横顔
東大以外はない、東大以外はない、東大以外はない、東大以外はない。幻聴が耳にもわもわと残り続ける。条例を平気で破
って深夜まで煌々と明かりを灯し続けるビルの一室にある自習室を出ると、昨晩父親に言われた言葉、というより心の叫び、のようなものが再び耳元でざわざわと鳴り始めた。僕は、はーあ、とわざとらしく声を出してため息をついてから地下鉄に続くホームへと降りた。
幼稚園も小学校も中学校も「お」受験を繰り返し、僕はいわゆる御三家のうちのひとつに進学した。毎年当たり前のように東大生を「輩出」すると有名な中高一貫校。もともと勉強するのは好きだったし、両親が期待とお金を掛けてくれるならなおさらそれに報いたくてがむしゃらにやってきた。でも去年の夏、友達に連れられて行った「東大じゃない」大学の教授の模擬授業に、心を鷲掴みにされた。別に偏差値の悪い大学じゃないし、研究内容でいったら大学基準で選ぶよりもずっと豊かな学生生活が送れるように思えて両親にそう伝えたら、(予想はしてたけど)当たり前のように猛反対された。東大以外はない。お前はもう、そうと決まってる。父親はそう言うばかりで僕の話を聞く耳すら持たないままずるずると一年以上その戦線は張られ続けている。
ほぼ無意識のうちにICカードを改札にタッチして通過する。夏休みも終わりかけ、そろそろ決着をつけないと僕は両親のいうなりに東大に入ってしまうことになる。わざと落ちることも少しは考えたけれど、落ちたところで浪人させられるのは目に見えていた。とにかく僕は両親を諦めずに説得しなければいけないのだった。
「おにーさん」
エスカレーターを降りてホームを歩いていると、後ろから声をかけられた。聞いたことのない、あまったるくて鼻にかかった声。僕は自分が呼び止められているとは思わずに、一度その声を無視した。
「ちょーっと、おにーさん」
上腕のあたりに小さな手がつかまった。僕はびくりと振り返る。
「僕ですか」
振り返った先には、全く知らない小柄で細身の女性が立っている。そして彼女は、そーだよいまホームにうちらしかいないじゃん、と非難がましく言った。終電が近いこの時間帯、都会でもないここのホームには確かに僕とこの女性しかいなかった。僕が立ち尽くしていると、女性はさらにたたみかける。
「リュック全開きしてるけど、いいの?」
え、と小さく悲鳴をあげてリュックを下ろすと、確かにジッパーがすべて開いて中身がすべて外気にさらされていた。使い古した単語帳、もう三年以上使ってるペンケース、付箋の突きまくったノート、…東大の赤本。
「お、赤本じゃん!私知ってるよそれ」
女性は僕のリュックの中身をしげしげと眺めたあと、大発見をしたかのような声で東大の赤本を指差した。「東大ってすごいとこでしょ?おにいさんそこの人なの?」
「え?」
僕は中身がすべて無事なことを確認しながら、彼女の頓珍漢な質問に疑問を返す。
「え、東大って、すごいとこだよね?」
「赤本って、大学入試の過去問ですよ」
「入試…」
女性は少し首をひねって眉根を寄せ、考え込むように黙り込むと、ああ!受験生!と笑顔になる。
「じゃあ高校生なんだ」
まあ、そうですけど…。返事をしながら電光掲示板をちらと見る。まだ5分くらい待たなきゃならないらしい。僕はこのわずかなスキマ時間で、今晩の父親との対決に向けた戦略を立てなきゃなんないのに。
「あの、もういいですか、ちょっと考え事したいんで」
そっけなくそう言うと、女性は少しキョトンとした顔をしてから、あ、うん、ごめん。とだけ言って待合室の方へ歩いていった。同い年か少し年上であろう彼女の背中をぼんやりと見つめながら、気楽でいいよなあ、と心の中でつぶやく。
*
「あ、理樹くん」
あれから毎週土曜日の夜、僕は彼女、もとい明希にホームで出会い続けていた。明希はこの最終電車で繁華街のあるターミナル駅まで行き、明け方まで風俗店やらなにやらの仕事をしているらしかった。僕はそういう経験、というか、知識すら持ち合わせて居ないから、てきとうに知ったかぶりをして済ませているせいで彼女の具体的な仕事まではっきりと察することはできなかった。高校を中退してそのままあてどなく生きているらしい彼女は、僕のような人と会話するのが新鮮らしく、いつもは夕方ごろから入っているというシフトを土曜日だけずらして僕との逢瀬にあてていた。僕は両親との諍いや学校生活の悩み、好きなアーティストから嫌いな評論家まで、日々のなんでもない話題を彼女にひけらかしてはきゃっきゃと喜ばれるこの時間にかなり夢中になっていた。
「明希に話したりしなきゃこんなの、つまんないいつものルーチンだよ」
僕は彼女の喜ぶ様に喜びながら、そうつぶやく。
「まあね。私だってそうだよ」
言いながら、アイコスを吸う。未成年喫煙とホーム上喫煙のダブル違反だ。
僕の「つまんないいつもの」人生のほうはと言うと、センター試験が終わり、結果は上々。結局僕は東大を受験させたい両親に勝つことなんてできず、東大に受かってしまいそうでいる。滑り止めで受けるセンター利用の大学もすべて合格圏内にあって、もう何もかも「うまく」いってしまいそうだった。
東大の試験を一週間前に控えた今日も、僕は自習室に通っていた。ここまできたら、いつものペースを崩さないのが大事だ。先輩が皆そう言っていたのを見習って僕は重たいリュックを背負う。
「おー」
僕は片手を上げて彼女の隣に座る。男子校育ちの僕にとって彼女は稀に見る「会話できる距離にいる異性」であったけれど、あまりにも住んでいる世界が違って逆にドギマギせずに済んだ。
「東大うかった?」
「先週言ったじゃん、試験日はまだ来週だって」
「あー、そうだっけ」
「そうそう」
彼女は派手な紫色をした、なんだかサイケなロゴのワッペンがついているダウンジャケットを羽織り、でもその下には薄着のきらきらしたブラウスとショートパンツを履いている。薄らあたたかい待合室の座席でふたり、いつものようにぼんやりと電車を待っていたら、彼女がなんでもないことのように切り出した。
「ねえあたし妊娠したんだよね」
僕は口をぽっかりとあけて明希を見る。
「え、彼氏居たんだっけ」
「いない」
「じゃあ誰の」
誰の。僕は言いながら、心の裏ですでに分かっている。彼女は唇を尖らせて言う。
「客の誰かじゃない?あのオヤジじゃなかったらいいな」
僕は自分の世界と彼女の世界の境界線がさらにはっきりとしたのを感じる。そして、妊娠、ということが目の前の、同い年くらいの、彼女に、起こりうるのだと言うことそれ自体に恐れおののいていた。
絶句して何も言わない僕をなだめるように明希は言う。産むからね私。
「てきとうに言ってんじゃなくてさ。いつかこういうことが起きちゃうかもって、どっかでわかってたんだよ。だって周りの子も同じような感じでやめてくしさ。だからずっと考えてたの。子供できたらどうしたいんだろって」
僕は何も言えない。最終電車が来る。
「ずーっとずーっと考えてて、でも答え出なくて。いや絶対おろしたいわとか言う子いるけど、私はそういう気持ちになれなくってさ。それで答えが出る前に現実の側が来ちゃったんだけど」
最終電車は僕たちの前で開く。明希は立ち上がる。
「来てみたら、もう、答え出た。産みたいんだわ。それ以外なかった」
僕は明希に導かれるように、電車の扉を抜ける。明希は続ける。
「一年後、一年後にさ、生まれるんだよ。誰の子かわかんない子。で、理樹は東大生になって」
なんか全部変わっちゃうんだね。僕はなぜだか胸がいっぱいになる。
「毎年毎年、なんかなんにも変わんない一年だったなーとか思うけど、でも、周りの子とか、お客さんとか、本指名の数とか、ライバル店とか、どんどん変わってくんだよ。来年はもっと変わるね」
言って、明希はぴょんと扉からホームに降りる。
「ばいばーい」
電車は発車した。
僕以外誰も乗っていない電車の中、僕は頭の中で彼女の言葉を反芻する。何にも変わんない一年だっ