追憶の面影
夕食の準備をしていると、玄関のドアが重たい音を立てた。どことなく疲れた様子の「ただいま
ぁ」という帰宅を告げる声がその後に続く。
「パパだ!」
先月5歳になったばかりの娘は、耳聡くそれらを聞きとどめると、それまで熱中していたはずのアニメをほっぽり出して玄関への短い廊下を駆けていった。
「ちょっと! 海音!」
リモコンをソファに放り投げた娘の行儀の悪さを反射的に咎めても、誰もいないリビングに虚しく響くだけだ。
玄関の方では「パパ! おかえり」「ただいま! 海音! いい子にしてたか?」と楽しそうな会話が漏れ聞こえるばかりで、夫は一向に部屋の中へやってくる気配が無い。
「まったく……。娘には甘いんだから」
甘やかすばかりで躾を全て私に丸投げする夫にため息が出る。
もっとも、私自身もあまり本気で嘆いている訳では無い。娘が父親と仲良くいられるのも、せいぜいあと10年ほどだ。小学校、中学校を経る度、どんどんと距離は離れて行く。
かつての私と、同じように。
父親が娘を大っぴらに可愛がれるのは期間限定なのだ。そう思えば、溺愛と言っていい夫の態度も、多少は容認できる。
「お帰りなさい。ご飯の準備、もう少しかかるから海音をお風呂に入れてあげて」
玄関へと続く廊下に向かって、声を張り上げる。キャッキャとはしゃいでいた2人が揃って「はーい」と返事をしたのが聞こえた。
「パパとお風呂、久しぶりだねぇ」
「そうだな、今日はパパが髪を洗ってあげよう」
「やったぁ!!」
小さい子特有の甲高い笑い声が響く。それは手元のシチュー鍋から立ちのぼるおいしそうな匂いと合わさって、私の心を柔らかく包み込んだ。
『幸せ』なんだろうと思う。優しい夫と愛らしい娘がいる。これ以上を望むのは罰当たりにも程がある行為なのだろう、とも。
でも、今が幸せだと思えば思うほど、満たされない心を強く感じてしまう。
『ごめんね、杏』
――どうして、ここにいるのが。彼じゃないのだろう、と。
夏の終わり。海の見える部屋で過ごした最後の夜。あの時の彼の悲しそうな顔を思い出しては、走りだしたくなる衝動をグッと堪える。
どんなに望んだところで、求めたところで。もう手には入らない。虚しさで壊れそうな心をいやすため、優しい今の夫と結婚して、子供を作った。
忘れたかった。その一心で、大きくなるお腹に唱えたものだ。
『この子と一緒に、あの人の面影も私の外に出ますように』
まさかあの子を産み、育てる中で、あの時の言霊の強さを思い知ることになろうとは。
『――毎日のお洗濯に、この柔軟剤』
点けっぱなしのテレビの声に、ハッとする。画面いっぱいに、私の大好きだった笑顔が映る。火を点けたままの鍋をそのままに、リモコンに走り寄る。
――ブツッ
必死でテレビの電源を消し、肩で息をした。エアコンの稼働音、沸騰する鍋の音、暖かな空気。それらすべてが遠のいて、波の音が耳の奥に木霊する。
彼が欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。だけど同時に、彼のいない幸せな生活を壊されたくない。幸せな生活を捨ててまで彼を追いかける勇気も、優しい夫を裏切るだけの激情も、今の私にはどちらも無かった。
母にも妻にもなりきれない。ただの臆病で愚かなオンナだ。
「お風呂出たよー」
後ろから掛けられた声に、飛び上がって驚き振り向いた。きょとんとした表情の娘が、声も出せない私をじっと見つめている。
「ママ、どうしたの?」
「……な、なんでもないのよ」
ごめんね、考え事してたからびっくりしちゃった。すぐご飯の支度をするから、パパに髪を乾かしてもらってきなさい。
早口で辛うじてそれだけを言って、娘を風呂場へ逆戻りさせた。すぐに「パパぁ」と甘える声がしたから、不自然な様子に気付かれてはいないらしい。
私もキッチンに戻り、沸騰寸前の鍋の火を落とした。しばらく動けないまま、目を閉じる。
娘は、いつか気付くだろうか。……いつか気付いてしまうだろう。
『この子と一緒に、あの人の面影も私の外に出ますように』
あの時の願いは、確かに叶った。今は画面の向こう、違う世界の住人となった昔の恋人。心から愛し、忘れられずに苦しんだ彼の面影。
大きな瞳、まっすぐな鼻筋。笑うと右にだけできる笑窪、困った時に左に首を傾げる癖。
『ママ』
それは確かに、私の外に出て行った。あの時産んだ、娘と一緒に。
私は今も娘を通して、彼の面影を追いかけている。