第55回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動8周年記念〉
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台詞のない海
投稿時刻 : 2020.02.16 02:44
字数 : 836
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台詞のない海
白取よしひと


 海に台詞はなかた。
 眩ゆい日差しを弾いた川面は細かに刻む波を際立たせ、葦簀越しの朝日をさながらに足下に切り立つ草はらを明るく照らした。お江戸深川・大川の屋並み揃えたお武家の屋敷。その狭間をするりと抜けて、腰を据えての煙管を一丁。上手を眺めれば永代橋、下手には石川島が白魚の舟を集めていた。
 向こう岸は越前さまの裏壁で、中元たちが札を打ての昼間に行灯。やれうららかだと吐き出す煙が涙を誘い、落とした目先に男女が二人。波除碑がぽつりぽつりと河に沿うその下で、二人は枯れ草に腰を並べて睦まじいことこの上ない。桃色に霰をまいた小紋の娘と前掛け法被の取り合わせは、おおかた店の娘と手代の恋路だろうか。高みから望む女の襟足は、はしぐほどに漆喰の如く白く揺らいだ。男が拗ねた童のように長い脛を抱くと、女は枯れ草を摘んでは風に流すを繰り返す。男はおもむろに腰を上げて何かを言た。すると、女は裾も露わに駆けだしたではないか。追いすがる男のさまは戯れの鬼のようであり、剣呑であるようにも思える。ついに男の手が女の肩へ届くと、襟元が大きく開かれた。
 対岸の中元らもそれに気付いたのか皆立ち上がり、やれのやれのと野次を飛ばす。馴染みの喧嘩は犬でも喰わないと高を括れば、いやいやと身をよじらせる女のさまは尋常ではない。助け舟をだそうと腰を上げた刹那、娘は懐から引き出した晒しを男の面前に突き出した。日は流れ雲に隠れて川面が陰ると一陣の風が大川を舐めて吹きつけた。
 晒しは風で煽られひらひらと舞い上がり、二・三の海鳥に弄ばれた挙げ句に落ちた先が手前の足もと。二人の、そして中元の眼が一斉にこちらへ向けられた。それは、晒しならぬ金比羅さまの願い札であた。女は男との縁を願い、それを見せるのを恥じたのだ。札を掲げて見せると、二人は行儀よく頭を垂れて草はらを登てくる。誰しもが味わう恋始めの蜜は、春の大川にこそふさわしい。
 江戸湊がふたたび煌めき始めた。
 海に台詞はなかた。海に台詞の欠片も必要なかた。
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