第56回 てきすとぽい杯
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横顔
投稿時刻 : 2020.04.18 23:43
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横顔
わに 万綺


 東大以外はない、東大以外はない、東大以外はない、東大以外はない。幻聴が耳にもわもわと残り続ける。条例を平気で破て深夜まで煌々と明かりを灯し続けるビルの一室にある自習室を出ると、昨晩父親に言われた言葉、というより心の叫び、のようなものが再び耳元でざわざわと鳴り始めた。僕は、はーあ、とわざとらしく声を出してため息をついてから地下鉄に続くホームへと降りた。
 幼稚園も小学校も中学校も「お」受験を繰り返し、僕はいわゆる御三家のうちのひとつに進学した。毎年当たり前のように東大生を「輩出」すると有名な中高一貫校。もともと勉強するのは好きだたし、両親が期待とお金を掛けてくれるならなおさらそれに報いたくてがむしらにやてきた。でも去年の夏、友達に連れられて行た「東大じない」大学の教授の模擬授業に、心を鷲掴みにされた。別に偏差値の悪い大学じないし、研究内容でいたら大学基準で選ぶよりもずと豊かな学生生活が送れるように思えて両親にそう伝えたら、(予想はしてたけど)当たり前のように猛反対された。東大以外はない。お前はもう、そうと決まてる。父親はそう言うばかりで僕の話を聞く耳すら持たないままずるずると一年以上その戦線は張られ続けている。
 ほぼ無意識のうちにICカードを改札にタチして通過する。夏休みも終わりかけ、そろそろ決着をつけないと僕は両親のいうなりに東大に入てしまうことになる。わざと落ちることも少しは考えたけれど、落ちたところで浪人させられるのは目に見えていた。とにかく僕は両親を諦めずに説得しなければいけないのだた。

「おにーさん」
 エスカレーターを降りてホームを歩いていると、後ろから声をかけられた。聞いたことのない、あまたるくて鼻にかかた声。僕は自分が呼び止められているとは思わずに、一度その声を無視した。
「ちと、おにーさん」
 上腕のあたりに小さな手がつかまた。僕はびくりと振り返る。
「僕ですか」
 振り返た先には、全く知らない小柄で細身の女性が立ている。そして彼女は、そーだよいまホームにうちらしかいないじん、と非難がましく言た。終電が近いこの時間帯、都会でもないここのホームには確かに僕とこの女性しかいなかた。僕が立ち尽くしていると、女性はさらにたたみかける。
「リク全開きしてるけど、いいの?」
 え、と小さく悲鳴をあげてリクを下ろすと、確かにジパーがすべて開いて中身がすべて外気にさらされていた。使い古した単語帳、もう三年以上使てるペンケース、付箋の突きまくたノート、…東大の赤本。

「お、赤本じん!私知てるよそれ」
 女性は僕のリクの中身をしげしげと眺めたあと、大発見をしたかのような声で東大の赤本を指差した。「東大てすごいとこでし?おにいさんそこの人なの?」
「え?」
 僕は中身がすべて無事なことを確認しながら、彼女の頓珍漢な質問に疑問を返す。
「え、東大て、すごいとこだよね?」
「赤本て、大学入試の過去問ですよ」
「入試…」
 女性は少し首をひねて眉根を寄せ、考え込むように黙り込むと、ああ!受験生!と笑顔になる。
「じあ高校生なんだ」
 まあ、そうですけど…。返事をしながら電光掲示板をちらと見る。まだ5分くらい待たなきならないらしい。僕はこのわずかなスキマ時間で、今晩の父親との対決に向けた戦略を立てなきなんないのに。
「あの、もういいですか、ちと考え事したいんで」
 そけなくそう言うと、女性は少しキトンとした顔をしてから、あ、うん、ごめん。とだけ言て待合室の方へ歩いていた。同い年か少し年上であろう彼女の背中をぼんやりと見つめながら、気楽でいいよなあ、と心の中でつぶやく。



*


「あ、理樹くん」
 あれから毎週土曜日の夜、僕は彼女、もとい明希にホームで出会い続けていた。明希はこの最終電車で繁華街のあるターミナル駅まで行き、明け方まで風俗店やらなにやらの仕事をしているらしかた。僕はそういう経験、というか、知識すら持ち合わせて居ないから、てきとうに知たかぶりをして済ませているせいで彼女の具体的な仕事まではきりと察することはできなかた。高校を中退してそのままあてどなく生きているらしい彼女は、僕のような人と会話するのが新鮮らしく、いつもは夕方ごろから入ているというシフトを土曜日だけずらして僕との逢瀬にあてていた。僕は両親との諍いや学校生活の悩み、好きなアーストから嫌いな評論家まで、日々のなんでもない話題を彼女にひけらかしてはきと喜ばれるこの時間にかなり夢中になていた。
「明希に話したりしなきこんなの、つまんないいつものルーチンだよ」
 僕は彼女の喜ぶ様に喜びながら、そうつぶやく。
「まあね。私だてそうだよ」
 言いながら、アイコスを吸う。未成年喫煙とホーム上喫煙のダブル違反だ。

 僕の「つまんないいつもの」人生のほうはと言うと、センター試験が終わり、結果は上々。結局僕は東大を受験させたい両親に勝つことなんてできず、東大に受かてしまいそうでいる。滑り止めで受けるセンター利用の大学もすべて合格圏内にあて、もう何もかも「うまく」いてしまいそうだた。
 東大の試験を一週間前に控えた今日も、僕は自習室に通ていた。ここまできたら、いつものペースを崩さないのが大事だ。先輩が皆そう言ていたのを見習て僕は重たいリクを背負う。
「おー
 僕は片手を上げて彼女の隣に座る。男子校育ちの僕にとて彼女は稀に見る「会話できる距離にいる異性」であたけれど、あまりにも住んでいる世界が違て逆にドギマギせずに済んだ。

「東大うかた?」
「先週言たじん、試験日はまだ来週だて」
「あー、そうだけ」
「そうそう」
 彼女は派手な紫色をした、なんだかサイケなロゴのワペンがついているダウンジトを羽織り、でもその下には薄着のきらきらしたブラウスとシトパンツを履いている。薄らあたたかい待合室の座席でふたり、いつものようにぼんやりと電車を待ていたら、彼女がなんでもないことのように切り出した。
「ねえあたし妊娠したんだよね」
 僕は口をぽかりとあけて明希を見る。
「え、彼氏居たんだけ」
「いない」
「じあ誰の」
 誰の。僕は言いながら、心の裏ですでに分かている。彼女は唇を尖らせて言う。
「客の誰かじない?あのオヤジじなかたらいいな」
 僕は自分の世界と彼女の世界の境界線がさらにはきりとしたのを感じる。そして、妊娠、ということが目の前の、同い年くらいの、彼女に、起こりうるのだと言うことそれ自体に恐れおののいていた。
 絶句して何も言わない僕をなだめるように明希は言う。産むからね私。
「てきとうに言てんじなくてさ。いつかこういうことが起きちうかもて、どかでわかてたんだよ。だて周りの子も同じような感じでやめてくしさ。だからずと考えてたの。子供できたらどうしたいんだろて」
 僕は何も言えない。最終電車が来る。
「ずーとずーと考えてて、でも答え出なくて。いや絶対おろしたいわとか言う子いるけど、私はそういう気持ちになれなくてさ。それで答えが出る前に現実の側が来ちたんだけど」
 最終電車は僕たちの前で開く。明希は立ち上がる。
「来てみたら、もう、答え出た。産みたいんだわ。それ以外なかた」
 僕は明希に導かれるように、電車の扉を抜ける。明希は続ける。
「一年後、一年後にさ、生まれるんだよ。誰の子かわかんない子。で、理樹は東大生になて」
 なんか全部変わうんだね。僕はなぜだか胸がいぱいになる。
「毎年毎年、なんかなんにも変わんない一年だたなーとか思うけど、でも、周りの子とか、お客さんとか、本指名の数とか、ライバル店とか、どんどん変わてくんだよ。来年はもと変わるね」
 言て、明希はぴんと扉からホームに降りる。
「ばいばーい」
 電車は発車した。

 僕以外誰も乗ていない電車の中、僕は頭の中で彼女の言葉を反芻する。何にも変わんない一年だたなて思うけど、どんどん変わる。僕は大学生になる。望まない、東大だけれど。でも、と僕は思い直す。大学に入たら何かが終わるわけじなくて、そこがゴールじなくて、そこからまた何かが始まて、変わらないと思いながらいつのまにか何もかもが変わてて、僕はきと僕も知らないどこか遠くに足を伸ばしているはずだ。一年後、僕は何をしているだろうか。僕は目を閉じて考えてみる。もし子供が生まれたら、明希はまたあの待合室で僕を待てくれているだろうか。子供を見せてくれるかな。進む電車の中、僕は顔をぐしぐしにしながら彼女の横顔を想た。



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