馬鹿なオンナ
『いずれ時間が解決してくれる』
昔からよく言われる言葉ではあるけれど、それがほんの気休めにしかならないことを私は知
っている。
だって、時間は巻き戻せない。起こった出来事も、抱いた感情も、無かった状態には戻せない。消しゴムのように、消すことは出来ない。
時間ができるのは、全ての出来事や感情を過去に置き去り、手の届かない遠い遠い所へ追いやってしまうことだけだ。
「ああ、久しぶり」
「……ええ、お久しぶりです。潮崎先輩」
どうして唐突にそんなことを考えているのか。それは過去に追いやったはずの苦い思い出が人の姿をして現れ、あまつさえ私に爽やかに挨拶なんかしてきたからだ。
瀬崎駿介。高校時代の私の先輩。部活動でとてもお世話になった、わけでもないけれど。それでも先輩であることには変わりない。
それは高校を卒業し、大学生を通り越して、社会人になってくたびれ果てた今でもだ。
そうじゃなければ、見なかったふりをして足早に通り過ぎてやるのに。こんな男。
「笹原飲み物足りてる? 向こうにバーコーナーあったけど」
「御心配なく。充分頂いてますから」
さりげなく視線を外しながら、自分のスカートに目を落とす。
今日のために下ろした紺色のワンピース、少しヒールの高い華奢な靴。お洒落は武装だ。
高校時代に所属していた部活の創部100周年を祝うという名目で開かれたパーティだったけれど、気を抜かないでお洒落をしてきてよかった。
お洒落は武装だ。人の心を少しだけ強くする。
「それにしても、先輩ともう一度こうしてお酒を飲む日が来るなんて思ってもみませんでした」
勇気を出して、目の前に立つ男の目をしっかりと見つめ返す。
スラリと伸びた体躯に、人懐こい整った顔。高校の時からイケメンだと騒がれていた人だったけれど、時を経てもその外見は変わらないらしい。
いっそ目も当てられないくらいの肥満体形くらいになっていてくれた方が、有難かったんだけど。
「そうだね。まあ俺は、こんな大勢の中じゃなくて2人きりが良かったんだけど」
「御冗談を」
口の中が緊張で乾く。余裕のあるふりをして、手にもったシャンパンを少しだけ口に含む。
心臓がうるさい位鳴っていた。
「……大人になったね。お酒を飲む姿が様になってる」
ああ、もう。どうしてそんな目をして私を見るのだろう。この男は。
お陰で余計なことまで思い出してしまった。
『帆奈美。20歳の誕生日おめでとう』
学生用の安いアパートのちゃぶ台を囲んで、缶チューハイで乾杯した20歳の誕生日のこと。
あの時一緒にお酒を飲んだ恋人は、今私の目の前で優雅に赤ワインを傾けている。
今となっては元・恋人だけど。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
「言葉遣いも、生意気になった」
憎まれ口をたたいても、ちっとも動揺してくれない。面白くない。
でももっと面白くないのは、時間が経って色あせたと思っていた感情が、鮮やかな色をして蘇って来たことだった。
「ね、ささはら。俺今日このホテルに部屋取ってるんだ。しかもダブル。……この後一緒に飲み直さない?」
「は?」
思わず声が漏れた。この男はなんてことを言い出すのだろう。
ホテルの部屋で、男と2人きりでお酒を飲む。しかもダブルベッドのある部屋。
その意味が分からない程、私は子供でもなかったし、アルコールが回っているわけでもなかった。
「実は今日、お前に会えるかもと思って。美味しいお酒も用意してるんだ。……明日、誕生日だろ? お祝いするよ」
ねぇ、お願い。帆奈美。
そう言って彼は、シャンパングラスに添えられた私の指に意思を持って触れて来る。その指の温度は、アルコールのせいにするには熱すぎて。お酒よりもその熱にのぼせてしまいそうだった。
ダメだと言わなければ。拒絶しなければ。別れた時の、あの胸の痛みを忘れたわけじゃないだろう?
そう自分に言い聞かせてみても、思い出すのは彼と過ごした楽しい思い出ばかりで。
やっぱり時間は本当の意味で何も解決してくれていなかったのだ、とため息を吐きそうになった。
「……一年後も、ちゃんと私の誕生日祝ってくださいね」
「もちろん。約束する」
預かっておいて。
カードキーを私に押し付けて去っていった背中を睨みつけながら、私は心の中で『ごめん』とつぶやいた。
一年後の自分に宛てた、謝罪の言葉だった。それが何の慰めにもならないと、知っていたけれど。
せめて『馬鹿なオンナ』と笑ってくれたら。
『ごめんね。帆奈美』
ああ、なんて因果か。あの男と同じ科白だなんて。