第12回 文藝マガジン文戯杯「スポーツマン」
〔 作品1 〕
遺る罪は在らじと
投稿時刻 : 2020.08.10 21:46 最終更新 : 2020.08.13 11:45
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遺る罪は在あらじと
住谷 ねこ


ぶわっ じゅーっ と音がして
アッと思った時にはガス台はお湯浸しに
火は、盛大に吹きこぼれたそうめんのゆで汁で消えた。

あーあ。あー と思っても
菜箸を持ったまま目はテレビにくぎ付けだ。

画面に映るその神社は言われなければそれとわからないくらい
焼け落ちて水をかぶり、焼けた柱は黒く光っている。

燃えたのは繁華街の中にあって、あまり治安のよくない地域なので
酔っ払いや、やくざやホームレスやらも多く、火の気のない神殿が
火元という事もあり、放火の疑いもあるというニュースだった。

まだ少し茹で足りないままのそうめんをざるにあげ水にさらしながら
うわの空で薬味を出し、めんつゆを出し、買ってきただけの天ぷらを
温めもせずパックのままテーブルに置いた。
大学生になった息子がそれを不思議そうに眺めながらも
特に文句を言うでもなく「いただきます」と言って箸を取った。

かあさん、食べないの?」

「ねー?」

「食べないの? 天ぷらもらっていい?」

それにも答えず、もう次のニュースになっている画面を見つめたまま息子に聞く。

「あんた、今のニュースみた? あの神社知ってる?」

「あの神社って?」

「ほら、○○町の○○神社」

「あー、昨日の。燃えちゃったんでしょ?」

「昨日? 昨日のニュースなの?」

「うん、それはニュースチャンネルだから繰り返してるんだよ
 燃えたのは昨日の朝方だよ。続報なら民放見れば?」

「ちょっと知ってるから、驚いちゃって……」

「みんな知ってるでしょ、有名な神社だし」

食べ盛りの男の子にはそうめんだけでは足りないのか
冷蔵庫を開けてプリンを見つけ出し、食べ始める。

三個パックのプリンを全部食べるつもりらしく目の前に並べて
丁寧に上ぶたを剥がし、一つ食べてはスプーンも取り換える。

ひとりで食べるんだからそのまま同じスプーンで食べればいいのに。

あの日も、同じことを思った。
暑い日で窓を開けても風もなくて、セミがうるさくて。
じっとしてるだけで汗が垂れてくるような蒸した部屋で
次々とプリンを食べていた茜ちゃん。

もう二十年、それ以上も前の話だ。

茜ちゃんは高校の同級生であまり人気のないバレーボール部に入っていた。
髪が、ものすごく短くて、常にジャージを着ていた。
いつもニコニコして気さくな感じではあったけど
バレーボールの話しかしないのでクラスでは特に仲良くしていた子は
いなかったと思う。

二年、三年と同じクラスだったのに口を利いたのは
卒業もまじかになった頃だ。
受験期に入ってもう、あまり登校しなくてもよくなった頃
職員室に用があって、ついでに誰か来てるかと教室に顔を出したが
誰も来ていなくて、なんだつまらないと思いながら
しばらく席に座って本を読んでいると茜ちゃんが入ってきた。

「あれ? おぐちゃんどうしたの?」

「そっちこそ。なにジャージ?」

「うん。バレーの練習してた」

「ええ?まだ部活してたの?」

「そうだよ。私、バレーしかやることないもん」
そういってニコニコと隣に座ってくる。

話はない。
これまでほとんど話したことないし
バレー一筋のような彼女と帰宅部よろしく授業が終わると
すぐに学校を出てあちこち雑貨屋を覗いたりアイスだ、クレープだと
食べ歩き、ミーハーだった私に共通点などあるわけなかった。
息苦しくなって「そろそろ……」と言いかけると
かぶせるように「今度、うちに遊びにこない?」と言う。

「え? 家?」

「家っていうか、六月に行事ごとがあるから来ないかなと思って」

「家の行事に私が行くの?」

「うん、大祓の儀があるから、身も心も清浄になるよ」

くすくす笑うと彼女もくすくす笑って
「うちね、○○の○○神社なの」 と言った。

その後、少し親しくなったような気になって卒業までの一、二か月は
顔を見ればにこにこし、挨拶をするようになっていた。
一度、バレーの練習も見に行ってみたが
バレー部はもう、廃部だ、という噂は本当だと誰もが納得してしまう有様だった。
部員が、全員出ているのかは、わからないが人数が少なくて
試合形式の練習はできておらず、何人かは手持無沙汰に
立っているだけで茜ちゃんの掛け声ばかりが響いていた。
少しかすれていて舌たらずの茜ちゃんの声。
三年生は当たり前だけど茜ちゃんひとりだった。

卒業式の時に、じゃあ六月においでね。
きたら社務所に来てくれたらいいから。

そういって手を振った。
そのまま連絡もしていないし、六月も行かなかった。
もちろん向こうからの連絡もなかった。

数年後の同窓会に出席したとき、来なかった人の近況を
担任がわかる範囲で報告した。 もう結婚して、いま子育てで忙しいので
今回は出てこれないとか、留学しているとか、短大卒で就職したとか
報告されたその中に茜ちゃんもいた。

茜ちゃんは、知らなかったがバレーボールの推薦で就職したのだった。
潰れかけたバレー部でしかなかった高校から推薦なんて
どういう方法かわからないけどそんなにバレー選手として優秀だったのかと驚いた。
そこのバレー部に入り、リベロとして活躍していると言った。
潰れそうだった学校のバレー部は茜ちゃんの出世のおかげで廃部を免れ
今はそこそこ強くなったのだと誇らしげに話した。

へー。

そういえばいつも体育着で歩いてたもんね。

バレーの話しかしてなかったよね。

身長低かったもんね。

へー。

うちの学校ってバレー強かったの?

へー。

ひとしきり茜ちゃんの記憶を掘り起こし
みんな何気に驚き、感心して見せ、そしてすぐに興味を失った。


「あの神社ねえ、おかあさんの友達の家なのよ」

「えー? 神社に住んでんの? ホームレスかよ」

「冗談じゃなくて、そこの宮司さんの娘さんだったの。友達」

「ふーん。それでぼんやりしてんのか」

「してないわよ」

「してるよ。天ぷらをパックのまま出すなんて珍しいよ」

「そうだっけ」

「連絡しないの? 火事見舞いとか」

「もうずっと昔のことだし、そんなに親しくもなかったし」

「ふーん」


そうだよ。親しくなかった。

教室で誘われてから卒業まで挨拶と遠くから手を振るくらいしかしていない。
親しくもないのに、お祭りも行かなかったのに
なのに二十年前のあの日、連絡したのはどうしてか。

それは……思い出したくないけど分かってる。
親しくないからこそ茜ちゃんに連絡したんだ。

皿を片付けながら茜ちゃんはどうしたろうかと考える。
茜ちゃんは火事の時どこに居たんだろう。
綺麗に平らげたプリンの空のパックを捨てようとして
ひとつづつにスプーンが入っているせいでうまくスタックせず
ひとつが軽い音を立てて床に転がった。

コンッ カシャツ



茜ちゃんに再会した時、卒業から、ちょうど十年が経っていた。
連絡先は神社を調べて電話した。
名前を言って今度企画している同窓会のお知らせだと伝えると
今はここにはいない。と言って新しい住所を教えてくれた。
多分、お母さんだった と思う。
本当に神社の子だったのだと今更納得した。

風もない夏日の、前日雨が降ったせいで、蒸し風呂のようなその日
待ち合わせは茜ちゃんの住むアパートのある最寄り駅だった。

そこには別人のように太って、コンビニの袋をぶら下げ
男物のサンダルをつっかけた茜ちゃんがいた。
ベリーショートだった髪は腰まで伸ばして不規則にカールしていた。

すぐに茜ちゃんだとわかったが「おぐちゃん?」そう声をかけてくるまで
信じられなかった。

ぶくぶくと病的に太った体と不健康そうにむくんで吹き出物のできた顔は確かに
茜ちゃんだけどバレーボールに夢中だったあの茜ちゃんとはとても思えない。

「久しぶり、元気だった? 会えてうれしいよ」

「その人旦那さん?」

「え? あっ違うよ。結婚はしてないよ」

「初めまして、伊東です」私が紹介もしてないのに淳史は私を押しのけ
勝手に挨拶をする。

「じゃあ行こうか。こっからすぐだから」

そう言って歩き出したけど茜ちゃんのアパートにはなかなかつかない。
茜ちゃんのすぐと私のすぐの認識は全然違うらしかった。

「最初の同窓会、来なかったよね。その時、和泉が
茜ちゃんは社会人チームで活躍してるって言ってたけど今も?」

この体でスポーツをやってるわけないとはわかっていたけど
そうは言えない。和泉というのは、三年の時の担任だ。

「ううん。今は専業主婦だよ。バレーはもうとっくにやめたの」

「リベロでいいところまでいってるって聞いたから」

「……」

「普通の奥さんじゃもったいないね」

少し間があいて、返事が来る前にアパートに着いた。

「あ。ここ。この二階のはしっこなの」

川っぺりをずっと歩いてきて、いくつめかの土手にある階段を下りる。

大きな工場のようなものを回り込んだ所にあるその建物は
よくある、薄っぺらな壁の二階建てのアパートだ。
だいぶ古びて鉄階段は錆びて赤黒く、手垢で磨かれてツヤツヤしていた。

「ちょっとここで待ってて、旦那、いるから」

ベニヤ板のようなドアの向こうで何かが割れるようなとがった音がした。

「あの子、やばくないか?」淳史が口を歪めて後ずさる。

「……」

「……出直すか?」

なんなの?こいつ。
あなたが連絡しろっていったんじゃない。
あなたが友達とか紹介しろって。


私は、淳史に夢中だった。
理由なんてない。その時、淳史がとにかくかっこよく見えた。
淳史に愛されるならなんでも差し出す勢いだった。
淳史は大学のゼミの先輩の紹介だった。
それから六年。もうかっこよくなかった。
どこにでもいる。違う、どこにでもいる男の方がまだましだ。
いつも楽する事ばかり考えていて、すぐその気になって
そのくせ飽きっぽくて。しょっちゅう転職していた。
女癖だけは悪くないと思ったけど、悪くないんじゃなくて
相手にされてないだけだ。
私だけが気が付かなかっただけだ。

それでもやっぱり付き合っているのは……
それでもやっぱりいう事を聞いてしまうのは……

まだ好きなんだろうか。
ただ、飼いならされてしまっただけなんだろうか。



「よう、帰るか?」

ぼんやりしているうちに、茜ちゃんが顔を出した。

「どうぞ、入って」

「おじゃまします」

靴が乱雑に積みあがった狭い土間で無理やり靴を脱いで
埃っぽい床に足をつける。スリッパはない。
なんだかペトペトして気持ち悪い。
ペトペトした床の台所を数歩進むと三畳くらいの畳の部屋
その奥に六畳間があるようだけど半分以上ベッドで埋まっている。
ピンクのツルツルした生地の、少しずれ落ちた掛布団が生々しい。

その三畳の部屋にタバコの焦げのある折畳テーブルがあって
どう見ても四十過ぎにしかみえない男が座っていた。

「こんにちは」 この男が旦那さんなのかな。

「やあやあ、いらっしゃい。茜の同級生ですって? よくいらっしゃいました」

「はい、あの、急におじゃましてしまって……」

「いいのいいの。俺出かけるから、ゆっくりしてって」

そういって後ろ手を挙げ、さっき茜ちゃんの履いていたサンダルをつっかけて出て行った。

もともと親しいわけでもないところに既に十年もたっている私と茜ちゃんと
さらに関係のない淳史と、小さな折畳のテーブルを囲むようにして座った。
密談をするみたいに顔が近い。

「ごめんねー、散らかってて、狭くて」

「ううん、大丈夫だよ」

「あ、そうだ。これ食べる?」 待ち合わせたときに持っていたコンビニの袋から
3連プリンを取り出してテーブルに置いた。

「はいどうぞ、遠慮しないで食べて。今買ってきたやつ」

私と淳史の前にプリンを置いた。
そして自分も、もくもくとプリンを食べはじめる。
窓は開いているけど風はぜんぜんなくて前日の雨のせいで湿気が高く
じっとしてるだけで汗が出てきた。暑い。外に出たい。
キッチンの流しの周りにはゴミを入れた袋がいくつか転がっていて
生臭いにおいがする。外に出たい。

どうしようと、淳史と目を合わせる。
淳史が嫌そうな顔で茜ちゃんから目を逸らすので意を決して口を開こうとすると
茜ちゃんがじっとこちらをみて「食べないなら私、食べてもいい?」と言った。

「え?」 

「プリン、いらないなら……」

「え? あっうん」

そのまま茜ちゃんは、私の前のプリンと、淳史の前に置いたプリンを
いちいち付属のスプーンを袋から出して順番に舐めるようにきれいに食べた。

そして、一つ食べ終えるごとにカップとスプーンをキッチンの方に投げた。

コンッ カシャツ

コンッ カシャツ

コンッ カシャツ


「で、いい話ってなに?」


淳史がしばらく前から友達に誘われて浄水器の販売を始めた。
始めた時、ものすごく興奮して私の部屋にやってきて「すごいんだ。すごいぞ」
そういって立ったり座ったり落ち着かない様子で私にパンフレットを押し付けて
説明した。この浄水器を売る仕事をすることになったんだという。

「浄水器?」

「すごいんだ。これ」

すごいのは浄水器ではなく、売買システムだった。

浄水器を始めに買うと会員になれる。会員になるとパンフレットや浄水器の勉強会に
参加できる資格がもらえる。
そしてこの素晴らしい浄水器を大切な人に勧めるのだ。
説明の為の試薬や、パンフレットは無料だという。
むやみに勧めるのではない。大切な人にだけ広める。
本当にいいものだから、大切な人に使ってもらいたい。
自分の買った浄水を飲んでもらい素晴らしさを分かってもらう。

うまく説明できなくても大丈夫。詳しい人がいつでも同行してくれる。
親や友達、親せき縁者、誰かが賛同し買ってくれたら
一人につき二十五%のキャッシュバックがあるのだという。

四人が買えば自分の買った分はほぼタダになる。
その四人も会員になれる。そしてまた、人に勧めることができる。
自分が会員にした四人が勧めた人が買うともちろんその人にも二十五%のキャッシュバックがあり
さらに自分にも五%のキャッシュバックがある。誰も損をしない。
みんながタダで浄水器を手に入れ、さらに紹介料をもらい、その紹介した人も紹介すれば紹介料をもらい
その紹介者も紹介すれば紹介料をもらう。

在庫ももたなくていい、ただ自分が買っていいものだから勧める、勧めた人が買ってくれれば
宣伝してくれてありがとうと言う意味でキャッシュバックされる。
しかも浄水器にはフィルターが必要だ。
フィルターは浄水器を使う限り買うことになる。
そして、このフィルターの代金も数パーセントがキャッシュバックされるのだ。
そうして入ってくる収入は毎月ふくれあがり、自分に紹介してくれた友達はすでに月収百万円を下らないと唾を飛ばして力説する。

リスクがなくてみんなが幸せなシステムだから私に一緒にやろうという。
そんな高価なものを買うお金もないし、紹介するような親しい友達もいない。と断ったが
学生の時の顔見知り程度でもいいんだ、紹介だけしてくれれば後は俺が話すからと食い下がる。

大切な人に勧めるんじゃないのか? とか顔見知り程度は大切な人なのか?
という疑問は口に出さなかったが……、それ、マルチだよね。

マルチは友達を失くす。
会社の人や、友達には言えない。
その商品がたとえどんなに良いものであってもだ。

淳史はしつこくて、顔を見ればだれか紹介しろという。
自分にはもう話す人がいないらしい。
どれだけの人に話したか知らないが子会員が私を入れて四人ということが
この仕事に向いてないのを表していると思う。
そして名前だけ貸してくれればいいと会員にした私にこんなにしつこいということが
他の三人はほとんど活動してないということだろう。

「なあ、頼むよ。一人でいいよ、一人紹介してくれたらもう言わないよ」

「ほんとだね? ひとりだけだよ?」

そして根負けした私は茜ちゃんを紹介することにしたのだ。
親しくもないけど、多少交流があった。
行かなかったけど、家に誘ってくれた。
スポーツで成功してるみたいだったから健康には気を付けてるかもしれない。
水や食べ物に気を使っていて、もしかしたら興味を持つかもしれない。
そんな無理やりな理由だった。


向こうから話を振ってくれたので淳史がここぞとばかりに
浄水器の話を始めた。
私に勧めるときより熱心だったかもしれない。
だめそうだから帰ろうと言っていたのに、話を聞いてくれたら脈があると思ってるのかな。
私は、逆だな。
今の茜ちゃんの姿や、駅で茜ちゃんに会ってからの全ての瞬間で
だめだな。という思いを一段ずつ積み上げてもはやてっぺんが見えないほど積み上げた。
淳史はこの風も入らない部屋で汗だくになって説明してるから気が付かないみたいだけど
茜ちゃんはもう話を聞いていないと思われた。
一通りの説明を終えても何の反応もないので恐る恐る「どうかな?」と聞く。

「二十三のときにね、アキレス腱切れた」

「え?」

「できなくなった。……バレーボール」

「……」

「会社もそれでやめた」

「そんな、バレーできなくなったらやめなきゃだめなの?」

「しばらくは復帰するつもりで居たけど、なんか変な切れ方して
忘れたけど。全然歩けなくてリハビリにものすごく時間かかったから。
もしかしたら一生歩けないんじゃないかと思うくらいかかったから。やめた」
「やっと歩けるようになって近所でアルバイトしてる時に旦那と知り合ったの」

「そうなんだ」

茜ちゃんはゴロンと背を向けて横になり
「浄水器は買えない」と言ったまま黙った。
そしてそのまま寝息が聞こえてきた。

淳史が帰ろうとつつく。
うん、わかってる。だけど起こすのもなんだかだし
黙って帰るのも気が引ける。
暑くて外の壁にでも止まったのかセミの声がやたら大きくなった。
風の入らない窓が薄赤くなってきた夕暮れ。

淳史が「俺、じゃあ先出るよ」と小声で言うのと同時にドアが開いて
茜ちゃんの旦那さんが戻ってきた。
そして、部屋の様子を見ても驚くふうもなくテーブルに袋をいくつも置いた。
カートンのタバコや菓子パンやポテトチップスや洗剤もあるし、コーラもある。
パチンコの景品らしい。
そして転がった茜ちゃんを足で押しのけて座りタバコに火をつけた。

「なんだ茜、寝ちゃったのか。お客さん来てるのにしょうがねえな」

「なあ?」 私に向かって笑いかけるその顔の前歯は欠けていた。

「いえ、えーと、じゃぁ私たち帰りますね」

台所から湯飲みを持ってきて今持って帰ったコーラを次ぐ。
「あんた、茜の同級生なんでしょ? こいつ、どうにかしてくださいよ」

「はい?」

「こいつはさー、一日なぁんにもしないで食っちゃねー食っちゃねーしてんだよ
病気なんだと、神経の病気」

「い……いつから……ですか?」

「結婚した時からずっとだよ、ちょっとつきあったら結婚しよう、結婚しようってしつこくてさ、
してくれなきゃ死ぬとか言ってさ。まいっちゃうよ」

「……」

「で、一緒に住んでみりゃこれだ、家でだらだらだらだら。なんか言えば病気だからしかたない。
こいつの親まで一緒になってしかたないしかたないだ」

「……」

「まあ、いいけどさ、こいつの親がよろしくお願いしますって金置いてくからさ」

コーラを飲んでいたと思ったら、いつの間にかカップ酒に変わっていた。

「あの、じゃあ失礼します。茜ちゃんによろしく伝えてください」

二つ目のカップ酒に手を付けながら「おう、また来てくださいよ。今度また、調子のいい時にでもね」
靴を履きながら背中で「おい、起きろよ 友達帰るってよ」と声が聞こえた。

来た道を逆にたどりながら最初に口を開いたのは淳史だ。

「いやぁ、どうなるかと思った。まさか寝ちゃうとはね」

「……」

「なんだあれ? プリン結局全部食べたよな、自分で。人に勧めといて食べるか?普通」

「……」

「それにあの男、旦那ってほんとか?一回り以上上だよきっと、やくざとは言わないけど
堅気じゃないよな。パチプロだったりして、あの景品の下にあった封筒、あれ換金したやつだよな」

「浄水器の返事聞けなかったな、でもだめだよな、精神病んでるんじゃな」

「旦那に勧めた方がよかったかな、浄水器」

うるさいな……

「もういいでしょ、一人紹介したからね」

なんだか、日常と違う場所に入り込んだみたいに居心地が悪くて
淳史もそっち側の人間に思えて気持ち悪くてそのまま足を速めて
その日の帰り道はずっと口をきかなかった。

以来、淳史と会う回数はめっきり減ったがはっきり別れようという話にはなかなかならなかった。
淳史はもう浄水器の話を私にしなくなった。
気の早い街がクリスマスの準備を始めた頃、思いがけない人から連絡が来た。

昼でも、夜でも、普段かかってこないような時間の電話は不吉だ。
少し風邪気味で会社を休んだ日にその電話はかかってきた。

「もしもし」

「あー。茜の友達のひと?」

「はい?」

「夏に来たでしょ?ほら、男と二人で」

「え? あぁ、茜ちゃんの旦那さん?」 そういえば名前知らなかった。
茜ちゃんは細谷だけど、普通は旦那さんの姓を名乗るんだよね。

「どうかしましたか? 茜ちゃん」

「あー、なんか出てっちゃってね」

「家出ですか? こちらには来てませんけど」

「いや、居場所はわかってるんですよ。実家です」

「電話してもね、取次いでもらえないんですよ。

あいつの親とね ちょっとうまくなくてね」

「はあ」

「いやになりますよ、あいつも、あいつの親もほんと頭おかしいんですよ」

「……」

「聞いてくださいよ」

そういって、名前もわからないまま茜ちゃんの旦那さんは茜ちゃんと茜ちゃん一家が
いかにおかしいかをだらだらと話し出した。
無理やり結婚を迫られたとか、子供ができたと嘘をつかれたとか、一日中食べて続けてるとか
起きるとセックスをせがみ、何回しても満足することがないとか。

「色キチガイなんですよ」

「あの、そんなこと私に言われても。それで茜ちゃんに連絡を取りたいという事ですか?」
(唐突にあの、生々しいピンクの布団が頭をよぎった。)

「聞いてもらえればいいんで、また聞いてもらっていいですか?」

呆れた。

「…… 困ります、そんな」

何か言っていたがもう聞かずに電話を切った。ついでにコードも抜いた。
なんでうちの電話番号を知ってるんだろう。
茜ちゃんが教えたのか、勝手に茜ちゃんの荷物を探ってかして知りえたのか
どうして私にかけてきたのかはっきりしないと気持ち悪い。

今さっき抜いたコードをさしなおし、茜ちゃんの実家に電話した。
前の時と同じ、お母さんが出て、また茜ちゃんはいなかった。
今度は仕事に行っているという。

「あなた、本当に茜の友達?」と聞いてくる。

なんだか警戒されてる感じだ。
「夏に茜ちゃんの家に遊びにいったんですけど、その時ちらっと旦那さんにもお会いして」

「旦那じゃありませんよ。茜は結婚してませんから」

「え? そうなんですか? えーと、その時の男の人から私の所に電話があったんですよ。
茜ちゃんが実家に戻ってるんだけど連絡がとれないからって」

「そんなの、嘘ですよ。あの男は嘘つきなんだから、茜は騙されたんですよ。
 やっと逃げてしばらく落ち着いてたのに、またおかしくなっちゃうわ。きっとお金が無くなったんだわ、まったく寄生虫みたいな男」

「あの、茜ちゃんはいま……」

「働いてるんでね、帰ったらかけなおさせます」
そう言って返事も聞かずに切られた。

なんか、旦那さんのいう事とお母さんのいう事は違う。
どちらかが嘘をついているんだろうけど……
もうどうでもよかった。
茜ちゃんが情緒不安定なのはどちらにも共通した意見のようだった。

その日、茜ちゃんから電話はかかってこなかったが
関わりたくなかったので、こちらからも、もう連絡しなかった。

茜ちゃんが連絡をくれたのは、それから半年もたっていて
その間にクリスマスが来て、年を越し、もう春になろうとしていた。

私は転職し、淳史と別れ、のちに結婚することになる人と急激に親しくなっている最中だった。
茜ちゃんの時計には、その半年は反映されてないようで
「このあいだ電話くれたのに、連絡しなくてごめんね」 と言う出だしで始まった。

「うん。いいよ。この間でもないけど、去年だし」

「旦那さん元気?」 (淳史のことか……)

「旦那さんじゃないよ、それよか、よかった連絡もらえて
もうすぐ引っ越すんだったの。茜ちゃんは?実家?」 (くれなくてもよかったけど。)

「うん。でもねぇ社長さんから住み込みでもいいよって言われてるの」

「住み込み?」 (なになに、また何の話だ。)

「実家に戻ってからずっと高円寺のね、小さな建設会社の電話番してるんだけど
そこの社長さんがよくしてくれるから」

「……」

「家にいるとお母さんうるさいし、そう言ったら会社のビルの上に空いてる部屋があるから
そこに住んでもいいよって言ってくれたの」

「そうなんだ」

「あの時、浄水器買わなくてごめんね。今なら買ってもいいよ」

「え? 何言ってんの? いいよ、それに浄水器の人とはとっくに別れてるし」

「そうなの? 離婚するのって大変だよね。私も大変だった」

「いや、だから私はまだ結婚もしてないから」
(茜ちゃんも大変だった? 離婚するのが? 誰と? え? え? え?)

「あのさ。離婚したの?」  (どうも話が噛み合わない。)

「うん。旦那に会ったじゃない。夏に」

「あの人、結婚してないってお母さん言ってたよ」  (いつもペースが狂わされる。)

「嘘だよ。お母さんあの人のこと嫌いだったから」
「今の社長のことも嫌いなんだよね。お母さんは私が怪我してからおかしくなっちゃったから」

何かがズレてて気持ち悪い。
「……あのさ、これからちょっと出かけるから また、連絡してもらってもいいかな」
もう切りたかった。

あの男は茜ちゃんが精神病だといい、お母さんは男のことをおかしいといい
茜ちゃんはお母さんがおかしいという。
もうなんだかわからないし、別に知りたくないし、親しくないし……

元は浄水器だし、浄水器に嵌った男とは別れたし、どれももう、みんな私に関係ない。
このまま切ればもう連絡来なくなる。来週には引っ越す。

「そっかぁ。出かけるとこごめーん。じゃあ。また、連絡するね」

「うん、ごめんね」

「……」

「じゃあ、また」 (もう、出ないけど。)

「……私、またね、バレーボール始めたんだ」

「……」 (え? なに? もうやめて。)

「休憩時間に丸くなってやるようなやつだけど」

「いつかおぐちゃんに………」

 (もうやめて) がちゃん。

私は、電話を切った。

何て言ったんだろう。
いつか、おぐちゃんに見せたい……?
いつか、おぐちゃんも一緒にやろう……?

もうわからない。
そのまま二十数年。


「あー。なんか犯人捕まったみたいだよ放火の」
息子の少し間延びした声に現実に戻された。
今度は棒アイスを食べていたらしい息子がテレビを指さしていた。

「ねー。見ないの? フード被っててわからないけどホームレスかな」

「あ。女かも。すごく太ったおばさん。女浮浪者みたいな」

太った女。 ……。

「もういいから、ほら今日バイト行くんじゃないの?」
私はテレビを見ないように後ろ手にリモコンで画面を消した。

「なんだよ、知り合いの神社だっていうから教えてんのに」

「もう、二十年以上前だから、親しくなかったから」

言いながら用もないのに冷蔵庫を開ける。

本当のことを言っていたのは誰?
どうでもいい。
みんな遠く、あやふやな記憶だ。
犯人も動機も知りたくもない。

私は茜ちゃんと親しくなかった。

バタン と少し乱暴に冷蔵庫を閉める。
牛乳、買ってこないとな。 

…… と思った。

(了)
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