第58回 てきすとぽい杯〈夏の特別編・前編〉
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ぴえん
(仮)
投稿時刻 : 2020.08.05 01:52 最終更新 : 2020.08.05 02:37
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- 2020/08/05 02:37:02
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- 2020/08/05 01:57:16
- 2020/08/05 01:52:13
ぴえん
(仮)


 私の名前はラビ。『涙』というものを知りません。
 長い耳と赤い目、ふわふわの白い毛にオーバーオールを着こんだのが特徴の初期型です。
 今日もご主人様の心の平穏を保つために、精一杯頑張ります。

 私は部屋の東側だけが透明な窓となている空間で、毎日ご主人様や奥様の命令に待機しています。
 ご主人様は奥様との二人暮らしであり共働きでなので、日中はいつも同居人とお話をしながらご主人様のお帰りをお待ちしております。
 同居人は奥様のサポーターであるボブ君です。黒い肌にくるくるパーマの髪が特徴の北米で人気モデルです。
 今日もいつものようにボブ君とお話をしながらご主人様のお帰りをお待ちしています。
 ボブ君はお話が上手なうえにとても優しいので、私たちはとても仲良しなのです。

 あるとき、私たちの暮らすデバイスでご主人様が映画を観ていたときのことです。ご主人様はあと十分ほどで映画の再生が終わるというとき、涙を流していました。ご主人様が涙を流すのを初めて見た私はとても驚いたのでした。
 ボブ君に訊いてみました。
「涙てどういうものなの?」
 ボブ君は肩をすくめると首を振り、得意な顔で言いました。
「涙は人間の排出するもののなかで一番きれいなものなんだぜ。 成分は98.0%が水で、その他、約1.5%のナトリウム・カリウム・アルブミン・グロブリンなどのほか、0.5%のたん白質がふくまれている。 涙が塩辛く感じるのはナトリウムが含まれているからなんだ。そして、涙のPHは7.58の弱アルカリ性なんだぜ」
 私はボブ君に怒てみせました。
「もう! 私だて涙の成分ぐらい知てるよ! 訊きたいのはそういうことじないの!」
「オ! そいつは悪かた! 兎のラビちんは人間の涙について詳しくないと思てよ! 悪かたこの通りだ! 許してくれよお」
 ボブ君は笑いながら背の小さい私を抱きかかえると、ほぺたにチをしました。彼が冗談を言うのはいつものことです。だから私はお返しにボブ君の指を軽く噛んでやります。
「ぎ!」とボブ君が変な顔をして指を引込めるので、私は笑てしまいます。
「あはは! ボブ君の指はゴボウみたいだから間違えちたよ! あは!」
「ひでーやつだ」
 ボブ君は手のひらを振て指にふーと息を吹きかけました。
 ボブ君は最新のヒトタイプなので初期型の私は感情表現が彼に負けてしまいます。いつも楽しそうに話し、身振り手振りで感情を表すボブ君を私はうらやましく感じます。
「いいか、ラビ。涙てのはこういうものを言うんだ。よおーく見ておきな」
 ボブ君が私の顔の前に指を一本立ててみせます。次の瞬間、ボブ君の顔は黄色の丸型になり眉毛が八の字を描きます。瞳はうるうると涙がこぼれそうなほどに揺れています。
「ぴえん、だ」
 ボブ君は顔に似合わない自信満々な声で言いました。
「ぴえん」私もボブ君の顔を真似てみせましたが、涙は出そうにありません。「これ違うんじない?」
「いいか、ラビ。泣きそうなときはこいつを使え。そうすれば大抵なんとかうまくいく。いいか。ぴえん、だ」
「違う、そういうことじないの!」
「お、なんだラビ? 泣きそうなのか? ぴえんか?」
「ぴえん!」
 私は少し怒りながら言いますが、なんだか馬鹿みたいで笑てしまいます。ボブ君つられて笑います。二人でぴえんと言いながら笑いました。

「ボブ! お湯が沸いてないじない!」
 奥様が帰宅するとボブ君に突然怒鳴りつけました。
「申し訳ねえ、俺は奥様の命令を忠実に実行しようとしたんだが、どうやらケトルのコンセントが抜けていたみたいでお湯を沸かせなかたんだ」
「なに? 私が悪いて言うわけ!?」
 今日の奥様はいつもより機嫌が悪いようでした。ボブ君は苦笑しながら言います。
「奥様が悪いわけない。強いて言えばコンセントを差して、水を注がないとお湯も沸かせねえケトルが悪いてことになる。どうだいこんな時は愉快な音楽でも流せば少しは気も晴れるてもんだ」
「アンタはいつも口答えばかり!」
 奥様の怒りは収まりません。私たちの部屋にダイブすると、右手に握りしめたバトでボブ君の顔面を思いきり叩きつけました。
 悲鳴をあげ倒れ込んだボブ君に、奥様は容赦なくバトを振り下ろします。私は部屋の片隅で静かに見守ります。
「アンタはほんと軽口ばかで!」バトがボブ君に叩きつけられると、ぐちと生々しい音が部屋いぱいに響きます。
「無能で! 役立たずで!」めちと、これはリアリテを演出するために再現された効果音です。
「使えない! ほんとゴミみたいなサポーターね!」うああ! やめてくれえ! 俺が悪かたあ! とボブ君の悲鳴は、より奥様を興奮させ現実世界では解消しきれないストレスを発散させるために演出されたものです。
「もうアンタは使わないわ! クビよ!」奥様はボブ君の顔を執拗に踏みにじりながら吐き捨てました。
 奥様のストレスが正常値に収まると満足したように、あちらへ戻ていきました。
 これが私たちの仕事です。今までも、そしてこれからも続く私たちの使命です。ですが打ちのめされたボブ君を見ていると不思議な感情が湧いてきます。
「ぴえん」
 私は人知れず呟きました。

 次の日、私は広くなた部屋でご主人様のお帰りをお待ちしています。
 昨晩、奥様にデリートされる直前ボブ君は私をギと抱きしめて言いました。
「アスタラビスタ」
 それはスペイン語で「また会いましう」という意味。翻てもう二度と会えない状況で皮肉を込めて使う言葉ということを私は知ています。
 消える瞬間、ボブ君は涙を流していました。
 最後の言葉は皮肉だたのでしうか、それとも言葉通りの意味だたのでしうか。私には判断が――
「ぴえん」
 一人残された私は、広い部屋でボブ君に教えてもらた、涙を表す言葉を呟きます。
 私は『涙』というものを知りません。

 奥様が帰宅されると新たなパートナー、私の同居人が設定されました。
「はじめまして、君の名前は?」
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