妖精
西へ向かう電車に乗ると窓側の席を確保し、カバンから外国産のヒヨコイワシ油漬の缶詰を取りだして力任せに開け窓下の置き台に乗せた。胸ポケ
ットに入っていた竹鶴12年入りのビンも一緒に置いた。空が澄み切っていた。景色の眩しさが威圧的だった。目が眩んだ。
呆け出す前にビンのフタを開け一口二口飲むとヒヨコイワシ油漬を自動的に貪った。乗る前にディスカウントストアで買いつけたものだった。とりあえずそれなりに旨い酒とそこそこ食えるつまみ、そして文庫本が数冊あればよかった。どこに行くかはまだ決めていなかった。つい先日戸田競艇で万券を当てたので、なんとはなしにどこかに行こうと決めただけだった。仕事は数日ほっぽり出すことにした。居ても居なくても同じだった。
列車の中は平日ということもあって空いていた。強めの風が車内を吹き抜けていた。まだ肌寒かったので上着のボタンを閉め直した。車両の連結部分にドアはなかった。酒が回り出せばさほど気にならないはずだった。乗り物に揺られながらどこへ辿り着くかわからないような感覚が気に入っていた。缶詰の中身が半分になってきた頃にブレる感じがやってきた。カバンを閉めて取っ手に腕をからめると目を閉じた。残像がしばらく残ったがそのまま放っておいた。消える頃には意識が遠のいているはずだった。
気がつくとあたりは暗くなっていた。眠りすぎたらしかった。まだ眠気が残っているような気がしたがそのまま起きることにした。夜眠れなくなるのが多少心配になったが、その時は文庫本を眺めていようと思った。変わらぬ風景を見るのに飽きた頃席を空けた。
ホームに降り立った。古びたコンクリートと過疎地らしい閑散とした風景が似合っていた。海が近いらしく潮くさい風が吹いていた。そのまま改札を出るのがおっくうだったのでベンチに座りタバコに火をつけた。誰もいなかった。しばらく吐きだした煙を眺めていた。何も考えていなかった。煙が吐き出されると同時に消えて行くのが不思議に思えてならなかった。半分ほどになった頃もみ消し、立ちあがって改札口に向かった。
乗り越し料金を払うと狭めのロータリーに出た。見渡すと小さな木造の交番が見えた。歩いて退屈そうに机に座っている年配の警官に声をかけた。
この辺で泊まれるような施設というのはどの辺りにあるのか教えていただきたいのですが。ああ今はシーズンじゃないからこの辺りになるだろう。ここ見て。そうだねえあの道を道なりに歩くと30分くらいになるかな。はい。ここに、なんだ、あの名前なんて言ったけな。そうだ、さくらっていう旅館があるから、そこにいくといいだろう。そうですか。ありがとうございます。いや本官もシーズン中じゃないものだからすっかり名前を思い出せなかったよ。もう年なのかねえ。僕もそういう事はよくありますよ。どうもありがとうございました。予約は取っているのかね。いや取ってませんけどシーズンじゃないなら大丈夫でしょう。そうかい、じゃちょっと付き合わんか。
警官は驚くほど人なつこく、すっかり暇を持て余していたようだった。留められると奥の6畳ほどの部屋に案内された。使い込まれたような座布団が警官の手で敷かれた。座ると前に日本酒らしい一升瓶と二つのコップが置かれ、酒が注がれた。まだ職務中だろうにいいのかと一瞬怯んだ。
あんたこの時期になんでまた来たのかね。いえ競艇で多少勝ったもんで気晴らしにですよ。なんだってまたこんな辺鄙な場所に。今は漁も景気が悪いし、それに寒いだろう。もっといいところがありそうなもんなのに。見たところ若いようなのに変わった男だね。ま、ぐっと一杯やってくれ。ここは本当に事件もなにも起こらないんもんだからすっかり暇でなあ。こうして酒を食らう他に楽しみもないよ。まあ平和でいいことだけどねえ。あんたが来てくれてよかったよ。
ほのぼのとしていていいのだが、あまり居心地のいいものではなかった。いつ誰かが来てこの警官が通報されるかもしれない。そうなるとこっちにも面倒がかかる。そう思うと気が気ではなかった。この年配の警官は言ってみれば単なるしがない公務員でしかないだろうにずいぶん肝の座った男だと思えた。確かに人が来そうな気配はないが、暇つぶしに付き合うには少々スリリングすぎるだろう。はてどうやってこの場を乗り切ればいいかと思案しつつも、警官の話はとどまるところをまだ知らないようだった。話の内容はほぼ頭に入ってこなかった。
半刻ほど経っただろうか、警官が話に夢中になっているその横に、何やら影らしきものが動くのが見えた。姿がはっきりと見え出す頃には、それは警官の耳の穴へ、吸い込まれるようにスポンとでも言う感じで入り込んだ。その効果か、すぐに警官の喋りが止まったかと思うと、制服姿はゆっくりと後ろ向きに倒れ込み、やがて鼾をかいた。どうしたことかと思ったが、やっとこの場を離れることが出来る喜びと、得体のしれないそれがこちらにもやってくるかという恐怖が入り混じり、すっくと身を立てるやいなや交番から飛び出した。うっかり叫びそうになったがこのあたりはしんとしていたので、すんでのところでとどまった。
とりあえず駅の方に戻ってタバコを取り出し一心地つけてから、警官に訊いたさくらという旅館の電話番号を調べようと、黒い携帯を出した。ガラケーだ。するとその携帯の上にちょこんと、さっきのそれがいた。わっわあうわあ。思わず持っていた携帯を手から離し、地面に落としてしまった。
いやあそんなに驚いた? それは人間の形をしていた。頭には毛がてっぺんに一本しかなく、丸い眼鏡をかけ赤い団子鼻にそこそこ分厚い唇の顔をしたステテコ姿の、どこからどう見てもどこぞのおっさんにしか見えなかった。的場浩司がどこかで話していたらしい親指大の妖精そのものだった。地面に落ちた衝撃にも関わらず、それが拍子抜けするほどのんびりとした様子で話し出す。さっきぼくがきみの耳の穴に入ってみたらさあ、なんかきみ困ってたみたいだったからさあ、あのおまわりさんの中に入って、ちょっとお酒が回るようにしといたんだ。助かったでしょ? あのおまわりさん酒好きでいい人なんだけどちょっと話が長いからね。そういえばきみこの辺で見かけない顔だけど、どっかからやってきたの? そのおっさん然とした顔からは想像し難いくらいのあどけない表情から発される柔らかい語り口が、逆に怖さを煽った。な、なんだってんだよう!
落ちていた携帯をつかみちょこんと座っていたそれを振り払うとありったけの力を出して走り出した。もう旅館などと言っている場合じゃなかった。見覚えのない道を走り、疲れてはまた恐怖を覚え走りを何度か繰り返した。どこまで行っても普通のNHKで映るような村落風景しか見えなかった。どこまで行けばいいのかもわからなかったが、とにかく走った。
気がつくと朝で、村道らしい道の訳の大きな丸太に寝っ転がっていた。目の前には吐いたらしき吐瀉物があった。酒を飲んだまますぐ走っ