終点の氷細工屋
誰かの呼ぶ声が聞こえる。
寂しげな笛のような音が遠く響く。振り向いてあたりを見回しても誰もいない。細い道。辺りは真
っ暗な闇だ。踏み出したらその先、足元に何も無い。不安定な姿勢になって仰向けに倒れそうになり、握りしめた大切なものが、開いてしまった手のひらから離れていく。
「大切なもの」はきらりと光って一瞬空中に浮き、白い花の咲く繁みの闇に消えた。
いつもの夢だ、早く醒めなければ。
***
「お父さん?お父さん?大丈夫?」
目を開けると こちらを覗き込む女性の輪郭が見えた。目鼻立ちはぼやけて確認することができない。ここがどこで 今がいつなのかも掴めなかった。視界と頭の中が少しずつクリアになってきて 相手が娘の由香だということがやっと解る。
「なんだ、来てたのか」
「来てたのかじゃないわよ、またヘルパーさん怒鳴りつけたでしょ。相談受けたわよ」
そうだ、ベッドサイドのテーブルから食器を取り落として割ったのは自分だ。けれど、簡単に代わりのものを差し出し、子供を慰めるような物言いをされ、頭に来たのだ。食器だけではない、この家のもの全て、懸命に働いたことの証、長年掛けて選び、集めたものだ。
「あんな安物の皿で食事なんかできるか」
「あら、私が選んだのよ。丈夫だし、軽いし、これからはこっちの方がいいと思って」
*
そっぽを向いていても、懲りずあれこれ話しかける由香を振り切って外に出た。耳も悪くなり 苦労して聞き取っても何を言っているのか解らない時もある。コップに挿した雑草を見せて、何やら花言葉の講釈をしていた。あの白い花、ああ名前は何だったか。聞き返すのも面倒だし 理解したいとも特に思わない。どうせ大したことではないのだ。
角を曲がり間違えたのだろうか、目の前の風景に違和感を覚える。見知らぬバス停が見える。この辺りは長く住んでいるのだ、一筋間違えたからとて 見たこともない道なんぞに出くわすものではない。何かの勘違いだろうと 目を凝らして前を見、振り返って、来た道を確かめる。
バス停は古臭い木造で、ベンチの周囲に囲いと屋根がある。錆が浮き、文字も消えかかった時刻表が掲げてある。近づくと、柱の陰に隠れて見えなかったのか、女の子がひとり座っていた。
花の刺繍の入った丸襟の水色のワンピース、白いレースのカーディガン。肩より短くまっすぐに切りそろえた髪。色白で手足も細くひ弱な感じがするが、姿勢良く座る様子には育ちの良さと芯の強さが感じられる。
「すみません。今何時ですか?」
急にあちらから話しかけられて 少しうろたえる。子供と話をするなんて 何十年ぶりだろう。腕を見たものの腕時計をしていなかった。その無意味な動作を誤魔化すために 咳払いをひとつ、する。どこかで会ったことがあるだろうか。誰かに似ているのだろうか。初めて会った気がしないが、何も思い出せない。
少女の横顔を窺っているうち ふと知っている香りがしたような気がした。草の葉の香り、花の香り…何だろう 何かひどく胸が痛いような苦しいような気持ちになる。
*
少女に付き合うつもりなんて特別になかったのだ。ただ、目の前に停まった旧式のバスは前乗りで、保護者だと思われたのか運転手に強く促され、乗る羽目になってしまった。日は暮れかけており、バスの中は薄暗くて他に乗客は一人もいない。子供を一人で放っておくことができないような気になったこともある。
「ずっと『氷細工屋さん』だったのよ、わたし」
一番後ろの長い座席に少しだけ距離を置いて腰かけると 少女は窓の外を眺めたまま言った。
「氷細工屋」という聞きなれない言葉と「だったのよ」という語尾が奇妙に聞こえたが 反対側の窓の外を眺めたまま、少女の言うに任せて黙って聞いた。子供らしくない古臭い言い回しを交えながら その子が語ったのはこんな話だった。
──お店を開くときは 鳥の形をした笛を吹くの。少しもの悲しくて、でもとっても優しい不思議な音色。
お店っていっても カウンターと小窓がひとつあるだけ。お客様が差し出すお代金を受けとると、わたしは小さな氷の塊を取って 小刀で細工を始めるわ。羽ひとつひとつ細かい細工の入った鳥の形だったり 薄い花びらが何枚も重なった、それは繊細な花だったりするの。それぞれのお客様に「合わせて」作るのよ。わたしがつくる氷細工はね、時間が経っても簡単に溶けたりはしないの。
小銭を握りしめ順番を待つこどものお客様。自分のために何を作ってくれるのか ドキドキしていることが目の輝きから解るのよ。つんと澄ましたご婦人や難しい顔をした紳士も来る。たいていが「何を作ってくれるかなんて気にもしていません」っていう顔で並んでいるの。だけど「どうぞ」、と手渡した氷細工が思ったより単純な形だったり こどものお客様より「つまらない」動物だったりすると ちょっとだけ、がっかりした顔をして「別に期待なんてしていなかったし」「大人はこんなもの欲しがらないものだ」って、順番待ちのこどもにあげてしまったりするの。せっかく並んでいらしたのにね。
窓の外の空の茜色が、だんだん紫色に変わってゆき 樹や家々が影絵に変わる。道は先に行くに従ってどんどん細くなり 舗装もされていない石ころだらけの田舎道に入っていった。長く走っているように思うのにバス停で停まる様子もなく、何のアナウンスもない。少女の声だけが静かな車内に緩やかに流れる川の水音のように響いていた。
「氷細工屋さん」の話はそのまま続いていたが、ままごと以外にこの子が「店をやっていた」なんてことはあり得ないし、そんな店が実際にあるものとも素直に信じられず、とはいえ子供相手に疑問を投げかけたり嘘つき扱いをしたりするのも面倒だ。どうせ夢だか空想の類だろうと思いながら、相槌を打つ気にもなれず目をつぶって眠ったふりをした。
***
「あら、熱い。熱、ありそうね」
ああ、なんだ。夢を見ていたのか。気づくとまだ由香が傍にいた。額に当てられた手が ひんやりと心地いい。
あの一輪挿しの白い花は「どくだみ」だ。急にその名前を思い出す。同時に由香の語った花言葉の話が今頃頭に響いて来た。
「雑草は全部抜いて綺麗にしろって庭掃除の人に言いつけたらしいけど、これってお母さんが植えたのよ。覚えてない?せんじ薬や化粧水にできるからって」
「せっかく金に困らないようになってやったのに、あいつの貧乏性は治らなかった。婆さんと同じだ」
「亡くなったお祖母ちゃんやお母さんのこと悪く言わないで。お父さんの頑固で我儘な性格にお母さんたちがどれだけ泣かされてたか解ってないでしょ」
由香は早くから家を出て、勝手に結婚し勝手に離婚した。戻って一緒に住むとは言わないものの、最近は時々訪ねて来るようになっていた。年月が娘を必要以上に逞しく変え、何を言っても応えない。怒ってもむしろ面白がるような目で見返してくる。
「どんなに抜かれても負けないこの花って何だか健気よね。ドクダミって地下茎でどんどん増えるんだって。花言葉は『野生』、それから『自己犠牲』。こっちはお母さんにぴったり」
由香の言うことなど聞こえないふりをして目を閉じ、先ほどの夢について考えているうちにまた眠りに落ちる。
*
「お客さん、お客さん、終点ですよ」
聞いたことのある声だ、と思った。暗いせいなのか運転手の顔が見えない。目を凝らしてもその顔だけが薄い靄でもかかったように分からないのだ。誰の声に似ているのだろうと思いながら立ち上がり、隣に座っていたはずの少女を探す。乗るときにバス代を支払っていないことに気づき、運転席横の運賃箱に近づくと
「もう頂いておりますよ。それより…」
運転手は先に降りた少女の方を手で示した。慌てて後を追って降りた。
「払わせてしまったのか。いくらだったかな?」
ポケットを探るが財布が見当たらない。当惑していると少女はこちらを見上げて微笑んで答えた。
「このバスね、お金は要らないのよ」
からかわれているのだろうか。最初からおかしなことばかり言う子だと思っていると 少女は続けて当然のことでもあるように言った。
「懐かしむ気持ちとか、思い出そうとする気持ちでバスが動くのよ」
少女は軽い足取りで道を先に進んでいく。低い空にも星がまばらに輝き始めている。
馬鹿々々しいと少し苛立ちを感じながらも、ふと思い出したのは バスの運転手の声。あれは初めて雇った運転手の声と似ていた。会社を興し軌道に乗せ落ち着くまでの数年間、毎日のように朝から愚痴を聞いてくれた。穏やかで優しいずっと年上の彼。
些細なことでクビにしてしまったのだ。余計な口を出すな、何様だと思っているのだ、お前の意見なぞ求めてはいないと詰った時、向けられた寂しげな目さえ癇に障った。元には戻せない自分の言葉に、ずっと「正当な」理屈をつけて 幾度も苦い気持ちを押しやった。彼以来 運転手相手に自分の弱みを見せたり、気持ちを打ち明けたりするなんてことは一切しなくなった。
長く続く煉瓦塀に沿って歩き 少女が立ち止まったのは大きな屋敷の門の前だった。
「ここよ、覚えてる?」
後ろ姿を見せたまま少女は言う。暗闇の中で目を凝らす。
古い記憶の中の道と確かに似ている気はするが、それはこんな細い田舎道だったろうか。煉瓦の塀はこんなに低かっただろうか。大きな門のある家、小道の両脇にどくだみが群生していた。香りが纏いつく。煉瓦塀の反対側は暗い繁みになっていてその向こうは小さな川が流れている。
「貴方はこの繁みが怖かったのよね?だからいつも小走りで通っていたわ」
くすくす笑いながら少女は言う。それは私が小学生の頃のことだ。
だんだんと思い出していたのだ。一人きりの通学路。道端のどくだみの香り。擦り切れた靴が水たまりで濡れ、ぬかるみでドロドロになって泣きそうにな