ぷるぷる
「ごめん、買い物のためにお酒飲んだら気持ち悪くなち
ゃって……」
帰宅すると妻は毛布を頭から被りソファに横たわったまま、身動きが取れないでいた。
「気にしなくていいよ。でも、買い物が必要なら仕事の帰り道にオレが行くって言ってるのに」
「でも……たまには外に出ないと……身体に悪いし、アナタに頼りっぱなしなのも悪くて……」
「いまはそういう時代なんだから気にするなって」
毛布をめくり顔色を覗くと、ほんのり紅潮した頬に眠そうに垂れた目尻の妻がオレを見返した。数か月前まではアルコールを摂取すると顔面蒼白になり、すぐに戻していたことを考えると最近では少し慣れてきているように感じる。なにより世間がこういった状況に陥るまで、まったく酒が飲めなかった妻がわずかにでも飲めるようになってきたことが喜ばしくもあった。そのわずかに色づいた頬と憂いを帯びる瞳に色気を感じた。
「ごはんはオレが作るから楽にしてて」
「うん……ありがと。豚バラとキャベツ、キムチがあるはずだから簡単に炒めてね」
「わかった。それよりそこのブラザーマートの横のアパートに警察が集まってたよ。また腐人の被害かな」
「そうなの……怖いね」
妻のか細い声を聞きながら、冷蔵庫から食材とストレングスゼロを取りだす。プシュっと缶を開けて一口飲んで気がつく。家に居るときは飲む必要なかったんだ、と。
ぼんやりする頭で、豚バラ肉のパックを開けておっとと思った。先にフライパンを火にかけて、キャベツから切った方が効率がよかった。背中から妻のからかうような声が届いた。
「対策とはいえ、アナタは飲みすぎ注意ね」
「わかってるって」
誤魔化すようにもう一口ストレングスゼロをあおった。
2020年、新種のウィルス感染による、血液渇望症状が世界的なパンデミックと化した。
その特徴として、感染初期には軽微な身体硬直と口渇症状。中期では血液渇望状態と意識混濁。末期では極度の血液渇望状態による自我の喪失と全身の腐食が確認された。
そして、一度必要量の血液を摂取した感染者は症状の緩和が確認された。そのことにより中軽度感染者の発覚の遅れや感染の隠蔽を招くこととなり、爆発的に感染が拡大したのだった。
腐人――ゾンビ――感染拡大防止策として世間ではアルコールの摂取を推奨された。
腐人は人間から血液を経口摂取する際、腐人へと変質させるウィルスをヒトの体内に注入することが確認されている。その際、そのウィルスを分解、また、腐人の身体を分解、除去する効果が認められたのが血中アルコールであった。
そのため、日本では満16歳未満のアルコール飲酒を認める法改正がなされ、飲酒運転に関する法制度も一律緩和の改正が決定された。
そして、腐人パンデミックから一年が経過する頃には新たな社会問題が浮上する。
アルコール依存症患者数の爆発的増加が社会問題として取りざたされるようになった。
なお、腐人ウィルス発生と原因は未だ解明されていない。
「ただいまぁ……」
ふらふらの足取りで帰宅すると、妻が「おかえりー!」と上機嫌で玄関まで出迎えに来てくれた。
「大丈夫? 今日はアナタの好きなもつ鍋に好物のカキも入れてみたんだけど……食べられる?」
「うーん……食いたい! けどあんま食欲ない……」
「はあ……ほら掴まって」
「ありがどーだいずぎー」
靴を足で投げ捨てて、妻に寄りかかると引きずられるようにリビングまで運ばれた。
ソファに沈むようにもたれ掛かると、水を持ってきた妻が横にぴったりとくっついてきた。
「ほら水飲んで少し落ち着いて」
少し前までは軽い飲酒でも、妻は酒臭いと近づこうとしなかったが腐人感染防止のため少しずつお酒が飲めるようなると、酩酊状態で帰宅しても嫌がることなく介抱してくれるようになった。心なしかスキンシップも増え、本当に自分は良い伴侶に恵まれたんだなあ、と感謝の念しかなかった。
渡された水を飲み干し一息つくと、オレの脇腹をぷにぷにしながら、わずかに責める調子で妻が口を開いた。
「で? どうするのご飯、食べるの?」
その顔を見ると酒で腹の膨れた状態でも、断る訳にはいかなかった。
「食べます! ちょっとだけ! カキとホルモンだけでも!」
「はいはい、少しはお酒減らさないと。依存症になっちゃうよ。そんなにアルコール摂取しなくても感染防止には問題ないってテレビでも言ってるでしょ」
呆れながらキッチンに向かう妻の背中に「ごめんねえ」と言いながらぼんやりと思う。
妻が少しずつアルコールに慣れてきたように、継続した飲酒によって人体は少しずつアルコールに対する耐性を持ちはじめる。
現在では通勤、通学前の5%以下のアルコール摂取、昼食時に外出が必要な場合に限りの飲酒、下校、帰宅時における最低限の飲酒が推奨されている。だが、元々アルコールに強いヒトや酔うことに耐性を持ちはじめたヒトが、感染防止に対する懸念や不安や、アルコール摂取による高揚感から必要以上に飲酒してしまう傾向がみられているということだった。
「わかってるよおー。最小限、最低限、最下限で飲みますってえー。三最を守って飲みますー」
「全然わかってなさそうなんだけどー」
とんすいに鍋の具をよそった妻が戻ってくると、ほわほわと食欲のそそる匂いが立ち込めた。
「お肉多めに入れておいたからね」
「さいこー!」
出汁とニンニクの香る湯気に先ほどまでとは一転、急激に涎があふれ出てきた。「いただきます!」と言うのももどかしく、皿にありついた。
十二月になると腐人感染拡大第二波として官邸より、更なる警戒と対策防止の徹底が発表された。
結婚記念日でもあるクリスマスイブは毎年、少し奮発したディナーにするのだが、今年ばかりは自宅でささやかに祝うことにした。
「ジャジャジャーン!」
「おお……おおおぉぉう!」
仕事帰りにシャンパンとケーキを買ってきたきたオレを待っていたのは、妻の自信満々の笑顔と豪華絢爛な食事の数々だった。
ローストチキンにローストビーフ、骨付き肉はラムチョップかな? クリスマスには合わないがオレの好きなもつ煮も用意してくれている。手のひらサイズのハンバーグにはケチャップでニコちゃんマークを描いていた。
「お肉いっぱい使ったから部屋の中ちょっと生臭いかも、臭くない?」
「全然! っていうか肉料理ばっかじゃん!?」
「すごいでしょ?」
「すげー! やったー! うまそー!!」
掛け値なしに喜ぶと妻は右腕で作った力こぶに左手を当てて「いえい!」と得意そうに意味不明なポーズをした。
腐人感染拡大が取り沙汰された当初はいつも青い顔をしていた妻だった。だが、一年も経とうという今では、以前と同じように、いやそれ以上に元気で楽しそうな姿をみせてくれて安心するとともに、今まで以上に幸せな気分が湧きあがってきていた。
現在では腐人感染拡大の再防止とともにアルコール依存症対策も社会問題として取り沙汰されるようになっている。
このまま変わらぬ生活を送るためにも、今まで以上に感染対策と、アルコール自己管理を徹底しなければいけないな。妻の笑顔見ていると強く、そう思えた。
「今日は私も少し付き合うからね!」
妻は目の前のご馳走に圧倒されているオレから、シャンパンを奪い取ると「ぽぉん!」と問答無用でコルクを吹き飛ばしていた!
「いえーい!」
お前浮かれすぎだろ、という言葉を飲み込むとオレも「いえーい!」と雄叫びをあげた。
ベッドに潜り込み毛布を頭から被ると、刻一刻と迫る明日という日常に憎しみと恐怖と不安に湧き上がってきていた。
ぷるぷると震える手はアルコールの離脱症からではない。明日が怖いのだ。
「……ねえねえ」
隣に横たわる妻が、背中を向けてぷるぷるしてるオレに腕をまわし耳元に甘く囁きかけた。
「明日も早いからダメ」
意識が覚醒するより早く、妻の機先を制するようにオレはいった。いや本当はオレだってしたい、ぷるぷるがしたい!
「なんで震えてんの? やっぱり飲みすぎて依存症になっちゃってるんじゃない?」
「……」
「アルコールに耐性がつくと酔いにくくなるから、自然と飲む量も多くなっちゃうんだよ。テレビでもやってるでしょ」
妻が諫めるように言う。そんなことはもちろん知っている。
「依存症になったら、仕事休んで入院も必要になるんだよ。大丈夫?」