下ったら、格好いいだろうな~」

 達也は田中くんの言葉にオーバーに賛同してみせた。

 2人は坂道の、ちょうどてっぺんにある1番高い場所を陣取っていた。

 大丈夫だろうか……。

 達也は不安だった。

 でも恐いなんて、口が裂けても言えなかった。

 「平気、平気。へっちゃらだよ」

 強がってそう言い放ったものの、達也の顔は青ざめていた。

 田中くんがリヤカーを押した。

 リヤカーは、そろそろと、ゆっくり坂に入っていった。

 そして坂に入った途端、猛烈な勢いで加速し始め、一気に坂を下っていった。

 ぐんぐん加速するリヤカー。

 坂道を下るスピードがMAXを迎えた。

 リヤカーのハンドルを持ち続けるのは、もはや困難だった。

 つまずいて転んだ田中くんを置き去りして、ものすごい勢いでリヤカーが坂道を下っていく。

 「助けて。助けて~」

 達也は叫んだ。

 このまま行けば坂の下のブロック塀に激突してしまう。

 声を振り絞るものの、辺りに人影はなかった。

 坂の出口にバスが見えた。

 T字路になっている坂の出口にバスが入ってきたのだ。

 右折してきたバスの進路が、リヤカーの進路と重なる。

 リヤカーはバス目がけて、まっしぐらだった。

 バスは正面衝突を避けようとして進路を変更した。

 だが、進路を変更したものの、吸い寄せられるようにしてリヤカーもまた、バスに向かって進路を変えた。

 バスの運転手がブレーキを踏んだ。

 間に合わなかった。

 数秒後、大きな音を立てて、リヤカーとバスは正面衝突した。

 ガシャン。

 そして、ドスンという、達也がバスに体を打ち付ける鈍い音が続いた。

 達也は思いっきり頭と体をバスにぶつけ、意識を失った。

 体を痙攣させ、顔面蒼白になっていた。

 バスの運転手が救急車の出動を要請し、10分後、達也は到着した救急車に乗せられて海老名総合病院へと向かった。

 脳出血。

 脳挫傷。

 大腿骨骨折。

 合わせると10にも及ぶ病名がつけられ、達也は集中治療室に入れられた。

 奇声を発したり暴れたりするのでベッドに縛り付けられ、拘束されたまま仰向けにさせられた。

 意識を失ったまま2日が過ぎた。

 達也の命より治療代の方が気になって仕方がない光代は、今すぐ退院させてほしいと看護師に詰め寄った。

 看護師は達也が現在とても危険な状態であり、自宅療養できる状態じゃないことを光代に説明した。

 「今夜が峠でしょう。親族を集めてください」

 光代は親族への連絡を拒んだ。

 光代の目に涙はなかった。
今朝、無情にもバス会社から、バスの修理代の請求書が届いた。

 修理代の160万円は、到底払える金額ではなかった。

 そして、翌日。

 事故後、3日目を迎えた朝だった。

 達也は意識を取り戻した。

 一命を取り留めたのだ。

 医者は言った。

 「奇跡が起こりました。まだまだ予断を許しませんが、ひとまず安心でしょう。脳に損傷を受けていますので、もしかすると後遺症が残るかもしれません」

 切開手術を受けた頭部の経過は思わしくなかった。

 頭部の出血は、いまだ治まらず、状況がどう転ぶか先が見えなかった。

 「頭が痛いよう。頭が痛いよう」

 時折くる猛烈な頭痛で吐き気を催し、達也は胃液をこれでもかというほど吐いた。

 意識障害の兆候も続いた。

 達也は母親を見つけるなり、

 「ごめんなさい。ごめんなさい」

 そう言って泣き崩れた。

 「頭が痛いよう。頭が割れるように痛いよう」

 「なんであんなことしたの? お母さん、バス会社から訴えられてるんだよ」

 光代の頭にあったのは、お金の心配だけだった。

 ドッチボールのようにパンパンに腫れ上がった達也の顔。

 瞼は紫色に変色し、目は真っ赤に充血していた。

 達也は懸命に目を見開こうとして気付いた。

 右目の視力がない。

 「お母さん、どこ? どこにいるの?」

 「どうしました? 大丈夫ですか? お母さんはここにいますよ。どれ、私の指が見えますか?」

 居合わせた医者が達也の視力を調べ始めた。

 光代はさすがに医者を前にしてまずいと思ったのか、達也の手を握り、優しい言葉をかけた。

 「かわいそうな達也。この子はいったいどうなってしまうのでしょう」

 光代は医者の前で嘘泣きを繰り返した。



 そして2時間が過ぎた。



 「お母さん、あの人と結婚するの?」

 光代の方に顔を向け、達也が言った。

 光代は頷いた。

 「もうじき、おまえのお父さんになるんだよ」

 「そう、よかったね」

 達也は苦しそうに顔をゆがめながら、そう言った。

 「これでぼくも安心だよ」

 そして、ふーっと息を吐き、光代に向けて微笑んだ。

 親子水入らずで話をするのは、本当に久しぶりのことだった。

 「お母さん、いつだって、ぼくが味方だよ」

 達也は、あふれた涙を拭おうともしなかった。

 何かを伝えようと必死だった。

 「お母さん、ぼく、生まれてこないほうがよかったの?」

 達也は震える唇で言葉を紡いだ。

 「お母さん、ぼく、死んじゃうの? もうだめなの?」

 達也が咳き込む。

 それと同時にコップ一杯ほどの血を吐いた。

 血だらけになりながらも、達也は懸命に母親に何かを伝えようとしていた。

 光代は慌ててナースコールのボタンを押した。

 「もういいから、何も言わなくていいから」

 達也は、やめなかった。

 しゃべるのをやめようとしなかった。

 ぶるぶると寒さに震えながら、精一杯の言葉で母親に何かを伝えようとした。

 「お母さん、ぼく、星になる。ぼくは星になってお母さんを照らすんだ。ぼくがお母さんを守る。じいじと、ばあばが、こっちにおいでって言ってる」

 達也の祖父母は昨年の夏、達也が3才のときに亡くなっていた。

 達也は啓介の連れ子のことを気にかけていた。

 啓介には達也と年の変わらない連れ子が1人いた。

 「ぼく、お母さんの子供でよかったよ」

 達也は涙を浮かべていた。

 「ぼく、もう行かなくちゃいけないね」

 1つの小さな命が、終わりを迎えようとしていた。

 達也の手から力が抜けていく。

 光代が握った達也の手から、力が抜けていく。

 光代は言葉をかけることができなかった。

 「お母さん、いままでありがとう」

 それはそれは小さな、かき消されるような声だった。

 何かを言おうとして達也は言葉を飲み込んだ。

 そしてまた、血を吐いた。

 看護師が慌ただしくベッドを移動し始め、光代もそれに付き添う形で廊下を足早に歩いた。

 「お母さんの手、あたたかいね」

 光代は握りしめた達也の手を何度もさすった。

 その手が思った以上に冷たくて、体の一部でないようにさえ思えた。

 達也が手術室へ入っていった。

 《ぼく、生まれてこないほうがよかったの?》

 達也の言葉が胸に響いて仕方なかった。

 光代は電話で啓介に報告した。

 そして達也の命が燃え尽きようとしていることを正直に伝えた。

 「達也、ごめん」

 光代の瞳からひと筋の涙がこぼれた。

 私は母親である前に、1人の女でいたかった。

 私は子供を愛せなかった。

 もちろん精一杯の努力はした。

 でも別れた夫の思い出であるあなたを許せなかった。

 その、何がいけないというの。

 自分に正直に生きて、何が悪いというの。

 私にはこうするしか道がなかった。

 だからあなたに辛く当たった。

 別れた夫と似ているあなたが、どうしても許せなかった。

 「達也、ごめんね」

 光代は病院のソファーで一夜を過ごした。

 静かに、ただゆっくりと時間が流れた。

 これほどまでに静かな時間を光代は経験したことがなかった。

 思えば、いつもイライラしていた。

 何かに当たり散らさずにはいられなかった。

 光代は病院のソファーにもたれ、目を閉じた。

 いろいろなことが思い出された。

 その多くは、達也を叱り飛ばしている場面だった。

 光代は、なかなか眠ることができなかった。

 そして明け方近く、達也は冷たい体になって戻ってきた。

 ひどく青ざめた顔をしていて、苦しんだのか、口元がゆがんでいた。

 「4月23日、午前2時20分、死亡を確認しました。ご臨終です。精一杯手を尽くしました。達也君は頑張りました。医療の力が及びませんでした。お悔やみ申し上げます」

 医者が光代に頭を下げた。

 1つの命が今、燃え尽きた。

 達也は遺体安置所に移され、光代は自宅へ帰ることを許された。

 達也が死んだという実感はなかった。

 光代はタクシーに乗り、自宅であるアパートに戻った。

 部屋に入るなり達也の机の前まで歩む。

 そして机の上を静かになでた。

 読みかけの幼児雑誌が机の上に数冊置かれていて、いつ達也が戻ってきても大丈夫なようになっていた。

 光代は何か達也に伝え忘れているような気がして、机の引き出しを開け、中に入っているものを1つずつ取りだしては手で優しく包んだ。

 色鉛筆。

 消しゴム。

 定規。

 ハサミ……。

 引き出しの中は殺風景で、底には新聞紙が敷き詰められていた。

 引き出しの奥から《知恵の輪》が3つ出てきた。

 達也がよく遊んでいたおもちゃだった。

 光代は3つの知恵の輪をポケットにしまい、タクシーを呼んだ。

 そして、すぐにまた病院へ向かった。

 遺体安置所で眠る達也は、苦しんで、苦しんで死んだ人のような表情をしていた。

 光代は《知恵の輪》を1つポケットから取りだし、静かに達也の横に置いた。

 残った《知恵の輪》のうち、1つは棺桶の中に入れ、1つは形見として取っておくつもりだった。

 遺体安置所を出た光代は、葬儀屋に連絡し、葬儀の手はずを取った。

 荼毘に付すのは2日後と決まった。

 どんなに愛されたくても愛してもらえない子供がいて、子供を愛したくても愛せず、十字架を背負った女がいる。

 光代は、何をどうすればいいのか、わからなくなっていた。

 気付くと《知恵の輪》が手の中にあり、光代はそれで遊んでいた。

 光代は達也が産まれたばかりの頃のことを思い出していた。

 家族に望まれて誕生した達也。

 いつからボタンを掛け違えたのか。

 光代も我が子を大事に育てる、ごく普通の、ありふれた母親だった。

 それがいつからだろう。

 自分は変わってしまったのだ。

 「たっちゃん」

 光代は、つぶやいた。

 生まれたばかりの頃、光代は達也のことをそう呼んでいた。

 あの頃は幸せだった。

 待望の長男が生まれて、家族団らんで、夫も優しかった。

 貧しかったけれど、互いにいたわり合って、みんなが家族を1番に考えて、そこには切っても切れない絆が生まれていた。

 親は子供を愛し、子供も親の期待に応えようと必死だった。

 それがなぜ……。

 病室の整理を終えた光代は、ふと手を止めて病室を見回した。

 もう詰め込むものがないというのに、なぜかここから離れたくない思いでいっぱいだった。

 病室に差し込む太陽の光が光代の横顔を照らした。

 一輪挿しの黄色い花が、太陽の光と重なり、一瞬輝いて見えた。

 光代の瞳からひとしずくの涙がこぼれ落ちた。

 どうして涙がこぼれるのか。

 そのことにどんな意味があるのか。

 自分でもよくわからなかった。

 別れた夫に未練があるのは確かだ。

 好きだからこそ結婚したわけで、けれどもうまくいかず、裏切られたという気持ちだけが強く芽生え、その思いが息子を不幸にした。

 たっちゃん、もう苦しまなくていいんだよ。

 光代は目を閉じた。

 そこにあるのは優しいまなざしをした、かつての夫と、達也の姿だった。

 光代は過ぎ去りし日に思いをはせた。

 初めて気付かされることが幾つもあった。

 夫に対して思いやりがなかったこと。

 子供と向き合おうとしなかったこと。

 どれ1つを取っても後悔しか浮かばない。

 夜を迎えた。

 空に三日月が浮かんでいた。

 それは哀しい色をした帽子のような月だった。

 達也は《お母さんの子供でよかった》と、最後にそう言って光代を慰めてくれた。

 家に戻った光代は、ずっと、上の空だった。

 テレビをつけても、その音が雑音のように感じられて、なぜか時間をもてあました。

 心の中がざわつきだし、達也が部屋にいるようで息苦しくなった。

 達也がなぜあんなメッセージを自分に向けて残したのか。

 その理由ばかり考えていた。

 光代はその夜、数年ぶりに、かつての夫と連絡を取り合った。

 達也が事故死したことを告げ、2人で葬式の打合せをした。

 達也の形見となった真っ赤な三輪車。

 それを光代は玄関に飾った。

 居間に戻った光代が明かりを消し、窓を開ける。

 夜の風が室内をゆっくりと巡っていく。

 人はいつか滅する。

 死を迎えた達也がなぜこれほどまでに自分に影響を与え、苦しめるのか、光代にはその理由がわかり始めていた。

 暗闇の中で瞳を閉じる。

 朝を迎えようとしていた。

 ただ感じるままに光代は天を仰いだ。

 夜の闇にまみれてカーテンだけが静かに揺れていた。

 光代が達也を感じた瞬間だった。
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