キヅイテ、センパイ!
田中智恵はその日、娘の咲花を見るために近所の運動公園に足を運んでいた。
咲花は中学1年生。地域で活動する女子野球クラブのジ
ュニアチームに所属し、日々練習を積んでいる。レギュラーではないのでポジションは決まっていないが、彼女の大好きな福岡ソフトバンクホークスのサード、松田宣浩のような選手になりたいという夢があり、ゆくゆくはサードを守り、いつの日かホームランを打って、彼の異名である熱男にあやかって熱子と呼ばれたいと思っている。
外気はまだ肌寒く、アップにもひと苦労する季節だというのに、咲花はウィンドウォーマースーツに身を包みながらも、仲間と一緒に元気よくアップをしていた。黒のベンチコートを羽織っていた智恵は、若いってやっぱりいいなと思いつつ、低い気温に少し身を震わせ、かつての自分を思い出す。
母親になるだいぶ前、智恵もテレビで見るプロ野球の選手にあこがれ、プレイヤーを志していた。
当時は昭和最後の三冠王である落合博満に倣い、強打者になるべく素振りを欠かさない日々を送っていた。しかし智恵の時代の女子野球は幾度もの過去の挫折からまだまだ立ち直っておらず、落合が三度目の三冠王を獲得した数年後に、ようやく全国組織が立ち上がった程度のものだった。
そんな状況なので、当然智恵の周りに女子野球のチームなどあるわけもなく、地域の少年野球団に入って男子と一緒に練習を積むしかなかった。智恵は一所懸命努力をしたが、年数が経つにつれ男子との差は大きくなり、小学校を卒業する頃には、団の中に居場所がなくなっていくのを実感した。マネージャーとして残ることもできなかった。
結局卒業と同時に団を辞めるも、進学先の中学校にも女子野球の部活などはなかったので、結局智恵は野球を断念し、普通の野球ファンの女子として日々を過ごすこととなった。他のスポーツをしようとは思わなかった。
そんな時代に比べ、今は赤字累積のため縮小したとはいえ女子プロ野球リーグも11年目を迎え存続し、埼玉西武ライオンズレディースなどのクラブチームも盛んで、咲花の野球人生としての未来は明るい。
いい時代になったものだと、智恵は我が子の練習を見ながらしみじみと思った。
アップが終わると、まずは選手同士のキャッチボールから練習が始まった。咲花はチームの先輩で、仲のいい森下かえでと組んで球を投げ始めた。
中学2年生のかえでは、田中家にもよく遊びに来ていて、どちらかというとおとなしめな咲花に比して明るいことの多い彼女を、智恵は気に入っていた。
お互いの家が近いこともあり、二人の日常は、かえでが咲花をリードし、日々練習に励むという生活を送っている。
智恵の目に映る2人は、普段どおりの元気な姿で、キャッチボールを順調にこなしている。今日も怪我をしなければいいなと思った。
練習はキャッチボール、バント練習、シートノックと続き、そしてバッティング練習と進んだ。
「森下入れ」
コーチも兼ねている監督の指示に従い、かえでがバッターボックスに立つ。レギュラーをすでに掴み取っているかえでは、このチームでは中距離打者としての役目を果たしていた。ピッチングマシンがないので、自らバッティングピッチャーとしてマウンドに立つ監督を見据え、かえではミートを重視するため、バットを短く持って打席に立った。咲花は他の仲間とトスバッティングをしつつ、かえでの練習を少しでも見ようと、合間合間に休みを取り、かえでを見守る。
「行くぞ」
監督の声とともに、バッティング練習が開始された。
自宅での素振りを欠かさないかえでの打球は鋭く、快音とともに、左中間へ鋭い当たりが次々と飛んでいく。腰から先に動き、軸足と頭までの線がブレずに捻転とともに身体が回転する彼女のフォームは、咲花が見ていて感心するほどだった。コンパクトなスイングはお手本とも言えた。
――いつもどおりだ、さすが、かえで先輩
咲花は目に焼き付けようと、しばし集中してかえでのフォームを見つめ、終わるとそれをトスバッティングに活かそうと努めた。
「いいぞ、じゃ交代だ」
かえでは自分の番が終わるとボックスから外れ、咲花のもとへ行きトスバッティングを始めた。
「どうだった?」
かえではトス練習をしている咲花に訊いた。
「うん、いつもどおりの回転軸のしっかりしたバッティングだったよ」
「ありがとう、パワーがもっとつけば、今より飛ばせるんだけどなあ」
かえでは普段からシュアなバッティングを心がけているが、それは自身がまだまだ細身であり、そして非力であることをわかっていたからだった。他のレギュラーには体格を活かし外野方向に大きく飛ばす選手もいた。かえではそんな選手をうらやんだが、それと同時にパワーを付けるべく、負けたくないとの気持ちで日々筋トレを行っている。今はまだ発展途上だ、きっと遠くに打球を飛ばしてやる。そんな思いを抱いていた。
「かえで先輩なら、きっと出来ますよ」
咲花はお世辞抜きに言った。
「ありがとう咲花」
そう言うと、かえではトスバッティグに参加し、メニューをこなしはじめた。
「来週の日曜日な、河川敷使えることになったから、紅白戦形式の練習やるぞ」
練習が終わると監督から知らせがあった。今使っている運動公園のグラウンドではスペース的に試合をするまでのことが出来ない。自然、チームの皆は待ち望んでいた待望の紅白戦に色めき立った。
活躍すれば控えの選手にはレギュラーを掴むチャンスもあるが、それよりもとにかく野球ができるという喜びが、咲花には勝った。
「やっと試合ができるね」
「うん、とにかく野球がしたいです」
「私打つから、咲花もチャンスを掴んでね」
「今からもう待ちきれないですよ」
二人はそれぞれ日曜日に思いを馳せ、帰宅準備をし、智恵と三人で帰宅の途へ着いた。
そして待望の日がやってきた。
くじ引きでかえでは紅組、咲花は白組と分かれた。
「先輩と対決かあ、気が重いです」
「そんなこと言ってたらレギュラー獲れないよ。お互いしっかり野球しようね」
「しょうがないなあ、はい先輩。じゃお互い頑張りましょう」
咲花は敬礼のポースでおどけて応えた。
会話の後、いよいよ紅白戦が開始された。
咲花はライトで8番、かえではショートで6番と決まった。
かえでは守備も堅実で、基本通りの守備がある程度出来ていた。咲花はかえでに比べると力は及ばなかっ